死灰の如く

 何時の間にか見知らぬ若い男が、新の顔を覗き込んでいた。突如催眠から解き放たれ、漸くと老松から渡された携帯に貼り付いていた視線を外す。ベッドから出ようと身体を捩るがまるで力が入らず、意識は濁った水の中を泳いでいるようだったが、左腕の鈍痛だけが妙にはっきりと感じられた。
 見ると、肘窩には小さな脱脂綿が医療用テープで固定されており、僅かに血が滲んでいた。
「車、用意できましたけど」
 新は、返事をするのも億劫だった。携帯を尻ポケットに押し込むと、ゆっくりと両足をベッドから降ろし、すぐ傍にあるソファの肘掛に掴まり、ようやく立ち上がる。男は用意されていた衣服を腕に掛け、緩慢な新の動作を不安げに見ていたが、耐えかねた様子で「手を貸しましょうか?」と訊いてきた。 伸ばされた手を弱々しく振り払い、煙草の匂いが染みついたジャケットだけを受け取った。
 ――動けるようになったら女の処にでも行くんだな。
 老松の言葉を思い出し、ハルカの笑顔が霞んだ視界に過ぎる。その笑みは慈愛に満ちていて、新を酷く懐かしい気分にさせた。
「御苑まで送ってくれ」
 新は、そう男に告げた。

 警棒を手にした多数の警官が靖国通りに見て取れた。通り沿いの路肩には、パトカーとテレビ局の中継車が入り乱れ、その影響で交通は完全に麻痺していた。
 ロングコートを着た長身の男が、一番街のアーチを潜り走っていくのが見え、思わず新は身を乗り出すが――すぐに人違いであることは分かった。
 カーラジオからは絶え間なく深夜の歌舞伎町で起こった銃撃事件の報道が流れている。間違いなく愛生の耳にも届いているだろう。

 渋滞を抜け明治通りに入ってすぐ、車は赤信号で停車した。
「えぇと、どの辺りで? もう御苑ですけど」
「ここでいい」
 肩にコートを巻きつけるようにして羽織り、新は自らドアを開いて車外へ出た。助手席側のパワーウィンドウを開き男が新を呼び止めるが、その声は虚しく空を切った。


 良く知った道だというのに、まるで抜け道のない迷路を歩いているようだった。痺れて感覚の無い体は重く、思考は飛散し、心臓の辺りでは軋んだ音が鳴り続けていた。
 身体に刻まれた記憶に導かれ、気がつくと新は、見慣れたドアの前に立っていた。コートのポケットで小銭に混じり乾いた金属音を立てていた合鍵を取り出すが――結局、チャイムを鳴らした。

「……お兄ちゃん」
 ハルカは、新を見るなり眉根を寄せくしゃりと顔を歪めたが、泣き顔はすぐに満面の笑みに変わった。蒼褪めた顔で玄関に棒立ちしている新の手首を優しく取り、暖房の効いた部屋へと誘う。
「痩せちゃったね……。もう会えないかな、って……ちょっと思ってた」
 ハルカは何も訊かなかった。酷く憔悴している新を気遣い、温かな飲み物を勧め、寝衣を用意し着替えを手伝った。ベッドを整え新を横たえさせると、クロゼットから取り出した予備の毛布を身体に巻き付けて、ベッドに頬杖を付いて、新の顔を見つめながら幸せそうに微笑んでいた。
 新は、ハルカの頭を優しく一撫でし、
「悪いな……」
 掠れた声でそう呟くと、意識を手放した。


 ドブ川にかかる小さな橋の上に、新はただ一人佇んでいた。血の如く赤い夕暮れ時の太陽が、一帯に建ち並ぶ無機質な建物を暖色に染め上げている。周囲の草木も建物も、全て見覚えのあるものだが、記憶の中より閑散とした雰囲気を漂わせていた。
 肉体から魂だけが離れ、現実味のない空間を漂っているような、妙な浮遊感が新を支配していた。酷く不安な気分に苛まれ、辺りを見回すが人影は無い。
「――新」
 耳慣れた声に、新は振り返った。オレンジの空に滲んだ、背の高い人影が橋向こうで手を振っていた。額に手をかざして眼を凝らすと、愛生の笑顔が見えた。途端に、確かな温度を孕んだ空気に包まれ、安堵の念が新の体中を満たす。愛生に近寄ろうと足を踏み出すが――。

 足が重い。何故こんなに重いのか。

 新は両足に渾身の力を込めるが、ピクリとも動かすことができない。助けを求めるような視線を愛生に向けると、愛生は穏やかな微笑みを湛えながら新に近付いてきた。

 見るもの全てが夕日に汚染された風景の中に、突如黒い人影が現れた。橙と漆黒の対比が、異様にその輪郭を浮かび上がらせていて、影絵のようだった。影は遠く、顔までは確認できないが、新にはその主が誰であるか、はっきりと分かった。
 新実匡次だ。
 近付いてくる愛生の背後に見え隠れする、凶悪な臭気を纏った新実の影。愛生はその気配に気付く様子も無く、ひたすら真直ぐに、新へと歩を進める。

 新実は、ゆっくりと右腕を胸の位置まで挙げた。長い銃身が夕日に煽られ、黒く鈍い光を放った。銃口は一直線に愛生の背中へと向けられていた。
 新の心臓は早鐘を打ち、背筋を貫ける激しい焦燥感に駆られ全身の肌が粟立った。しかし、身体中のどの部位も、新の意思に従おうとしない。

(愛生、逃げろ――!)
 声を絞り出そうとしても、肺から咽に喘鳴のように空気が抜けるだけだった。やがてくる惨劇を確信し、新は、耐え切れず愛生の影から眼を反らした。

 続けて二回の銃声――。乾いた発射音は、夕暮れの空に尾を引いて響き渡った。


 死体は二つあった。
 一つは金髪の少年で、薄く開いた双眸から止め処なく血の涙を流し、異様に折れ曲がった四肢をアスファルトの上に投げ出していた。
 その横には――。

※23話の冒頭にグロテスクな描写があります。苦手な方はご注意ください。
PAGETOP