光彦の場合

江坂 光彦(エサカ ミツヒコ)は、どこか陰のある口数の少ない少年で、実際、なかなか不幸な経歴の持ち主である。

 光彦の父、陽平(ヨウヘイ)は居酒屋を経営している。経営、といっても僅か奥行き四間ほどのこじんまりとした居酒屋で、その二階は住居となっていた。陽平は極めて無愛想な店主であったが、立地と味が良いことで、『居酒屋 よっちゃん』は、いつも常連客で繁盛していた。
 光彦が生まれてすぐに母親が他界したせいもあって、小学校時代は、下校後のほとんどの時間を居酒屋の店内で過ごしていた。

 身長がニョキニョキ伸びた十六歳の今となっては見る陰も無いのだが、光彦は、小学生まで愛くるしい子犬系の顔をしていたため、常連客に「みっちゃん、みっちゃん」と、とても可愛がられていた。

 酒が入り、興に乗じた常連客たちは、光彦に良いことも悪いことも教えてくれた。演歌の歌唱法から、コイコイ(花札賭博の一種)だのチンチロリン(サイコロ賭博の一種)だのという大人系ゲームの遊び方、果ては株の相場の張り方まで、図解つきで事細かに光彦に教え込んだのである。

 ある日、いつものように『よっちゃん』で手伝いをしていた光彦は、自称二十九歳のオミズ系女性に、トイレットペーパーが切れている、と手洗いに呼び出された。オミズさん(仮名)は、「おねぇさんが、イイコト教えてあげるわね」と、光彦の耳元で囁いた。キョトンと首を傾げる光彦の脇腹を掴んでストンとタイルの床に座らせると、穿いていた半ズボンを一気に引き摺り下ろした。
 脳内が真っ白になっている光彦は抵抗する余裕も無く、されるがままになっていた。
 かなり熟練したテクニックであれこれと責められ、

「――あっ……!」

 という間にコトは済んでしまった。
 オミズさん(仮名)は、ニヤリと笑みを浮かべ「ごちそうさま」というと、ササと自分と光彦の衣服を整え、何事も無かったようにトイレを後にした。視界が色づいていくにしたがって何が起こったのかを理解すると、「うわぁぁ~~ん」と号叫しながら、光彦は二階へと駆け上がっていった。そう、光彦は大切な童貞を自称二十九歳のオミズさん(仮名)に強奪されてしまったのである。
 ―――光彦十一歳の夏であった。

 中学に上がった光彦は、背が伸びてきたせいもあって子犬系の印象は消え、どこか陰を匂わす少年へと変貌していた。早熟な男子生徒たちが、捨ててあったスポーツ新聞の『電車で堂々と読むと顰蹙を買うページ』だの、兄貴の部屋に忍び込んで拝借してきた『肌色の多い写真集』だのを広げて教室の隅で騒いでいる光景を横目で見ながら、「夢見てんじゃねえよ」と口の端を歪めて、フンと鼻を鳴らしていた。

 父親がヤクザ、という根も葉もないウワサも手伝って、クラスメイトたちは光彦に一目置いていた。
 光彦は、昼休みには経済新聞の株式欄を広げ、授業中には競馬中継をイヤホンで聞き、放課後には体育用具倉庫でピンコロガシやヨイド(サイコロ賭博の一種)の鉄火場を仕切っては『ロクゾロのピン』『シゾロのドッパ』と出目を読み上げていた。明らかに経験済みと思われるその態度も然ることながら、新発売のゲームソフトに現を抜かす年頃の少年少女たちのなかにいて、極めて異彩を放つ存在だったのである。
 自然と、不良少年たちが光彦の周りに集まりだしたが、本人は特にグレているつもりはなく、飄々としていた。
 右脳の働きはいまひとつ緩慢な光彦だったが、理数系には突出した才能を発揮し、高校レベルの問題をスラスラと解く。その才能は後に『伝説の相場師』へと花開くわけだが、それは大学を卒業してからの話である。

 そんな光彦の唯一にして最大の弱点は、女性であった。
 女性を前にすると、どうしても『あの悲劇』が脳裏を横切り、逃げ出したくなる衝動に襲われる。
あの、酒と安っぽい香水の混じった匂い、剥げた口紅、目じりの皺にこびり付いているファンデーション―――。
 女性との接触を避けるよう細心の注意を払って日々生活しているが、どうしても対峙しなければいけないときは、無表情で言葉少なに適当にあしらうと、さっさと背中を向けてしまう。
 『クールでミステリアスでちょっと不良』ぶりが女子生徒に大ウケし、光彦の思惑とは裏腹に、学年で一、二を争う人気の男子生徒になってしまった。

 先天性のものか、あるいは悲惨な体験のトラウマか、光彦は中学二年の時点で、すでに女性を愛せない体であることを自覚していた。
 男子校に行かなかったことを心から後悔する光彦であった。
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