嵐の場合

 塩田 嵐は、今時珍しいヘヴィ・メタル少年である。

 彼の悲劇は、この世にオギャーと生まれ出たときから始まっていた。
 両親が若気の至りで製造してしまった十五も年上の兄、修也は、子守唄の代わりにスコーピオンズだの、アイアンメイデンだの、オジー・オズボーンだの、ジューダスプリーストだの、ゲーリー・ムーアだの、ホワイトスネークだの、メタリカだの、モトリークルーだの、ラットだの、ドッケンだの――とにかく、エレキギターがギュィィーンと咆哮するギンギンのレコードを、産着に包まれた嵐の耳元でかけまくったのだ。
 母、朋子は閉口していたが、多数決にはかなわない。
 そもそも修也の名前の由来自体が、父・正志の敬愛する日本のロックの草分け的存在、『内田修也』からとったものであるからして、つまり、父兄そろって筋金入りのコアなロックマニアなわけだ。嵐は、遺伝子情報そのものがギターコードで形成されている、と言っても過言ではなかった。
 いざ、名前を命名するときには、修也が「絶対、舞蹴(マイケル)だ」と言い出した。天才ギタリスト、マイケル・シェンガーがその理由ではあるのだが、流石の父も『ジャクソン』を想像して顔を顰めた上、普段おっとりとしている母親が頑迷に反対し、仕舞いにはさめざめと泣き出してしまったものだから諦めざるを得なかった。結局、スコーピオンズの名曲、『ROCK YOU LIKE A HURRICANE』のハリケーン=嵐(ラン)でいいんじゃねぇ?と、極めて安直に命名されてしまったのである。
 『舞蹴(マイケル)』を免れたことで一安心してしまった両親は、重大な過ちに気付かなかった。

 苗字は塩田、名前は嵐(ラン)。
 そう、続けて読めば『塩足らん』である。

 修也は度々、やっとハイハイをしだした嵐を抱きかかえ、近所の川べりまで訪れては、夜空を指差し「嵐よ、ヘヴィ・メタルの星を目指すのだ」などと、ワケのわからないことをほざいていた。
 そんな英才教育というか、単なる刷り込みというか、要は修也の方向違いの努力の甲斐あって、嵐は六歳の時点で、すでに子供用ぞうさんギターで、王道『スモーク・オン・ザ・ウォーター』を弾きこなしていた。♪ジャッジャッジャーン、ジャッジャッジャラーン♪の、あの名曲である。

 修也の野望は、嵐が中学に入学するころには概ね達成されていて、ギターの腕は並のプロには負けないレベルまで上達し、(最早古典となりつつある)M・シェンガーを神と崇めるようになっていた。そんな嵐の、父と兄からの入学祝いは、ギブソンのM・シェンガー・モデルのフライングVだった。
 中古ではあったが、嵐が夢にまで見ていた、ツートーンのフライングV。
 狂喜乱舞する嵐の姿を、父と兄は幸福至極と眼を細め眺めていた。

 学校に行く前にジャラーン♪、昼休みに屋上でジャラーン♪、家に帰ってからは寝る間も惜しんでジャラーン♪。優に、一日五、六時間はサルのように弾いていたであろう。

 時は、ス○ードや、ビジュアル系が全盛の時代。
 開襟シャツの下にはデカデカとユニオンジャックの入ったノースリーヴ、手首には鋲の光る皮のリストバンド、制服に合わせて特別に母親が仕立てたピチピチズボン(成長期ですぐ小さくなるので、結局卒業までに7本仕立てた。)、肩まで伸ばした(高校に入ったら金髪に染めるつもりの)ストレートヘア。クラスで浮いてしまうのは、言わずもがな、である。

 校則の緩い中高一貫の私立校。硬派な嵐の授業は極めて真面目、成績も中の上をキープしていた。よく、『他の生徒に悪影響を及ぼす』だの『風紀を乱す』だのという理由で、その髪型やファッションを注意される生徒はいるが、誰も嵐のスタイルをマネしない(できない、が正しい)ので、当然『悪影響』もくそもなく、教師連も嵐を煩く注意することはしなかった。(むしろ、面白がられていた観がある。)

 中学時代の最大の悲劇は、一緒にバンドを組んでくれる仲間がいなかったことだろう。見てくれとギターの腕を買われて、たまにビジュアル系のコピーバンドに借り出されたが、いつも練習の時点でキレて、スタジオから飛び出していってしまう。腕が違いすぎるし、なによりM・シェンガー様に顔向けできないような気分に苛まれてしまい、それが耐え切れないからだ。

 そんなちょっと、いや、かなり変わった生い立ちを持つ嵐にも、親友と呼べる、やはり変わっている連れが二人いた。
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