雪駄と蝋マッチ

 愛に生きる、と命名した父、早世してしまった母と弟――様々な因縁の折り重なりを経て、今でこそ『先生』と呼ばれる堅い職業に就く愛生だが、高校一年生までは地元では名の通った悪童だった。
 愛生は、その不良時代を知る数少ない友人、本告 新(モトオリ アラタ)を呼び出して、半年振りに酒を酌み交わしていた。

「お前……見るからにカタギじゃねぇなぁ」
「そういう愛生は、笑えるほどカタギだねぇ」
 わざとらしい呆れ顔を作って言う愛生に、新はシニカルな笑みを返した。
 新は、派手な柄シャツの上にモード系のスーツを着崩し、裸足にブラブラと雪駄を突っかけている。医局の連中に、このチンピラ風情が二十五年来の友人だと知れたら、真面目で几帳面と評判の愛生のイメージが、一瞬にして崩壊するだろう。

「当たり前、俺は天下のお医者サマだぜ?」
 充分野暮ったいと自覚している、ディスカウント紳士服店で購入した安スーツの襟を両手で軽くつまみ上げ、愛生は得意げに鼻を鳴らした。白衣を着てしまえば、誰でもそれなりに見えてしまうのだから、今更服装にこだわる気はない。

「お前、まだ代打ちなんてやってんのかよ?」
「代打ち稼業なんてバブルでほとんど終わってるよ。今更、クマで小銭を稼ぐのもかったりぃし……。キャンプでカードはたまにやってるけど、まぁ、今は殆どヒモ生活だね。ソープ嬢のハルカちゃん、カワイイぜ」
「ハルカちゃん、ときたか。てめぇもツラの良さじゃ俺と張るもんなぁ。ホストにでも転身すりゃいいのに」
「ばぁーか、ホストにゃ薹が立ちすぎてるよ。もう三十よ? 俺ら」
 確かに、と笑いあう。

 新は、高校二年の時分から、《代打ち》――つまり、麻雀の裏プロをしている。なんらかの利権や多額の金を賭けて、企業や大きな組織同士が争う麻雀の勝負を文字通り代わりに打ち、時には数億円の賭かった卓を囲むこともある。
 場合によっては、一晩麻雀を打つだけで愛生の年収に迫るほどの報酬を得るのだが、『負け』と『死』は限りなくイコールに近い。新が今現在、五体満足で立派に生きているということが、彼の勝負強さを証明していた。

 溺愛していた弟、成水(ナルミ)が他界してすぐ、高校二年生の冬頃から、愛生が真面目に勉学に勤しみだしたせいで、遊び相手を失った新は時間を持て余した挙句、代打ちなどという裏稼業に手を染めてしまった。
 当時、頭の出来の良さではその辺のやつらに負けないと自負していた愛生だったが、幼少の時からオセロや将棋、トランプといったゲームの類では、新に勝った例がない。そして、同級生はおろか、大人にも負けたところを見たことがなかった。新の知能指数は、同年齢の少年達の中でも群を抜いていただろう。
 しかし新は、己の興味の無いことには、一切その明晰な頭脳を使おうとしない。代打ち稼業を片手間に、三浪して三流大学に補欠入学して、「つまんねぇから」と、三日で辞めたという変人ぶりだった。
 真剣に勉強していれば、今ごろノーベル賞のひとつやふたつ取っていただろうにと、愛生は常々思っていた。

 一頻り近況を語り終えた愛生は、新を呼び出した理由のひとつである質問を切り出した。

「――なぁ、全然心当たりねぇか?」
「ンなこといっても、黒ベンツにダブルのスーツなんて、この業界、掃いて捨てるほどいるんだぜ? わかるわきゃねぇだろ? ……ナンか特徴なかったのかよ」

 ほとんど日の落ちた時間帯、しかも逆光で良く観察できなかったが――そういえば近づいてきた舎弟二人には特徴があった。

「舎弟っぽい男の一人は長い髪を真っ赤に染めてて、もう一人は……若いクセに完全な白髪頭だったな」
「あぁ――そりゃ新実ンとこのめでたい紅白コンビだわ。有名」
「新実? どこの組織?」
「宇田川系の成竜会。覚えてねぇ? 学校は違ったが、高校デビューのくせにやたら目立ってた二コ下の新実匡次(ニイミ キョウジ)。今や立派なスジモンだよ。見てくれはヤサ男だってのに、バリバリの武闘派だ」
「俺、高二でケンカからは足洗ったからなぁ……」
 そんなヤツいたっけ? と、頬杖をつきながら、冷酒をちびちびと啜っている愛生に、焦れたように新が尋ねた。

「で、新実がどうしたって? 腹に鉛弾食らって、愛生の病院にでも担ぎ込まれたか?」
「成田で金髪の美少年を、俺の腕からかっさらっていった」
「あぁ? ナンだぁ、そりゃ」
 不愉快そうに眉根を引き寄せた新に、愛生は一週間前の出来事を掻い摘んで話した。

「……あー、まちがいないねぇな」
 新は、胸糞悪そうに冷酒を一気に呷り、オヤジもう一杯、と枡をカウンターに差し出した。周囲をうかがい、愛生が新の耳に顔を寄せて声を顰めた。
「だろ? ケツの穴……ヘタすりゃ胃の中にまで、爆弾抱えてるぜ」
「一、二キロってとこか。大麻樹脂なら一千万、ヘロインやコカインなら億いくかもな。――そりゃ、本当にヘビーな便秘だわ」
「気圧の変化で、間違って中のモンが破裂すれば一瞬であの世行き。一回、それで死んだコロンビア人の女がウチの病院に担ぎこまれたことある。レントゲン撮ってみたら、膣ん中にヘロインの巨大ソーセージが三本も入ってたんだぜ?――ゾッとしたよ、俺は」

 しかしなぁ、と新は首を捻った。
「南米やタイからってんなら納得もいくが、ニューヨークからヤクの密輸ってのはヘンじゃねぇか? しかも、今や世界一セキュリティチェックの厳しいケネディ空港から……シロートならまだしも玄人絡みだぜ? おまけに、中堅クラスの新実が空港までお出迎え、なんてのも危なすぎるじゃねぇか。税関でパクられでもしたら、言い逃れできねぇぞ」
「そうだよなぁ」
 と頷き返し、愛生は気のない相槌を打った。
「その金髪っていうのがさ……なんか壮絶なモンがあったんだよ。瞳は深いブルーで、肌は真っ白で。苦しそうにしてンだけど、動物みたいに感情の無い眼してて、全然生きてるって感じがしないんだよ。いろんな患者を診てきたけど、あんなの始めてだ……」
 記憶を反芻するように視線を宙に彷徨わせる愛生を横目で見て、新は小さく舌打ちした。

「――とにかく、三回も同じ便に乗り合わせたんだから、また会う可能性大だな。てめぇは犬猫に優しいとこあっから、次会ってもヘンな気起こすんじゃねぇぞ」
 そう言って新は、浅漬けを突ついていた箸をパタリとテーブルに置き、愛生に向き直った。

「ところで……何? 愛生ってソッチの趣味があったのか? 儚げな美少年に一目惚れかよ?」
 突拍子もない質問に、愛生は口に含みかけた冷酒を吹き出した。
「い、いきなり何言って……」
「半年振りに呼び出された理由はぁ、パツキンの美少年のせいかって訊いてンだよッ! あぁ?」
 余りにも意表外の、激しいその物言いに、愛生は眼を丸くして新の顔を見た。喧嘩で啖呵を切るとき以外は、滅多に声を荒げたりしない男なのだ。

「おお前、なに興奮してんだよ。ちょっと気になったから訊いただけで……そりゃ、あの金髪の印象は強烈だったけど……」
 言い終わらないうちに、新は、カウンターの上に両手のひらを思い切り叩きつけ、椅子を弾き飛ばして立ち上がった。並んだ皿が跳ねて大きな音を立てると同時に、店内の眼という眼が一斉に二人に集まった。

「オヤジッ! 酒はまだかよッ!」
「――へ、ヘイッ!」
 明らかに新の倍は横幅のある、厳しそうな店主が完全に萎縮していた。店主は、慌しく新の前に升に納められたグラスを置き、なみなみと冷酒を注いだ。

 取っ組み合って喧嘩をすれば、体格差からいっても十中八九愛生が勝つだろう。しかし、にやけた笑いを常に口辺に刻んでいる、一見優男風情の新は、いざ喧嘩となると、空気が震えるような怒気をその細い体から発する。それもそのはず、新は、十七の時分から僅か八十センチ四方の小さなテーブルの上で、命のやり取りしてきたのだ。並の男なら、殴りあう前に、その迫力に負けてしまうだろう。

 愛生に向かって新が声を荒げたのは、実に中学生以来――愛生にとっては、勝手知ったる旧友との酒の席で、いきなり遭遇した直下型地震だった。

 どうしてこういう展開になるんだ?

 二十五年来の付き合いにして、喧嘩らしい喧嘩はしたことがない。一体、何が新の怒りの琴線に触れたのか、愛生には全く理解不能だった。
 愛生は、降参とばかりに肩を竦めた。
「――あのなぁ、俺は五歳ン時からお前のそのツラ見ながら育ってきてるんだぜ? 今更オトコに走れるかよ」
 新は、充分に愛生を睨め付けた後、ふと視線を外し、ゆっくりと椅子を引いて腰掛けた。
 五分ほどの沈黙――愛生は無表情な新の横顔を、ただじっと見つめていた。顔色を窺っている、と言ったほうが正しい。

 店内が再び騒がしくなってきた頃を見計らったように、新は胸ポケットからホープの小箱を取り出した。中には数本のマッチと煙草が同居していた。人差し指と中指の間深く煙草を挟み、雪駄のウラでマッチの先を擦って点火すると、新はホープの先端に火を点した。米軍キャンプでカード賭博をするとき、チップの代わりに使う輸入物の特殊なマッチだ。
「今時、ロウマッチで煙草に火を点けるなんてレトロな仕草がしっくりきちまうのは、お前くらいだろうな」
 眼を細め、紫煙を燻らせる新の視線は、壁の高い位置に掲げられている居酒屋のメニュー看板に留まったままだった。

 ――どうやら地震は収まったようだ。

 その後、ポツリポツリと与太話を再開させた二人は、結局閉店まで居座り、気付けば一升瓶を二本、煙草を五箱開けていた。


「じゃ、またな」
 愛生がタクシーに乗り込もうとした矢先、新は両手をズボンの尻ポケットに突っ込み、ふんぞり返った姿勢で、オイ、と声をかけた。
「愛生――てめぇと俺は四半世紀連ンでるダチなんだよ。今更、『ホモでしたぁ』ナンてふざけた事抜かしやがったら……」
「しつけぇっての」
「ぶっ殺す」

 微震は、まだ続いていた。
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