嵐のラン闘事件

 一つ、ヘヴィ・メタルは太るべからず。
 一つ、ヘヴィ・メタルは日に焼けるべからず。
 一つ、ヘヴィ・メタルは短髪にするべからず。
 一つ、ヘヴィ・メタルは背筋を伸ばすべからず。
 一つ、ヘヴィ・メタルは笑顔を安売りするべからず。

 ――以上が、嵐の『ヘヴィメタ五箇条』である。

 嵐は、ハーフの純生より余程、欧米人の造形に近い。
 彫りが深く、顔を形作る部品がそれぞれくっきりしていて、女顔というわけでは決して無いが、シャギーの入った長髪が良く似合い、どこか中性的な魅力を醸し出していた。
 身の丈は、百八十四センチの光彦に比べ六センチほど低いが、これで姿勢が良く、痩せぎすでなければ、モデルにでもなれたであろうマスクと、均整のとれた体躯をしている。
 痩せぎすといっても、フライングVとケース、ミニアンプを合わせて総重量六キロの荷物を毎日担いで登校し、暇を見つけてはフライングVを爪弾いているので適度に筋肉はついている。しかし、そのファッション性ゆえ『ガリ』という印象を誰もが受けてしまうのである。
 その上、『五箇条』を信念とする余り、顔色とその表情は「保健室、行く?」と、つい声をかけたくなるような状態が常で、嵐は不健康そのものの妖しい空気を全身から漂わせていた。
 嵐の容貌を一言で示すなら、『リビングデット』の美形ヘヴィメタバージョン、といったところである。

 三人の通う学校では、中等部と高等部の合同学園祭が毎年十一月に開催される。
 嵐は高等部のメンバーで編成されたバンドに腕を買われ、学園祭のステージでそのテクニックを披露することとなっていた。基本はビジュアル系なれど、オリジナルを数曲持ち、意外に骨太な音を追求しているのが肌に合って、メイクをしないこと、衣装を着ないことを条件に嵐は参加を了承した。

 学園祭まであと三週間に迫ったある日のこと、バンドマスターが突然、練習スタジオに一人の女生徒を連れてきた。彼女の担当はキーボードで、バンマスが言うには、もう少し一般受けするアレンジにしたいから急遽参加させることにした、とのこと。 確かに、参加バンドの殆どはヒップホップかJ-POPのコピーバンドで、今時、骨太ロックではイマイチ華が無く、バンマスの判断は賢明といえた。

 しかし嵐は、『ヘヴィ・メタルは男の美学』というやや女性蔑視的な偏見の持ち主であり、その上、チャカピコ系の電子音は大嫌いであった。
 それでも、男が一度引き受けたこと、と我慢して練習に参加していたが、選曲は売れ線のビジュアル・ロックに大幅に変更され、アレンジはどんどん軽薄になり、チャカピコチャカピコとすぐ横でトリハダものの電子音を鳴らされ―――ついに嵐はキレた。
 学園祭まであと一週間というところで、嵐は突然、「マイケル、やっぱり俺にはできない!」という謎の言葉を叫び、スタジオを飛び出していってしまった。その後、バンマスが中等部の教室までしつこく説得しに訪れたが、二度と練習に顔を出すことはなかった。


 ――学園祭の結果は散々たるものであった。
 急遽代打に起用されたギタリストはコードすら入っていない状態で、ギターのソロは全て削られ、各パートもチューニングからリズムまで、てんでバラバラ。盛り上がりもへったくれも、聴衆から同情すら買うほど悲惨なステージであった。


 学園祭が終わって数日経過した、とある日。
 放課後、すっかり帰り支度をした嵐に、怒り心頭といった様子のバンマスが声をかけた。ある程度の責め折檻を覚悟していた嵐は、一発殴られてやるつもりで素直に彼の後に従った。
 実は、嵐のドタキャンはこれが初めてではない。以前にも、別のバンドでライブ直前に逃亡をしているので、校内のバンドマン全員から多かれ少なかれ反感を買っていた。

 つれていかれた先は、体育館を囲む高いフェンスと校舎の間にはさまれた死角となっている狭い敷地で、 そこには嵐に恨みを持つバンマスを合わせて十人の、腕に覚えあるバンドマン達が集まっていた。
 ――彼らはこの後、嵐のもう三つの条を知ることになる。


「塩田、テメェやってくれたな」
 充分に怒気を孕んだ声でバンマスが言った。

「悪かったとは思ってるが、途中でメンバーを追加するなんて聞いてなかったぜ」
 顎とクイとしゃくり、見下ろすような目線をバンマスに投げ、至極冷静に嵐が答える。
 堰を切ったように周囲から野次が飛び始めた。

「てめぇ!ナニサマだと思ってンだよっ!」
 一番図体の大きい男が、背中に背負われたフライングVのケースを無理矢理引き剥がし、嵐を背後から羽交い絞めにした。

「――あっ!」
 フライングVが、地面に投げ出された途端に、嵐が驚愕の一声を上げた。と、同時にバンマスが嵐のレバーに一発、拳を捻りこむ。

 ……一つ、嵐のフライングVにさはるべからず。然すれば、鉄拳を喰らふこと無し。

「ナンなんだ?テメェの名前はよぉ。塩味足ンないんじゃないのぉ?」
 一団から下卑な笑いが起こる。

 ……一つ、嵐の名前をからかふべからず。然すれば、血の目を見ること無し。

「大体、マイケル・ナントカなんて、今時ダレも知らねーっつの、馬鹿が」

 ……一つ、M・シェンガーを莫迦にするべからず。然すれば、三途の川を渡ること無し。

 彼らは、嵐の三つの地雷を順序良く踏んだ。
 普段、あまり喜怒哀楽を表さない嵐の顔は、みるみるうちに鬼神の形相へと変貌を遂げる。どうやら、怒りのトランスミッターが限界値を超えたようだ。
 瞬間、嵐は背後の男のつま先を思い切り踵で踏みつけ、怯んだ矢先に、俊敏な動きで上半身を屈め、続けざまに肘鉄を鳩尾に喰らわした。スルリと背後に回りこむと男の両肩をガッシリ掴み、背中の中心に軽く膝を入れのけぞらせた後、開いた脇腹に渾身の力で回し蹴りを放つ。嵐の一連の動作は実に流麗で寸分の狂いなく相手の急所を突き、男は低いうめき声を上げ、白目を剥いてバタリとその場に倒れこんだ。
 一団は嵐の豹変振りに驚きながらも、バンマスの「やっちまえっ!」というお決まりの台詞を合図に、一気に襲い掛かってきた。

 相手は全て高等部の人間で、半数は嵐より体格が良く喧嘩慣れをしている連中であったが、怒りの鬼神と化した嵐は臆することなく、軽快に攻撃をかわしながら、確実に拳をヒットさせていく。
 しかし、流石に九人相手では苦戦を強いられ、嵐は二、三発いいのをもらって、口からタラリと鮮血を流した。手で血を拭い、確かめるように甲に一瞥を投げると、不敵にもニヤリと笑った。
 その様子に背筋に寒いものを感じながらも、一団は攻撃の手を緩めることはなく、どこから持ち出したのか金属バットを振りかざし嵐に向かっていった。嵐は全身をバネのようにして、凶器を既に避けながら、隙在りと見ては鋭い攻撃を放ち、一人、また一人と地面に沈めていった――。

 この大立ち回りを、途中からではあるが、光彦と純生は物陰から見物していた。
 なんだかんだで隠れファンの多い三人組、嵐が剣呑とした雰囲気の男につれさられたとなるや、事情を知るクラスメイトの一人は光彦の鉄火場に走り、また一人は帰宅の途に就き校門をくぐろうとしていた純生に一声かけた。

「……加勢しなくって大丈夫?」
 純生は、不安気に光彦の顔を見上げた。二人は似たような光景を小学生の時分に幾度か目撃している。
「今の嵐は核弾頭だ。ヤツら、地雷を踏んだな」
 実は喧嘩大好き、の光彦は目を輝かせ、加勢したくてウズウズしていたが、助太刀を潔しとしない嵐の性格を二人ともよく理解していた。

「テメェっ!その右手、使えなくしてやる!」
 叫んだ男は、嵐の右腕目掛けて思い切りバットを振り下ろした。反射的に右腕を庇い身を捩った嵐の脇腹に、鈍い音とともにバットがめり込んだ。「グゥッ」と呻くと同時に、然しもの鬼神もカクリと片膝をついた。
「あっ」
「嵐っ!」

 バンマスがすかさず嵐の後頭部を掴み、強引に地面に顔を押し付けると、背後から圧し掛かり咽元を締め上げる。

「いくぞ、純生」
 嬉々として、光彦。
「えっ!?……う、うん」

「おらぁっ!テメェら、死ねやぁっ!」
 物陰から勢い良く飛び出し、ドスの効いた声で光彦が叫ぶと、一同がギョッと二人を見遣った。すでに半数は嵐の手によって撃沈されていたが、未だ元気のあった四人が光彦に向かって凶器を振りかざし攻撃を仕掛けた。
 しかし、光彦は長身とそのリーチを生かし、難なく相手をなぎ倒していく。
片や純生は、両目を瞑りながらもロボコンパンチを必死に繰り出しており、戦力にならずとも、その涙ぐましい友情を全身で示していた――。

「……余計な手出し、しやがって……」
 光彦と純生の肩に掴まり、引きずられるように歩きながら嵐が呟いた。
「ばぁーか、俺は喧嘩したかったんだよ」と、光彦。
 純生はひたすら心配そうに嵐の顔を見上げていた。

 結果、嵐は肋骨にヒビの入る重症、一週間の入院と一ヵ月半に及ぶコルセット生活を余儀なくされた。しかし、一団のうち四人は嵐より余程その症状は重く、最高一ヶ月病院のベッドの上で過ごす者もいた。
リンチ事件の主軸となったバンマスと数人の学生は二週間の停学処分、嵐も退院後、学年主任に「やりすぎだ」と言われ、一週間の謹慎処分を受ける。

 この事件を機に、本来ザコキャラである『リビングデッド』も、怒らすと恐い、という事実は、校内に広く知れ渡ることとなったのである。
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