スタンピード・フェスティバル - "Ready to Run"

「はいしんこきゅうー」
 ラジオ体操の掛け声のような間延びした声がして、辛うじて気道を開く。右足の膝の辺りに激痛が走って、その痛みがズキズキとした疼きに変わるとともに、ようやく視界が開けてくる。ここは『よっちゃん』裏口前、嵐の細長い身体は、光彦の二本の太い腕によってその広い胸の中に取り込まれていた。有体に言えば、がっしりと抱きしめられている。 なにがどうなって、この場所に、この様な体勢で立っているのか。眼前にぼんやりと滲む『居酒屋 よっちゃん』の文字は、見覚えのあるものであった。
「……なにし……て……だ……」
 切れ切れの息の隙間から漏れたのは、未だ自失から抜け出していないような曖昧な呟きだった。
「お前のテンパり方がフツーじゃねぇからだ。ちっと落ち着け」
「お、俺……ここ……?」
 嵐の意識は、留守電のメッセージを聴いてから今このときまで、すっかり分断されていた。大脳から発せられた一つの指令に従って肉体が細胞単位で発奮し、嵐の意識とかけ離れたところで神経と筋肉が連動した結果が今だ。嵐は動物的なスピードで、商店街の人ごみを縫いながら『よっちゃん』まで疾走してきた。睡眠不足に悩まされ続けている嵐の体力ゲージは疾うにマイナスなわけであるから、そのスピードが百メートル走で校内記録を保持する篠原のタイムに肉薄していたことは、神が降りていたとしか言いようがない。おまけに、背中にはむき出しのフライングV。どこで転んだのか、一張羅のレザーパンツの膝頭には大きな穴。息継ぎもままならぬ恐慌状態で全力疾走してきたせいか呼気音は引きつり笑いのようで、顔面は蒼白。親友の名を狂的に連呼しながら『よっちゃん』の裏口を猛打していた嵐の尋常でない様子を目の当たりにした光彦は、衝動的に抱きしめてしまったというわけだ。
 以毒制毒、嵐は僅かに平静を取り戻したかに見えたが、
「……落ち着いたか?」
 と訊かれても、脳裏に甦ったいくつかの重要なキーワードが再び嵐を恐慌へと突き落とす。バッと身体を開いて光彦の両腕を振りほどき、嵐は情けなく怯えきった顔を光彦に振り向けた。
「純生が……ッ! 純生を探さないとッ!!」
「俺も今、留守電聞いた」
 と答えた光彦は嵐とは対照的に無表情で、その反応の曖昧さが嵐の焦燥を増幅する。
「なんでそんなに落ち着いてんだよッ! 誘拐って、純生がッ! さ、探さないとッ!」
「だから落ち着けってッ!」
 唐突にきつく転じられた口調に驚いて、嵐は眼を見張った。
「はっきり誘拐とは言ってねぇだろ? ちゃんと留守電きいたのかよ?」
「留守電……俺……留守電、聞いて……」
 ライダースの裾をぐっと掴んだ嵐の右拳が震えている。

 メッセージは、嵐と光彦の携帯にほぼ同じ内容で記録されていた。最初のメッセージは、純生が嵐らと共にいるかを確認するためだけのもの、次に純生の行方、それから件数を重ねるごとに『ひろさん』の声は切迫した不安を滲ませるようになり、最後に残されたメッセージには、誘拐の可能性があることをはっきりと示唆していた。
「無闇やたらに探し回ったって純生は見つからねぇ。まずは純生ン家だ。監視カメラの映像を確認して欲しいってメッセージあったろ?」
「か、監視カメラ? 知らない、俺、聞いてない」
 嵐の記憶に残されていた単語は二つのみ。「行方不明」、「誘拐」――この恐ろしげなキーワードを耳にするなり、嵐は早々に恐慌を来たしてしまい、メッセージの内容を正確に把握していない。光彦は、混乱頻りな様子でぶんぶんと首を振る嵐をちらと見て、小さく舌を打ち鳴らした。
「ちっと待ってろ」と言い残して足早に店に消えた光彦は、キーを片手に数秒で嵐の前に戻ってきた。裏口の傍らに停めてあったスーパーカブに跨り、ハンドルにぶら下がっていたヘルメットを棒立ちしている嵐に被せると、気合のキック一発でエンジンをかける。光彦は、見事なアクセルターンで車体を半回転させた。
「ぶっ飛ばすぞ、しっかり掴っとけ」
「わ、わかった」
 嵐がリアキャリアに飛び乗る。その加重で前輪が浮くと同時にアクセルを開いたせいで、カブはウィリー状態で急発進した。咄嗟にステップに立ち上がり車体のバランスをとった光彦の腰に、嵐は必死ですがり付いた。

 根岸邸の門前は、不気味はほどに静まり返っていた。カブを降りた二人が呼び鈴を鳴らすまでもなく、厳しいアーチ門が鉄の呻きとともにゆっくりと開き始める。インターホンからは、「玄関を入って左手の廊下、つきあたりの部屋です」と、女性の声。嵐と光彦は、ようやく二十センチほど開いた門扉に強引に身体を捻りこませて、ガーデンライトの薄明りを頼りに、玉砂利に足をとられながら玄関へと猛ダッシュした。
「お待ちしていました」
 壁の一面を占有しているいくつものテレビモニターを見上げたまま、『ひろさん』は背中で二人を出迎えた。『ひろさん』を取り囲むようにして立つのは、闇色のスーツに身を包んだ屈強そうな五人の男。それぞれの片耳に仕込まれた受令機からは透明のカールコードが襟の中へと伸びていて、ここが日本でなければ腋の下にシグ・ザウエルのハンドガンを隠し持っているだろうハリウッド映画に登場するようなシークレットサービスだ。
 嵐と光彦の視線は窓の無い部屋を一巡りしたあと、『ひろさん』の色気の無い束ね髪に留められた。鼻息荒くやって来たはいいが、眼の前に展開された非現実的な光景に、すっかり色を無くして立ち尽くす。
「彼らは、純生様のお爺様の私兵です」
 男たちとの緊迫した会話の合間に、『ひろさん』は二人の疑問への回答を早口で挟み込んだ。その声で我に返った光彦は、携帯を取り出し素早くいくつかのボタンを操作した。嵐もはっとして、
「あ、そうか! け警察、警察にッ!」
 大慌てでライダースをまさぐって携帯を捜すが、
「意味ねぇよ、警察なんて」
 光彦が言い放った一言で、動きを凍らせる。光彦は、携帯の向こう側の誰かと小声で短い数言を交わし、すぐに通話を切った。
「誰にかけたんだよ?」
「頭数そろえねぇとな。とりあえず、信用できそうなヤツ何人か学校に集合かけとくように指示した」
 聞くなり、嵐は奇妙に唇の形を歪めて差し俯いた。己が無力さを思い知らされたようで、悔しさのあまり奥歯が鳴った。だが、こうしている間にも純生に途轍もない危険が迫っているようで、嵐は矢も盾もたまらずに光彦に詰め寄った。
「どうして警察が意味無いんだよ、そういう組織だろ!?」
「純生だって立派に高校生の男だぜ? 夜十時に帰らねぇぐらいで、今時サツが動くかよ」
 一瞬、言葉に詰まるが、すぐに切り返す。
「だって純生は非力で、あんなだし……ッ!」
「バカ野郎、純生が“あんな”だから、余計に警察はまずいンだろうが。……意味、解るか?」
 今度こそ嵐は、返す言葉を失った。もし純生が、通学電車で純生の尻に手を伸ばすような下劣な輩の餌食になっているのだとしたら――。
 戦慄が、つま先から頭の天辺へと稲妻のように突き抜けていって、嵐は両肩をかき抱いてぶるりと身震いをした。 動揺と緊張で焦点が定まらなかった瞳が閃き、霞んでいた思考が一気にクリアになる。
「……ぶっ殺す……ッ! 切り刻んでやるッ!!」
 怒りに擦れた声で、見えない誰かへと凄んだ。嵐の頭脳はかつてないほどのスピードで、しかも明晰に回転しはじめていた。今にも部屋を飛び出さん勢いで殺気立つ嵐を、光彦がその手首を掴んで制する。同じ思いでいるのかと見上げてみれば、光彦は能面のように無感情で、それがかえって裡に秘めた非情さを滲ませていて不気味であった。

 そうこうしているうちにも、『ひろさん』は壁面のモニター群と手元のパソコンモニターを交互に確認しながら、淡々とした口調で男たちへ指示を出していく。パソコンモニターに映し出された地図を数区画に分け、近隣に設置されている防犯カメラや公園、建物をてきぱきとマーキングし、プリントアウトしたそれらを男たちに渡す。最後に人差し指だけの静かなGOサインを送ると、闇色の一団は整然と、だが機敏な動きで、ドアの向こう側に広がる暗がりに擬態するように姿を消していった。
 椅子をくるりと回転させてようやく二人に正面を向けた『ひろさん』は、黒ぶち眼鏡のレンズをキラリと光らせて、嵐と光彦の上から下までにさっと視線を走らせた。金髪頭から突き出ているのはむき出しのギターヘッド、光彦は『よっちゃん』エプロンを着たままで、珍妙な漫才コンビのような出で立ちに一瞬眉を潜めるが、すぐさまモニターへと向き直る。『ひろさん』がビデオデッキのような機器のフロントパネルに装備された大きなジョグを一捻りすると、それぞれ異なった角度からの映像を映したモニター群が、ノイズを走らせながら巻き戻しを始めた。
「七時二十四分の映像です」
 赤外線フィルターを通したモノクロ映像は酷く不明瞭で、嵐と光彦は身を乗り出して画面を注視した。
 門灯をぼんやりと映していただけの暗い画面に、頭にすっぽりとフードをかぶった細身の男が現れる。男は、何かを落としてしまったような素振りでいったん門柱の前で腰を折り、すぐに身体を起こして何事もなかったように歩き出す。僅か五秒程度の映像――ただの通行人にしか見えない。嵐と光彦は、『ひろさん』がこの男に着目した理由を探そうと、両眼を皿のように見開いた。
「結構、立っ端があるな。嵐くらいか……?」
「あ……これ、花束ッ!」
 門柱の袂に、男の出現前には存在しなかった白い物体が残されていることに気付いて、嵐が叫んだ。
「……花束ぁ?」
 光彦が問い返すが、『ひろさん』は先刻承知とばかりにジョグをまた一捻りして時間を進めた。画面の右端で忙しくカウントされていた数列が、男が過ぎ去ってから数十分のところでスローダウンする。
 純生は、とぼとぼと項垂れた様子で画面の左隅から現れた。その小さく丸まった背中を認めるなり、嵐の額に複雑な皺が刻まれた。今、どんな思いで何処にいるのか――決壊しそうな涙腺をどうにかやり過ごして、嵐は再びモニターに集中する。

  純生が、スクールバッグから何かを取り出した。すかさず、「門を開けるためのリモコンです」と『ひろさん』が補説する。リモコンの先を門の方へ向けた純生の背後に生じた光点が一気に画面全体へと拡がり、景色が昼間のそれへと変貌した。
「確かに……花束だな」
 黒いワゴンが徐行気味に画面を通り過ぎる間、ヘッドライトを割れた鏡のように映ずるのは、花束に巻かれたセロファンだった。花束の存在に気づいた純生が門柱へ足先を向ける。スクールバッグを地面に置き、代わりに花束を抱き上げた純生は、しばらく花の匂いを嗅いだり、しみじみ眺めていたりしていたが、やがて携帯を取り出してせっせと弄くりだす。純生は、ちょうど門灯を背負う位置に立っていてカメラからは逆光になっているが、携帯のバックライトが純生の口許に刻まれた微笑みをうっすらと照らし出していた。
「純生は、俺にメールしてるんだ。この花束を俺からのプレゼントだと勘違いして……ありがとうって、嬉しいって、メールで。……俺じゃないんだよ、光彦。俺はあいつを部屋に置き去りにして、出かけちまって……」
 モニターを凝視したまま自らを責め立てるように言う嵐に、光彦はかける言葉を見つけられないでいる。光彦もまた、己を責めていた。店に訪れた純生が、何か言いたげな素振りだったのにも関わらず、追い返してしまったからだ。

 ようやくメールを打ち終えたらしき純生が、携帯をスクールバッグの外ポケットに戻す。バッグを取ろうとしてしゃがみこんだ純生は、不意に顔だけを道路の方へ向けた。視線の先に何があるのか画面からは確認できないが、純生の意識がある一点に集中しているのは判る。やがて純生は、一度はその手に取ったバッグの持ち手をはらりと落として立ち上がると、花束を抱えたまま、引き寄せられるような足取りでフレームの外へと消えていった。そうして、門灯の薄明かりとスクールバッグだけがぽつりと残された映像は、いまだ再生状態にあるにも関わらず、無意味な一枚の白黒写真と化した。
「GPS機能が装備されている携帯も、これでは意味がありませんね……」
 『ひろさん』は悄然とそう言って、部屋の片隅に眼を遣った。そこには純生のスクールバッグが置かれていて、ポケットからは見慣れたストラップが垂れていた。
 モニター群が再び忙しないノイズの波に覆われても、嵐と光彦は声もなく棒立ちしていた。想像していたのは、映画やドラマで見るような拉致の絵図――途中、画面に登場した黒いワゴンから怪しげな男たちが飛び出てきて純生を取り囲み、麻酔剤を嗅がせて車中に引きずり込む――そんな映像だったら、これほど混乱しなかったであろう。純生は確かに、なんらかの目的を持って何処へかと、自らの足で赴いている。

「この男に心当たりはありませんか?」
 と訊かれて、はっとしてモニターに意識を戻す。画面には、再びフードの男が映し出されていた。四方から撮影されているというのに、男の顔貌はちらりとも映像に捕えられていない。痩身で上背のある男という以外に特徴らしい特徴も見出せず、嵐と光彦は途方に暮れた。
 『ひろさん』は、幾度と無く巻き戻しと再生を繰り返し、二人にフードの男の映像を根気良く見せ続けた。そのうちに一見どうということのない男の動作に、監視カメラの死角を熟知しているかのような慎重さが窺えてきて、用意周到に計画された犯行なのではないかという空恐ろしい想像が頭をもたげ始める。
「身代金の要求は?」
「今のところ、連絡はありません」
 光彦の問いに『ひろさん』は重々しい声で答えた。せめて営利目的の誘拐であれば、公然と国家権力に介入を要請することができるし、なにより犯人が目的を達成するまで、人質である純生の身に危害が及ぶ可能性は低い。「タイミングが良すぎるな」と一人ごちた光彦に、嵐が同調して頷く。嵐と純生が光彦に花束を贈ったのは、つい数日前のことだった。だがその花束はそもそもが意趣返しであり、つまりはただの嫌がらせだ。本来、男が男に花束を贈るなど、純生の容貌を差し引いても常軌を逸した行為であるに違いなかった。
「こいつ、なんで花束なんか……桜新の奴か?」
「有り得るな。だが純生のあのハデな外見じゃあ、何処へ行っても目立って仕様がねぇ」
 嵐は、ふと秋葉原での純生の出で立ちを思い出した。ともすれば却って衆目を集めてしまいそうなほどに、眼鏡や帽子で顔を覆い隠した姿に、親友という名の防壁が失われたときに純生が直面する危険の実態が滲み出ていた。
 秋葉原で酷い目にあったことがあると告白した純生、風呂は貸切でなければ嫌だと頑として譲らなかった純生、メールで送られてくるらしき変態的な写真――いくつもの符号を、今更ながらに純生とのかつての会話の中に見出して、嵐は、己の不甲斐無さに吐き気すら覚えた。
 ――守ってやらなければいけなかったのに。
 どうしようもないほどのじれったさが嵐の血が沸き立たせる。それでも、視線はぶれなかった。瞬きをも忘れて、嵐は充血した眼を鋭くモニターに向けていた。

 なにしろ、赤外線カメラの映像は粒子が粗く、照度も低い。その上、広角レンズで撮影されているため、虫眼鏡を通したように画面全体が酷く湾曲している。だから、嵐が“その変化”に気付いたのは、奇跡にも等しい。それは、古い映画のスクリーンの片隅に、無作為にほんの一瞬現れる白い埃のような、あまりにも小さな変化であった。
「今ッ! 今のはッ!?」
 嵐の鋭い声に『ひろさん』はすばやく反応し、全てのモニターを凍結した。ゆっくり、一コマずつ巻き戻していく。光彦は、モニターのひとつにずいと顔を寄せ、顎を親指で撫でながら矯めつ眇めつしている。
「……なんだ? ……こりゃ糸くずか?」
 鮮やかな手つきで機器を操作して、『ひろさん』が嵐の指差している箇所を拡大する。慎重に検めてみれば確かに、ほんの数コマの画像に、男が花束を置くために屈んだ瞬間にフードからちらりと白い糸のようなものが覗くのが記録されていた。
「……白い、髪の毛? 白髪……で、長髪?」
 ひゅっと息を呑んだ光彦の唇は、
「馬鹿、こりゃ金髪だッ!!」
 次に雷のような怒鳴り声を吐き出して、嵐を驚かせた。
「ガリで嵐と同じぐれぇの立っ端で金髪ロン毛のヅラ被った奴が、ちょっと離れた位置から純生に手招きしてみろ。あいつ眼が悪ぃから嵐だと思い込んで尻尾振ってついてくぞッ!」
 嵐は、眼を丸くして光彦を見た。
「純生……眼が悪いのか? だって眼鏡は変装用で、あいつ授業でも眼鏡なんて……」
「授業もクソも、純生はいっつも下向いてて、黒板睨んでるとこなんて見たことねぇだろ? 俺たちがそばにいないと顔も上げらんねぇほどの対人恐怖症だぜ? あいつは自分の部屋じゃ眼鏡だよ。俺と嵐は立っ端と金髪で見分けてンだと」
 いつの間にか、モニターにはまた純生の後姿が映し出されていた。掠れきった細い声で、呆然と嵐が呟く。
「純生が、俺とこの男を勘違いして……? 俺に向けるような笑顔をこいつに向けて、ついていったって言うのかよ……。俺でも知らないようなことを知ってるって、こいつ……」
「毎日のように純生を観察してる奴だろうな。あるいは学校の身体検査かなんかで、純生の視力を知ったか……」
「選抜Aの奴か?」
「まずはそこからだな。……嵐、学校いくぞ」
 嵐と光彦は顔を合わせて、深く肯き合った。推測の域を出ない仮説を断定的に論じてしまっていることに、何ら自省はなかった。二人は、確信めいた予感を共有していた。
「無免許を黙認するわけにいきません」
 早速踵を返した光彦の背に、制止の声がかかる。『ひろさん』は冷静極まりない命令口調で、車で送るから門前で待っているように二人に告げた。根岸邸前の暗い小道に横付けされた車が、かつてヒッチハイクに応じてくれた女性の乗っていたものと同じ色、同じ車種だと、二人が気付いたか否かは不明である。


 すでに、深夜と言える時間帯であった。嵐にとっては今日二度目の“夜の学校”であるが、校舎は妖気を帯びて、先ほどとは比較にならないほどの不気味さで眼前に立ちはだかった。裏門近くにある教員専用の小さな格子扉からぶら下がる厳つい南京錠は、何者かの手によって外されていた。外灯もまばらな裏庭を、光彦は迷いのない足取りでずんずん進んでいく。嵐は、心の中で空念仏のように純生の名を呼びながら、その後に付き従った。
 体育倉庫の扉を開けると、白熱ランプのちらちらとした薄明かりの下に黒雲のごとく蠢いていた集団が、一斉に立ち上がった。およそ十五人――嵐などまるでそこに存在していないかのように、彼らはぎらぎらとした眼差しを光彦に向けている。明らかに上級生と判る者が半数、他校の制服を着た者も紛れていて、嵐は驚くばかりだった。それぞれ服装は、真面目を絵に描いたような地味な者から、ストリート系、裏原系、モード系と全くばらばらで、彼らの間に友情という仲間意識は気配もなく、ただ光彦という人間の持つ求心力に誘われた「兵隊」と呼ぶに相応しい一団であることは明白であった。

 開口一番、「純生が拉致られた」と、光彦は単刀直入に告げた。
「嵐と同じぐれぇの身長、痩せ型、濃い色のパーカー、ジーンズ。顔はわかんねぇ」次に男の特徴を示す単語だけを並べる。
「選抜Aの奴はどいつだ?」
 秀才然とした銀縁眼鏡の少年が、さっと片手を上げた。
「緊急連絡網使って、連絡の取れねぇヤツ洗い出せ」
 少年は黙諾し、両隣の二人を引き連れて体育倉庫を後にした。
 それから光彦は、理系脳らしい端的さで、生徒への聞き込み、学区内の廃屋の捜索、その分担などの指示を次々に出していった。指示を受けた者が、一人また一人と消えていく。嵐は、その背中を黙然と見送っていたが、最後の一人が立ち去ると同時に、勢い良く光彦に向き直った。
「俺は? 俺は何をすればいい?」
 嵐もまた、指示を待ち構えていたのだ。光彦の傍らで無用の置き物でいることに、疾うに忍耐の限界を迎えていた。光彦のようなカリスマがあるわけでもなく、光彦以外に頼れる誰かがいるわけでもなく、この非常事態にあって己が如何に役立たずか、もう存在の価値を問うのも馬鹿馬鹿しい。しかし、何かと光彦と比較したがる矮小さやプライドはすっかり鳴りを潜めて、今の嵐は、一刻も早く純生が見つかるよう一心不乱に祈るばかりだ。
「俺だって足を使って探すくらいはできるから! 光彦、俺にも指示をくれッ!!」
 光彦の両肩を揺さぶりながら懸命に言い募る嵐の顔にしばらく視線を留めてから、光彦は金髪頭を腕に巻き取るようにして抱き寄せた。
「……俺の傍にいろ。お前は危なっかしくて駄目だ」
 冷徹に命令を下していたはずの光彦の胸元からは、早鐘のような鼓動が鳴り響いていた。
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