empty head

 愛生は、昨晩遅く父親に電話し、実家に戻る、とだけ簡潔に告げた。夜半過ぎから身の回りのものを片付け始めたが、夜明けを迎える前に室内にあった荷物の殆どが、僅か五つのダンボールに収まってしまった。
 それももっともな事で、在職中は、仮眠用ベッドか研究室の長椅子であらかたの夜を過ごし、入浴に帰るくらいしか用の無かった住まいだ。

 大学病院から歩いて五分、築三十年のみすぼらしい木造アパート。病院を辞めた今、眼の前の通りを知った顔が行き来するこのアパートに、長居は無用だった。

 五つのダンボールの内、三つは医学書で占められていた。もう一つは古いノートパソコンとその周辺機器、最後の一つは衣類で、皺を気にすることなく無理矢理詰め込んだスーツ、ワイシャツ、ネクタイ、下着類――そして、自分でも驚くほど少ない私服。入りきらなかった白衣は、四つに裂き、床掃除に使うことにした。

 女気も、院内で特別親しくした友人も無く、ひたすら医療に挺身してきた日々を振り返る。
 如何にも安っぽいパイプベッドだけが憚る閑散とした室内を見回し、丸十年過ごした割に何の感慨も湧き上がってこない己を不思議に思いながら、愛生はハイライトに火を点けた。
 考えてみれば、数少ない休日は新を呼び出して明け方まで飲むか、惰眠を貪るかのどちらかだった。

「そういや、学生ン時、一回だけ新が泊まりにきたことあったな……。ザルのあいつが珍しく酔っ払ってて……」
 数え切れないほど酒を酌み交わしてきたが、新の酩酊した姿を見たのは、その一回きりだった。
「ちゃんと携帯買ったのかよ。連絡取れねぇじゃねぇか」
 ふと思い立ち、胸ポケットに仕舞っていた携帯を取り出した。十件にも満たないメモリーの中から『本告 新』を選びダイヤルボタンを押すが――予想通り、無機質な呼出音が鳴り続けるだけで、応答は無い。
「馬鹿野郎」
 と小声で漏らし、愛生は携帯を床に投げ出した。

 咥え煙草で、散乱していた貴重品をくたびれた革の鞄に詰め始めた。預金通帳を見つけ、確認するまでもない、と思いながらも開いてみると、八百万を超える残高が記されていた。職を失った愛生には酷く心許無い数字だ。
「残り百五十万か……。明日、振り込まなきゃな」
 寂寞とした空気が支配するこの部屋に戻ると、自然と独り言が増えた。過去においてその大半は無自覚に吐き出されていたが、不思議と今日に限って、言葉のひとつひとつが砂壁に跳ね返り、まるでドッペルゲンガーにでも話しかけられているような錯覚を起こした。
「少しは未練があるのかなぁ……」
 愛生はそう呟いて、何年前に飲んだのか分からないビールの空き缶に、ハイライトを押し込んだ。

 幾度も自分自身で少年の周囲を探ることをシミュレートしたが、どうにも良い結果が得られなかった。何より、ヤクザという特殊な社会に無知も甚だしく、全てを一から調べるのは、無駄に時間を浪費するだけのように思えた。

 少年の居場所を知って? それからどうする?
 ――惨い扱いを受けているなら、助ける。いざとなったら、銃を手に入れて闘う。
 孤島にでも逃げるのか? それとも海外へ?
 ――助け出すことが先決だ。
 ヤクザの目を盗んで、そんなことが可能なのか?

 自問自答はリトル・イタリーで少年に再会してからの、愛生の『癖』のようになっていた。三十にして完全に思慮分別を欠いている己の愚鈍さに、愛生は思わず苦笑を漏らした。
「……俺はアイツの……」

 ――笑顔が見たいだけだ。

 ゴミに塗れ、部屋の隅に転がっていた埃だらけのジャック・ダニエルを瓶のまま呷り、愛生は静かに夜明けを待った。


 有明十三号地の一角、外貿定期船埠頭の傍、少年の軟禁されているビルは新実の事務所も兼ねていた。
 バブル期の終焉、暴対法施行とともに変貌を遂げざるを得なかった斯界に於いて、すでに『武闘派』は時代遅れとなっていた。五年ほど前まで、成竜会は愚連隊、特攻として、ただその腕っ節だけが買われていた小さな組織に過ぎなかったが、新実が頭角を現すと同時に、上納金の額も、また構成員も、広域系指定団体に引けを取らないまでに急成長した。
 新実は、進出する外国マフィアや同系組織とシマを巡る小競り合いを続け、『武闘派』としての面子を保ちながらも、風俗、金融から、覚醒剤・銃器密輸、果てはIT産業にまで乗り出し、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いでその勢力を拡大した。
 成竜会の幹部も若干二十八歳の新実に頭の上がらないのが実状で、この有明の個人事務所も異例と言えるものだった。

 水平線が宵の闇に融解する間際の時刻、ブラインドの隙間から刻々と移り変わる空の色を眺めていた新実は、ウィスキーグラスを口元へと運ぶ途中、ふと手を止めた。
「義直、こないだの点数表持って来いや。本告のヤツ」
 神藤は頷き、事務机の上に無造作に重ねられた茶封筒の中から掌大の薄っぺらい紙片を抜き、新実に差し出した。
 見るなり、新実は不愉快そうに顔を顰めた。
「……ナンだこりゃあ。東南戦で六半荘打って、キレーにプラマイゼロじゃねぇか」
「わざとそう打ったんですよ。奴ならサマ無しで遣って退けるでしょうね」
「メンツはそんなにクソばっかりか?」
「まさか。カスリ麻雀でも、裏プロ崩れの輩です。……半数はウチの《代打ち》ですよ」
 忌々しげに舌を打ち鳴らし、
「世話ねぇな。良いようにやられたって訳か」
 紙片を中央から真二つに破り宙に放ると、新実は椅子のリクライニングを一気に倒して、デスクの上に両足を組んだ。
「本告の目的は金髪かぁ? その割にゃ、冷めたモンだったな」
 老松は、マフィアとの渉外の際に一度少年と顔を合わせたきりで、以降の接触は皆無だった。新と少年を繋ぐ鍵は何か――新実は、手のひらを顎に当てて思惟に耽った。

「……匡次さん。ここ数日、金髪の周りを嗅ぎまわってる奴がいるんですよ」
「あぁ? ストーカーかナンかか?」
 新実の両眼が、鈍く光った。
「探偵です。三下に小銭渡して情報を買ってるって噂です」
「見つけたら締め上げて依頼主吐かせろ。――金髪の周辺、目ぇ光らせとけよ。何しろ、建設省の偉いさんのお気に入りだからな。あのジジイを上手いこと操れれば、宇田川絡みの土建屋に落とす金は数十億だ」
「その爺さんから矢の催促ですよ。金髪に会わせろって」
「あの世代にゃ、金髪碧眼にコンプレックスがあるからなぁ。戦争の恨みってヤツだろうが……精々勿体ぶっとけ。その方が高く売れるだろうよ」
 そう言って新実は、背凭れをバネのようにして、勢い良く椅子から立ち上がった。

「どうだ?」
 四階のドアを開くと、ソファで煙草をふかしていた戸田は即座に居を正し、新実に一礼した。
「どうもこうも……大人しいモンです」

 少年は、ベッドの上で膝を立てて座り、羽織っているガウンの腰紐を左手の人差し指と親指で作った輪の中に通し、ゆっくり引き抜いては、また同じ動作を繰り返していた。
「――ありゃ、ナニやってんだ?」
「遊んでンじゃないですかね? もう二時間もああしてますよ」
 新実は、面白半分に少年の手にあった腰紐を一気に引き抜いた。
 不自然な姿態で、彫像のように動きを止めてしまった少年の顎をすくい上げ、強引に顔を向き合わせた。
「日本に来たばかりだってのに、てめぇの回りは騒がしいなぁ。随分な男殺しじゃねぇか」
 鼻先で軽く指を鳴らすと、微かに金色の睫毛が揺れた。
 だが、瞳の奥に暗鬱と広がる虚無は、新実の姿を視界から完全に排除しているかのようだった。
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