チャイナ・ドール

 フラップを最大まで下ろした機体は空気抵抗を受け、途端にガタガタと揺れ始めた。その振動で、ぼやけた意識が覚醒を促される。機内アナウンスを遠くに聞きながら、穂海愛生(ホミ アイセイ)は四日ぶりに見る日本の景色を、機内からぼんやりと眺めていた。

 月に一度のニューヨーク出張――唯でさえ報告書の執筆に追われていたというのに、今回は教授の学会論文のサポートにも駆り出され、日本出国前は徹夜続きの日々を送った。愛生は、疲弊し切った身体を引き摺って、米国の医師チームと共同研究している、ある難病治療についての定例進捗報告会に出席するため、ニューヨークへと旅立った。今はその帰りだ。
 もう丸十日間、まともな睡眠を取っていない。機内では惰眠を貪るつもりだったが――。

「お前……大丈夫か?」
 愛生は、耐え兼ねて声をかけた。JFK空港の出発ロビーから気になっていたハニーブロンドの少年。同じ機に搭乗するのは、愛生の知る限りでは三回目だった。今日、初めて座席が隣り合った。

 草臥れたTシャツ、膝に穴が開き裾のほつれた洗いざらしのジーンズ、荷物は小さめのデイパックひとつ。華奢な身体つきから、年齢は十六歳前後だろうと推測された。
 良く言えば、ソーホーあたりで屯する貧乏学生、悪く言えば、深夜のタイムズ・スクエアで身体を売る少年――どちらにしても、日本に観光にくるような人種には到底見えない。

 JFK空港の手荷物検査を受けている時からすでに青い顔をしていたが、到着間近の今に至っては、額に脂汗を浮かべ、痙攣したように震える両の拳を強く握り締めている。
 フライト中は機内食にまったく手をつけず、水分も摂らず、その上、口を両手で押さえながら幾度も席を立ち、どうやらトイレで吐いているようだった。

 十三時間、一切飲み食いしてないのだから胃液すら出てこないだろうに――。

「俺は医者だ。それなりの対処は出来るだろうから、症状を細かく教えろ」
 反応の無い少年に、愛生は語勢を強くした。
 肩を揺すられてようやく、少年はゆっくりと愛生に顔を振り向けた。

 長い前髪がさらりと流れ、金色の睫毛に縁取られた双瞳が現れた。
 確かに視線を交差させているはずなのに、何処か遠くを見ているような鮮やかな藍青の虹彩は、窓から差し込む光を反射し、幽玄とも言える輝きを放っていた。苦痛にその顔を歪ませながらも精気は感じられず、青白い肌と、硝子玉のような空虚な瞳は、陶器の人形のようで――。

 吸い込まれそうな感覚に恍惚と酔い、しばらくの間、愛生は言葉を失っていた。

 少年のこめかみから、透明な線を描いて一滴汗が流れ落ちた刹那、愛生は呪縛から開放されたように唐突に我に返った。

 上空三万フィートを飛行してきた機内はエアコンが効いているとはいえ、かなり寒い。この状況で汗をかき、長時間飲まず食わずで嘔吐を繰り返していれば、間違いなく脱水症状には陥っているはずだ。

「……飛行機が苦手なのか?」
 やはり反応は無い。少年は、ふと視線を窓へと流し、迫り来る空港の誘導灯をその瞳に映していた。

「とにかく、成田についたら第一ターミナルの地下に診療所があるから行けよ。 その顔色は尋常じゃないぞ。ギリギリ開いてる時間だから、行ってみろよ、な?」
 努めて優しげな声音でそう念を押すと、愛生はドサリと座席に体重を預けた。

 手荷物は機内に持ち込んだ小さめのアタッシュケース一つ――税関審査を終えれば、晴れてタクシーでわが家へ、すぐさまベッドに飛び込むつもりだった。機内では金髪の少年の様子が気になって、ほとんど寝ることができなかったのだ。
 しかし、強烈な睡魔にも勝る、愛生の体が求めて止まないその行為は、ゲートを抜けたあとの儀式のようになっていた。

 館外に出るなり、タクシー乗り場近くで、愛生はハイライトに火を点けた。紫色に染まりゆく薄暮れの空をぼんやり眺めながら、ゆっくりと煙を肺に送り込む。
 煙草を持つ腕が、だんだんと石のように重くなってきた。疲れとは異なる、心地良い倦怠感――ニコチンが肺を満たしていく感覚に酔いながら、愛生は立て続けに二本目に火を点けた。
「あー、ほんっといい国だ……」
 医者の不養生を地でいくヘビースモーカーの愛生にとって、禁煙を強いられる飛行機は苦痛でしかない。帰国の喜びを最も味える、愛すべきひとときだった。

 四、五台タクシーを見送ったところで、手荷物の受け取りを終えた同じ便の搭乗者が、ゾロゾロと館外に出てきた。数分もすれば、タクシー乗り場にスーツケースの長い列ができる。
 愛生は慌てて煙草の先を灰皿に擦りつけ、乗り場へと向かった。

 列に並ぼうとした愛生の前に、ユラリと人影が横切った。

 ――あの金髪……!

 少年は、まるで重い鉛球を引きずるような足取りで歩いていた。
 死に際の人間がそうであるように、少年の貌から苦痛の色は消え、焦点の定まらない眼は、魂を手放してしまったかのようだった。
 最早、医者として放って置けるはずも無く、愛生はアタッシュケースを放り出して少年に駆け寄った。

「おいっ! 診療所、行かなかったのか!?」
 飛行機酔いにしては状態が深刻すぎる。脱水症状も併発しているはずだ。
 引きずってでも診療所まで連れて行くつもりで、少年の腕を力強く掴んだ――その一瞬後、崩れ落ちるように、少年は地面に膝をついてしまった。

「その金髪に、触んねぇでくれるかなぁ……?」

 タクシー乗り場の近くに停車していた黒塗りのベンツから、夕暮れ時にも関わらずサングラスをかけ、ぴっしりとダブルのスーツを着た、咥え煙草の男が顔を出した。まだ若く、明るく染め上げた茶色の髪は、一見軽薄そうな印象を受けるが、纏う空気は氷のように冷たく、鋭い。
 堅気の人間ではない――愛生はそう確信した。
 後部座席から舎弟のような若者が二人現れ、機敏な動作で愛生の腕から少年を奪い取ると、その身体を引きずるようにして車内に押し込んだ。

「おいっ!そいつはどう見てもヤバいぞ。すぐに病院に……」
「こいつはな、出すもん出しゃスッキリするんだよ。なんせヘビーな便秘持ちだから。……なぁ?」
 途端に、下卑た笑い声が後部座席から沸き起こった。
 男は、愛生に向かって火の点いたままの煙草を指で弾き飛ばし、スモークの貼られたパワーウィンドウを閉じた。車はアスファルトを滑るように発進し、テールランプの赤い線を引きながらインターチェンジの方角へと消えていった。

 医者相手だと知らずに言った軽口だろう――しかし、愛生はその言葉の意味を一瞬で解した。
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