陽光

「――愛生ッ!!」

 悲鳴に近い叫び声は、胸郭に反響し痛みを感ずるほどだった。

 少年の隣に横たわる死体は、すでに人型を留めぬほどに腐敗していた。大きく開かれた口と、頭蓋に陥没した眼窩と鼻腔からは大量の蛆が湧き出し生乾きの腐肉を屠っていた。
 手足は不自然に歪曲したまま硬直して、どす黒く変色した紙のような皮膚が骨格を覆っていた。所々剥げ落ちた表皮と肉の間から覗く骨は異様に白く、暗闇に浮き上がる蛍光管のようだった。

 朽ち果てた骸であっても、それでも、確かに愛生の死体だったのだ。
 銃弾によって抉られた左胸の、あばらの僅かな隙間から見える心臓だけが赤く、どくどくと脈打ち鮮血を噴出していた。血溜りはやがていくつもの細い川となってアスファルトの上を這い、蜘蛛の巣のように四方へと広がっていった。

「あぁ……ッ! ああぁ……」
 意識は混濁し、戦慄が新の全身を小刻みに震わせていた。嗚咽と咆哮が綯い交ぜになった声を咽の深奥から迸らせ、双眸からは止め処なく涙が溢れ出す。
 遠くに女の声が聞こえた。しかし、鼻の粘膜には腐臭がこびり付いていて、新は現実と夢の境界を認識できずにいた。

「お兄ちゃん! 夢――夢よ。大丈夫」
 ハルカに強く肩を揺さぶられ、新は、絶望と恐怖に歪んだ幽鬼の如き顔面を、ゆっくりと彼女に向けた。ハルカは堪らず、細い腕に満身の力を込めて、新を抱きしめた。
「……アイツが……愛生が死んだッ……! 死体が……」
「生きてるよ! お兄ちゃん、ただの夢よ。ね、分かる?」
 耳元で刻まれる鼓動音と確かな人のぬくもりが、真実を新の意識にゆっくりと浸透させていく。しかし、暗示めいた悪夢に慄き、涙も、震えも止まらない。寝衣は、全身から噴出した悪い汗でぐっしょりと濡れ、肌に張り付いていた。

 突如、上半身を捻りハルカの腕を振り払うと、新は毛布を引き摺ったまま転げ落ちるようにベッドから抜け出した。ローテーブルに置かれていた携帯を取り、目標の定まらぬ指で忘れようもない数字を順番に押していく。

(新か?)
 呼出音は二回。まだ明け方だというのに、寝ぼけた様子も無く張りのある愛生の声が、空気の振動となって新の鼓膜を刺激した。その響きは夢堺を彷徨っていた新の精神を漸く完全な現実へと引き戻した。
(……良かった。携帯買ったんだな)
 意識が覚醒すると、全身の細胞が死滅したかのような強烈な疲弊感が新を襲った。咽も舌も渇ききっていた。新は、ローテーブルにあった飲み残しの白湯を一気に呷った。
(……新?)
「居場所を……教えてやる」
 上擦った掠れ声で、新はそう告げた。一瞬、息を呑むような呼吸音が電話口から聞こえたが、その後を継ぐ言葉は返ってこなかった。
「教えてやるから、今は大人しくしてろ」
(……知ってるんだな?)
 愛生は声の調子を暗く落とし、新に確認を求めた。
「今日だ。今日、夕方四時過ぎに、『橋』で待ってる。……分かるな?」

 沈黙が続いた。思い当たるのは、愛生が十三年間近寄ることもなく、眼を叛け続けてきたあの場所しかない筈だ。絶対に来い、と念を押し、返答を待たずに新は通話を切った。


 携帯を握り締めたまま膝を抱えその場にうずくまった新の眼前に、冷たい水で湿らせた清潔なタオルが差し出された。
「熱があるね」
 ハルカは、涙に濡れる新の頬を愛しむように撫で、綺麗に微笑んで見せた。
「……見っともねぇよな……俺」
 今更弁解のしようが無い。新は微かに苦く笑い、タオルを受け取ると、顔を埋め全体を覆い隠した。ひんやりとした感触に、奪われていく熱が心地良い。新のすぐ傍らに膝を正して、ハルカは優しげな眼差しでその様子を見守っていたが、やがて、
「この間ね……私、分かっちゃった」
 と、独り言のように呟いた。
「お兄ちゃん、愛生さんが好きなのね」
 ピクリと肩を揺らし、身体を強張らせた新を横目に、ハルカは「着替えた方がいいわ」と、立ち上がりクロゼットの扉を開けた。プラスチック製の衣装ケースを弄りながら、ハルカは努めて明るい調子で言葉を継いだ。
「愛生さんが、何か危険なことに巻き込まれそうなのね? それで、お兄ちゃんは助けようとしている……違う?」
 真新しいスウェットの上下を膝元に置かれて、新は母親に促された幼子のように上着を脱いだ。ハルカは、新の背後に回りこみ両膝をつくと、人差し指で二枚のカードの縁をなぞった。
「ハートが彼で……スペードのジャックがお兄ちゃん」
 そう言って、持っていたバスタオルを広げ包み込むように優しく、新の背中を抱きしめた。
「私、見届けたい――。今日、一緒に行ってもいいよね?」

 ――関わるな。
 危険に巻き込みたくない一心で、口をついて出そうになったその一言を、新は飲み込んだ。ハルカの好意に正面から向き合うことも無く関係を続けてきた、余りにも身勝手な己を自覚していた。なにより、見届けたい、と言うハルカの口振りは、拒むことを許さない、決意めいた強さを滲ませいた。


 十三年経過した今も、未だ瞼に鮮明に焼きついている、夕暮れの空に舞う成水の小さな身体。思い出す度に、愛生は心が強酸に侵食されるような苦しみに身悶える。
 新が、否応無くあの『橋』を指定した理由は、充分過ぎるほど理解できた。少年の居場所を聞くために、愛生が受けなければならない誅罰の洗礼だ。

 愛生は自室を出ると、隣室で寝ている父を気遣い足音を殺しながら階段を下りた。居間の引き戸を開けた途端、眩しさに眼を細める。カーテンの隙間から射し込む黄色味を帯びた温光が射し照らす先には、飾り棚の上に並べられた二枚の写真があった。
 儚げに微笑む母の横に、十三年前と寸分違わぬ成水の姿。写真立ての片方を手に取り、俯き加減に照れたような笑みを浮かべる幼い顔を、愛生は眼で存分に慈しんだ。
「こっからすぐ傍だってのに――今までごめんな」
 偶然にも、今日は成水の月命日だった。
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