読めない心

 二人は、新宿通りを四谷方向に向かって歩いていた。
 新の首筋に見え隠れする生暖かい温度を放つ鬱血は、愛生の目線を泳がせた。何か話さなければ――焦るほど沈黙を重く感じ、愛生は切っ掛けを掴めずにいた。
 重苦しい空気に耐えかねて、愛生はやっとのことで一言、咽奥から言葉をひねり出した。
「……悪かったな、いきなり押しかけちまって」

 新は、アスファルトの上に視線を這わせるようにして、無言で愛生の二歩先を歩いている。今しがたの己の醜態を反芻しては苛立ち、心中で幾度も悪態を吐いていた。
「なぁー、まだ怒ってんのかよ?」
「うるせぇな」
 憎々しげに吐き捨て、肩に掛けられた愛生の手を、新は力一杯振り払った。

 ハルカの家にまで連絡もせず押しかけ、奇襲のようにその生活ぶりを覘き見たのは言い逃れのできない事実だ。しかし、普段のにやけた新からして、ここまで怒るようなことだったのか、と愛生は首を捻った。
 てめぇ、ふざけてんじゃねぇよ、と軽く頭を小突かれて終わるような冗談のはずだったのに――。

 新宿通りから少し外れ、路地の薄暗がりに吊るされたカンテラの仄灯りに誘われるように、新が歩みを速めた。
 古びた木製のドアを開くと、山小屋さながらの無骨な内装が目前に広がった。それぞれのテーブルに置かれた小さな灯油ランプの炎が暗い店内に瞬き、暖か味がある。
 深夜二時を過ぎた今、客は疎らで、二人が隅のテーブルを腰を下ろすと、若い女性店員が即座にオーダーを取りにきた。
「ハーパー。ボトルごと持ってきて。あと、氷」
 口を開く気配すら無い新を横目で窺いながら、愛生が注文を済ませた。

 灯火が、暗がりに新の横顔をぼんやりと浮かび上がらせている。向かい合って座っているというのに、新は頑なに視線を交わそうとしない。堅く引き締められた横顔は、未だ愛生を拒んでいた。
 新の首筋に視線が流れてしまうのを、愛生は抑制できなかった。紅く色づいた箇所が、いちいち愛生を落ち着かなくさせた。
 新の情事の相手など、見当も付かない。下らない与太話はしても、私的なことは滅多に口にしない男であることは、熟知していた。

 唇はいつになく艶めき、伏せられた長い睫毛は心なしか震えているように見える。
 ハルカの言う通り、新には『色』があるかもしれない。
 ふとそんなことを考えながら、愛生は新の横顔に魅入っていたが、ハーパーのボトルとアイスペールに視界を遮られ、我に返った。
「お前、また携帯無くしたろう?」
 新は、ピクリと眉を跳ね上げ、何を言い出すのかと一瞬、愛生の顔を見遣った。
 旧友の切羽詰った呼び出しに何の反応も示さないのは、携帯を無くしたからだと思い込んでいる愛生の目出度さに半ば呆れ、新は「あぁ」とだけ短く返事をした。
「留守電、聞いてないよな?」
「……煙草忘れてきた」
 愛生から逃げようもないことは痛いほど分かっている。この期に及んで話題を逸らし、足掻く己の不甲斐なさに、新は思わず苦笑を漏らした。
 コートのポケットを弄り、愛生はハイライトと百円ライターを新に差し出した。
 新の頬が緩んだのに安堵の息を漏らし、愛生はスイッチが入ったように声を弾ませて言葉を継いだ。

「金髪。前、話したよな?……また会ったんだ。ニューヨークで」
「またその話かよ」
 無関心を装いながら、新はハイライトに火を点した。
「アイツは絶対、ヤクの運び屋なんかじゃないぜ。スーツ着てたんだ、高級レストランで」
「……へぇ」
「そん時、新実?……も一緒だった。成田で金髪を連れてったヤツだよ。なぁ、どう思う? 新。金髪はナンで、何度も日本に来たり、日本の筋モンとニューヨークの高級料理屋に居たりするんだ? 俺には皆目分かんねぇよ」
「知るかよ」
 真剣な面持ちで言い募る愛生に、新は抑揚の無い口調で答えた。
 グラスの一方を新の前に置き、愛生は氷も入れず、まるで水でも注ぐようにハーパーのボトルを傾けた。
「俺は金髪のことが知りたい。どうしても」
 核心が近付くにつれ、愛生の語調が強まっていった。
「知ってどうすンだよ」
「四回だぜ? 四回も、偶然会ったんだ。――成水が、あの金髪を俺に会わせたんじゃねぇかって、俺は……」
「バカか、てめぇは。ンなことあるわきゃねぇだろ?」
「とにかく、知りたいんだ。新実のいる成竜会っていやぁ、宇田川でも上の方なんだろ? 新は宇田川の代打ちだったよな? 調べられねぇかな、金髪のこと」

 瞬間的に、烈火の如き怒りが腹の底から噴き上がり、グラスを持つ左手に満身の力が集約した。そのまま壁に叩き付けなかったのは、新のなけなしのプライドが既に衝動を留めたからだ。新は唇の端を噛締めた。

 愛生は、親友のよしみに胡座をかいて、新に危ない橋を渡れと言っているのだ。 金髪の少年のために――。

 新は、グラスを一気に乾杯すると、愛生を鋭く睨み据えた。
「よしんば、てめぇが奴のことを知ったとして、一体どうするつもりなんだよ? ヤク中の、イカれた男娼かもしれねぇんだぞ?」
「……そうなのか?」
 不意を付かれ、ギクリとする。一心に新の眼を覗き込む愛生に動揺を悟られぬよう、ボトルを取り再びグラスを潤すと、新は視線を床に振り落とした。

「――だとしたら、助ける」

 止めの一言だった。新の中で荒れ狂っていた感情が、一気に爆発した。椅子を弾き飛ばして立ち上がり、新は愛生の胸倉を掴んで捻り上げた。
「呆けたこと言ってンじゃねぇよッ! 何を敵に回すか分かってンのか? 父親どころか、親戚一同まで死ぬことになるぞッ!」
 新は、顔を近く寄せて愛生に怒声を浴びせ掛けた。
 怖じることなく真直ぐに新の眼を見返す、愛生――その瞳は、固い決意を漲らせた眼光を放っていた。
「新……。俺はもう駄目なんだよ。金髪のことで頭が一杯で、普通じゃねぇんだ。このままじゃどうにかなっちまう」

 店内に居た僅かな客は新の怒声に驚き、刮目して二人を見ている。
 緊迫した睨み合いが続いた。指に挟まれたままの吸いかけのハイライトが、愛生の頬を燻していた。

 新が突然、脱力したように手を離した。

「……てめぇは、本当に……何も分かってねぇんだな」

 成竜会の恐さも――俺のことも。

 とめどなく込み上げる『何か』を死に物狂いで押さえ付け、咽の奥から搾り出すような声で新は言った。
「悪ぃけど、協力できねぇ。一切な……」

 言いようの無い虚脱感に襲われ、新はストンと椅子に腰を落とした。ハイライトがフィルターまで焼け、独特の悪臭を放ち始めている。愛生は、新の指からハイライトを抜き取って灰皿に火種を擦りつけた。

 そうか、と静かに頷き、
「俺ら、こないだからこんなんばっかだな」
 と、愛生は邪気の無い笑顔を新に向けた。
PAGETOP