S・N・A・F・U

 半年振りに実家に戻ったその夜、愛生は、父と膝を突き合わせて酒を酌み交わした。互いの近況を二言三言交わしただけで、あとはただ黙然と杯を傾けた。
 父は、愛生に何も訊かなかった。

 ふと見回した居間――家具や置物の配置は十年前とほぼ変わらず、それぞれは美しく磨き上げられていて、別段、以前より古びたという印象は無い。だが、生活感だけがぽっかり欠落していた。
 定年退職してから、一人住まいには広過ぎるこの一軒家で、母の残したバラ園の手入れをしながらひっそりと時を過ごしてきた父は、いつしか遁世者のように飄然としていた。
 やや丸まった背中がその悲しみの深さを物語っているようで、愛生の胸を締め付けた。

 実家を離れてからほぼ十年、成水と母の命日に帰郷する程度で、孝行息子からは程遠かった。さらに不義理を重ねることになるであろう自身を、愛生は責めた。
 しかし、成水を失ってから愛生の奥深いところで逆巻いていた激情が、少年に出会ってからというもの出口を見つけたかの如く暴れだし、最早止めようがない。
 理性も良心も、自らが創り上げた大義名分のもとに押し込められ、封印されようとしている。猛々しく空転する感情のうねりに、従順に身を任せようとしている。これからの己の行動が、実に独善的で不条理なものであることは、愛生が一番良く知っていた。


 大学病院を辞職してから開放的な気分だったのもつかの間、愛生は酷く落ち着かない日々を送っていた。
 何でもいい、情報が欲しい。
 その一心でここ数日、『男娼』という鍵を頼りに二丁目の飲み屋を梯子し、ホストや常連らしき人物にそれとなく訊いて回ったが、改めて現代ヤクザの覆面性を思い知らされる結果となった。
 打ちのめされ消沈し、愛生は『SNAFU』のドアを叩いた。

「この店も、ミカジメ料とか払ってンの?」
 スツールに腰掛けるなり、愛生の口から飛び出したのがこの問いかけだった。
 突拍子も無い質問にマスターは目を丸くしたが、その理由を追求することはしなかった。
 店子の入れ替わりが激しいG街で、二十年近く看板を守ってきたのは伊達ではない。でしゃばり過ぎず間合い良く愛想を言い、必要と在らば真摯に相談にも乗る、そんな一流の客あしらいが魅力で、長年足繁く通う常連客で成り立っている店だ。

 ロックグラスを半分まで満たした後、空になったボトルを、マスターは愛生に振って見せ、空いたね、と穏やかに微笑んだ。
「ウチのチャージ、三千円だろう? それでもこの辺じゃ高い方だ。たかったところで美味しくないのは向こうさんだって重々承知だよ」
 愛生はあからさまに表情を曇らせ、差し出されたグラスを弄びながら、思案顔で頬杖を付いた。
「そうか……。じゃぁ、ヤクザに詳しい知り合いなんていねぇよな……」
「新がいるじゃないか」
「……そうなんだけど、な」
 愛生は、さらに暗く口を濁した。
「まだ連絡取れないの?」
 とマスターが尋ねると、ぎゅっと苦しげに眉を寄せて、愛生は本格的に黙り込んでしまった。

 マスターは両手を腰に当て、悄然と項垂れる愛生の様子を窺いながら質問の答えを待っていたが、口を開く気配は一向に無い。
「……ウチの店名の意味、教えてあげようか」
 勿体ぶった口調で、愛生の耳に囁きかけるようにマスターは言った。
「え、何?」
 愛生が顔を上げると、マスターはやれやれ、と苦々しく笑って、新たなボトルをカウンターの下から取り出した。
「スナフ……正確にはスナフー、かな? ……の、意味」
 過去に何度か店名の由来を尋ねたこともあったが、その度マスターは、語感がいいから、とさらりと言い流すだけだった。今更、その語義を明かそうとするマスターの意図が読めずに、首を傾げる愛生の鼻先に、封切り前のボトルと、ペンが差し出された。
 愛生は、ラベルの横に『AA』とサッと書き殴り、ボトルはカウンターに、ペンだけをマスターに返した。
 新の『A』と愛生の『A』――二人でこの店のボトルを共有するのは暗黙の了解だった。

 マスターは、二つのアルファベットを見て、満足そうに眼を細めた。
「Situation Normal All Fucked Up……何もかも滅茶苦茶だけど、それが普通のこと……二次戦中、連合軍の兵士が使っていたスラングだよ」
 客は愛生だけだというのに、マスターは、声を低く殺してそう言った。
「……滅茶苦茶が……普通?」
「戦場じゃなくったって、世の中そういうもんだよね」
 愛生の沈痛な面持ちに何かを汲み取ったのか、マスターはその心の内に踏み込むのを巧みに避けて、曖昧なメッセージを送った。
 愛生は、しばらく呆然とマスターの眼を見つめ、やがてグラスに視線を落とした。
 不思議な安堵感が愛生の内に湧き出していた。優しく背中を押されたような心地よい気分に浸って、愛生は静かにグラスを傾けた。


 その頃、新は、G街から然程離れていない、歌舞伎町の片隅にある潜りの雀荘で麻雀を打っていた。金が底を突くとこうして麻雀を打ち、昼間はパチンコで時間を潰す。日が暮れる前に飲み始め、無駄な思考力が働く時は粗悪なラッシュを吸引し、明け方近くにカプセルホテルやサウナで浅い睡眠を取る――。
 新は、歌舞伎町というネオンの海で一人漂流しているが如く、ただ時間を消化していた。

 老朽化したサウナホテルの殺風景なロビー。折畳み式のビニールベッドに横たわり、新は、缶ビールを片手にショートホープをふかしていた。
 万華鏡のように忙しく増殖と分化を繰り返す天井のライトが、説明の付かない多幸感を導き出す。虹色に変化しながら蠢く光線の織り成す非現実を、新は恍惚と見ていた。

 突然、新の視界を、山岸の顔が遮った。
「探しましたよ、本告さん」
「……よぉ、山岸ィ。久しぶりじゃねぇか……なんでここが?」
「歌舞伎町でフラフラしてりゃ、嫌でも耳に入ってきますよ」
 一目で正常な精神状態にないことを悟った山岸は眉を顰め、おもむろに携帯を取り出して、どこかへと連絡を取った。
「――とにかく来てください」
 差し伸べられた手を力無く振り払い、「邪魔するんじゃねぇ」、「いい気分なんだよ」、と繰り返す新に、山岸は語気を荒げた。
「老松さんが待ってますから!」
「俺はあいつに用なんてねぇよ……」
「頼みますよ、俺が怒られます。下で車、待ってますから」
「また今度な……。老松のオッサンによろしくぅ……」
 不毛な押し問答に嫌気が差したのか、山岸は新の脇腹に手を差し込み、勢いをつけて強引に身体を引き起こした。
 そのまま新は、山岸に引きずられるようにエレベーターに乗せられ屋外へ出た。入り口近くの路上には見覚えのある車――老松の白いベントレーが停車していた。
 山岸が周囲を気を配りつつ窓にシールドの貼られた後部座席のドアを開けると、ベージュのマオカラースーツに身を包んだ老松が剣呑とした表情で新を出迎えた。

「よぉー、老松の兄貴ィ」
 張りは無いが、陽気な声。新は車のドアに手をかけ、老松に向かって皮肉めいた笑みを投げかけた。
「お前……ヤクでもやってンのか? 目ぇ泳がせやがって」
 ユラユラと焦点を探して彷徨う瞳の動きは明らかにドラッグによるものだった。老松は、忌々しげに舌を打ち鳴らし、新のシャツの襟を掴み、乱暴に引き寄せた。新は、崩れ落ちるようにベントレーの後部座席に乗り込んだ。
 不夜の歌舞伎町を行交う人込みを避け、山岸は緩やかに車を発進させた。

「ここンとこのお前は、糸の切れた凧みたいだな。なンだぁ? そのツラ。――死人みてぇじゃないか」
「放っときゃいいだろ……。アンタも物好きだねぇ……」
 言いながら新は、ズルリと老松の肩に凭れ、ゆっくりと瞼を閉じた。

 明け方近い靖国通りはタクシーぐらいしか走行しておらず、車はすぐに二十号へと抜け、十分とかからずに笹塚にある老松のマンションに到着した。地下駐車場から、助手席にいた男に護衛されるようにエレベーターに乗り、一気に最上階まで昇る。ドアの前で男は老松に目礼し、二人が部屋に入るのを確認すると去っていった。


 新は、ふら付きながらも勝手知ったる様子で歩き、リビングの窓近くにある一人がけのソファに身を投げ出した。
「何があった? ……あの医者と」
 新の真横に仁王立ちした老松が、不機嫌を露わに、しかし抑揚のない声でそう尋ねた。
「……なぁ、ヤろうか」
 老松の腰元に差し伸ばされた新の手は、勢い良く弾き飛ばされた。
「甘えんのもいい加減にしな。新、俺がいつまでも道化やってると思うなよ」
 老松の声音はますます低くなり、怒気を滲ませた。新は、老松の声など耳に入っていないかのようにフイと視線を流して、窓の外を見た。

 眼下には夜景が広がっている。新は、首都高を往来する車が幾重にも描く光の束を眺めながら、呟いた。
「なぁ……あの金髪とヤッたか?」
「なんで金髪が出てくるんだ?」
「俺と、どっちが良かった? 教えろよ」
「男は、お前以外抱かねぇよ」
 ゆらりと立ち上がり、新は、老松の首に腕を絡ませた。熱っぽい息を吐きながら、
「金髪……抱いてこいよ。きっと最高だぜ? 一発、数百万なんだろ……?」
 そう囁く合間合間に、老松の首筋に舌先を這わせる。

 そもそも、金やモノ、世俗的なもの一切に、新は興味を示さない。見えない細い糸が唯一、新を現実に繋ぎとめているのだ、その糸こそ、穂海愛生という名の男だと、老松は思っていた。
 新と出会ってから十三年――老松は、これ程までに乱れ、自棄になっている新を初めて見た。いつもなら冷徹なまでに鋭く睨み返す瞳に、光は無い。蒼顔に痩けた頬、落ち窪んだ眼から、もう何日もまともな食事を摂っていないことは容易に想像できた。あの医者との間に、なんらかの異変が起きたとしか、考えられなかった。
 だが、ドラッグの熱に浮かされ尚、あの少年に拘るのは何故だ――?
 噛みあわない会話に苛立ちながらも、老松は、崩れ落ちようとする新の身体を抱きとめ、双腕に力を込めた。


 翌日――。
 僅かなシノギを巡るトラブルが銃撃事件へと発展し、宇田川系列の構成員が、対立する仁斗会の銃弾に倒れた。これを機に、長らく燻り続けていた紛争の火種が、ついに導火線へと飛び火し、新宿の街は一瞬にして緊迫した空気に包まれることになる。
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