ハルカ

「待たせちゃってゴメンね」
 深夜十二時半を過ぎたところで、純白のハーフコートに身を包んだハルカが喫茶店に現れた。
「コーヒー、飲んでいく?」
 愛生が尋ねると、ハルカは小さく首を左右に振った。
「お仕事のあとは、なんにも口にしたくないの。大分慣れたんだけど、やっぱり顎が疲れちゃって……フフフ」
 俯き加減に愛生を上目で見て、はにかみ笑いを浮かべる仕草は、まるで幼子のようだった。
 悲哀が愛生の胸を満たす。この少女は今日一日、一体何人の男の性器をその小さな唇に含み、そして侵されたのだろう、と。
 「行こうか」と、ぎこちなく口辺を歪めた。その作り笑いがハルカの眼にはどう映ったのか――不器用な己の性分を呪いながら愛生は席を立った。

「私のウチね、御苑なの。ここからスグよ」
 ハルカは愛生の右側を陣取って歩いた。会話を交わすとき、火傷を負った右頬を気にしてか、時折不自然に首を捻る。だが、歯切れ良い口調と溌剌とした笑顔は、ハルカの若さと本質的な明るさを滲ませていた。
 愛生は、ハルカに合わせてゆったりとした足取りで歩いた。

「お兄ちゃん、いるといいね」
「訊いてもいいかな?……新とは、どこで出会ったの?」
「前のオーナーがね、無認可で捕まっちゃったらしいの。それで、今までミカジメを取ってた宇田川系列の組が、個室サウナからファッションヘルスに変えて今のお店を経営してるんだ。やってることは同じなんだけどね。私が入店する時、丁度お店が改装中で組事務所で面接したの。そこにお兄ちゃんがいて……」
 一呼吸置いて、ハルカは薔薇色に染まった頬を両手で覆い隠して、愛生を見上げた。
「ヒトメボレなのぉ。必死で口説いたんだから!」

 愛生は思わず吹き出した。中学高校と、浮いた噂ひとつ無い新が、この少女に迫られているシーンを全く想像できなかったからだ。
「ストーカーみたいに追い回したの、私」
 自分でも呆れている、と言いたげにおどけて肩を竦める少女に、
「……あの新が、君に迫られてるところ、見たかったよ」
 と、愛生はふっと頬を緩めて優しげな眼差しを向けた。
 
 明治通りを右に曲がり、二丁目に差し掛かったところで、ハルカは重い溜息を吐いて項垂れた。
「でもね、お兄ちゃん、他に付き合ってる女の人がいる……ううん、男の人かもしれない」
「えっ!……男?」
 まさか、と愛生は笑いを含んだ一声を上げた。
 以前に酒を酌み交わした際、『ホモだったらぶっ殺す』と明言した新に限って、そんな筈ある訳がない。
 馬鹿にしたように笑う愛生に、ハルカが膨れっ面を作った。
「知らないの? お兄ちゃん、二丁目近くを通るだけでモテちゃって大変なのよ。彼、ものすごく色気あるでしょう? キスマークや歯形つけて帰ってきたことなんて、一度や二度じゃないんだから」
「色気……?」
 あまりに突飛な話の展開に、声を失った。
 愛生は、一度として新に『色』など感じたことは無い。確かに、そこらの美女より余程綺麗な顔立ちだと、ふとした新の表情に気付かされることは度々あった。しかし、あの向こう意気の強い、気丈夫な新が男に抱かれている姿など、愛生には到底思い描くことができなかったのだ。
 反応を見定めるようなハルカの視線に、ハッと我に返る。
「――とにかく、君みたいな女の子を泣かせるなんて酷い奴だね。俺が新に言ってやるよ」
「ううん、いいの。一緒にいられるだけで。……無理矢理、口説き落としたんだもん」
 でも、と押し込む愛生を無視するようにハルカは途端に歩調を速めて、
「いいのぉ!」
 と、ハンドバッグを宙に投げ出さん勢いでぶんぶんと振り回し、星の無い夜空に向けて白い息を吐いた。

 二丁目の賑やかな雑踏を過ぎ、やがて辺りは落ち着いた夜の空気に包まれた。
「ここよ」
 ハルカは、白いタイルで覆われた古びたマンションのエントランスを指差した。
 ポストを覗き郵便物を確かめた後、エレベーターのボタンを押す。その到着を待つ間、ハルカはもう一度「お兄ちゃん、いればいいね」と、愛生に微笑みかけた。

 エレベータを降りるなり、ハルカが表情を輝かせた。
「電気点いてる! いるよ、お兄ちゃん……驚かせてやろうか?」
「よし、君を悲しませたバツだ」
 二人は顔を互いに見合わせて、クスクスと声を殺して笑った。
「そうっと入ってキッチンの棚の陰に隠れててね。お兄さん、体大きいけど、そこなら隠れられると思うよ」
 ハルカは、そう言ってバッグから鍵を取り出し、慎重にドアノブに差し込んだ。音を立てないようゆっくりとドアを開け先に部屋に滑り込むと、愛生に向かって小さく手招きをした。
 靴を脱ぎ足音を忍ばせて、ハルカが指で示した先にある整理棚の陰に、愛生は身を潜ませた。

 1Kの室内は、若い女性らしい装飾が施され、掃除も行き届いている。キッチンの床に脱ぎ捨てられた男物のシャツだけが違和感を訴えていた。
 ハルカがキッチンと八畳間を仕切る曇りガラスの引き戸をそろそろと開けた。と同時に、「ハルカか?」と気怠げな新の声が聴こえ、愛生は込み上がる笑いを必死に噛み殺した。二十五年連れ添っても今ひとつ行動の読み切れない新の私生活を覗くスリルに、愛生は心躍らせていた。

「なんだぁ、驚かせようと――あっ! お兄ちゃん、またぁ」
 子供を叱り付けるようなハルカの声に、愛生は耐え切れず整理棚の陰から頭だけをそろりと出した。中途半端に開かれた引き戸の向こうに、スウェットパンツ一枚の姿で缶ビールを飲む新の背中が見えた。

 愛生の眼に、見覚えの無いカードの彫り物が飛び込んできた。そして、次に息を呑んだ。

 新は、如何にも『情事の直後』という様相を呈していた。
 首筋には一目でそれと分かる朱が散りばめられ、カードの中心から新の背を斜めに裂く四本の筋は鮮血を滲ませていた。乱れた前髪をかきあげた拍子に覗いた脇腹には、数箇所の噛み痕――新の細い体躯に生々しく残された情事の刻印は、愛生の眼を釘付けにした。

「もう……! 浮気はいいけど、痕つけて帰ってこないでって言ったでしょう?」
「……お前も飲むか?」
 会話を遮るようにビールの缶を鼻先に差し出す新に、ハルカが憤然と声を荒げた。
「話かみ合ってないよ!」
 キッチンでカタリと、何かが倒れる音が響く。
「あ……そうだ。お兄ちゃん、お客さんよ」
 何気に顔を上げた新は、キッチンで棒立ちとなっている愛生の姿を認めて、表情を凍らせた。

「……愛、生?」
 茫然と呟く。
「よぉ。久しぶり……でもないか」
 バツが悪そうな苦い顔付きで愛生が片手を上げるまで、新は、目前の光景が現実と認識できていないような、放心した眼差しで愛生を見ていた。
 次の瞬間に、眉根をきつく引き寄せ、新は眼光に憎悪すら湛えて鋭く愛生を睨み据えた。忌々しげに舌を打ち鳴らすと、缶ビールを乱暴にハルカの手に押し付ける。その勢いで吹き出たビールの泡がコートの襟元に降りかかり、キャッとハルカが短い悲鳴をあげた。新は素気無くハルカに背を向け、ハンガーに掛けられていたシャツを慌ただしく羽織った。
 にやけたポーカーフェイスを崩したことの無い新が、明らかに狼狽していた。苛立ちが、新の全身を緊張させているのを間近で感じ取り、ハルカは今にも泣き出しそうに肩を震わせて、立ち尽くしていた。
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