嘆きの純生

 丁度、近所の主婦達が買い物に出かける時間帯。適度な賑わいを見せる西口駅前商店街にて、ド金髪ギター少年と、身の丈も醸し出す雰囲気もおよそ高校一年生らしからぬ光彦は、図抜けて目立っていた。

 左手に『居酒屋よっちゃん』、それから三分ほど歩き商店も疎らになってきた頃、右手に塩田邸『建売り土地付一戸建』。さらに五分ほど歩くと辺りの様子は閑静な高級住宅街へと変貌を遂げる。
建ち並ぶ邸宅の中でも特に際立っている、白壁とオールドブリックタイルのコントラストが美しく『白亜の豪邸』と呼ぶに相応しい洋館が、『根岸邸』であった。

「考えてみりゃ、俺ら純生ン家なんていったことねぇよな?そういやお前ン家も」
 純生家に向かう道中、首を傾げながら光彦が言った。
「九年もツルんでるのにな。光彦のとこは通り道だけど。でも、近所で有名なあの豪邸じゃ、迷いようがないよ」

 素焼きレンガで造られたアーチ門の呼び鈴を押すと、慇懃無礼お手伝いの『ひろさん』が二人を出迎えた。突如理由も告げず帰宅した純生に何某かの事件を嗅ぎとった様子で、『ひろさん』は終始無言で二人を純生の部屋へ案内した。
 ムク材を贅沢に使った内壁に、プロヴァンスの薫り漂うセンスの良いインテリア。
 築三十五年の、薄汚れた黄緑色の砂壁に囲まれた狭い四畳半を居住空間としている光彦には何もかも珍しく、思わず、「ミスターちんになった気分だな」と、嵐の耳元で囁いた。嵐は「なんのことだ?」と顔を顰めていたが。

 純生は、二人の来訪にすら気付かず『嘆きのテレーズ』さながらにベッドに突っ伏し、悲劇のヒロインしていた。

「――純生? やっぱり帰ってたんだな」

 恐る恐る嵐が声をかけると、純生はビクリと体を揺らし、ゆっくり顔を上げた。純生は光彦を見るなり、潤んだ瞳にあらん限りの目力を込めて光彦を睨みつけた。実際、純生に睨まれたところでちっとも恐くはないのだが、その激昂ぶりは二人の見慣れぬ姿であったので、困惑し顔を見合わせる。

「お前、なんで帰っちゃったんだよ」と、嵐。
「……知らないっ……」
 震える声でそう云うと、純生はベッドに平伏し、再びヒロイン開始。

 嵐が光彦の脇腹を肘で突付く。
 光彦が「俺が悪ぃのかよ」、とでも云いたげな表情で嵐を見遣ると、嵐は大きく二回頷き、光彦を促すように顎をしゃくり純生を指した。

「…悪かったよ、純生。対処法を一緒に考えねぇか?」
 純生は変わらず羽毛布団に顔を埋めて、しゃくり上げている。
「なぁ、許してやれよ。光彦に悪気が無かったの、わかってるんだろう?」
 嵐が優しげな口調で宥めるように云い、純生の肩にそっと触れた。

「……光彦が……光彦が、僕を見捨てるようなことっ……!酷いよ……」
「あのなぁ、俺らだって一生同じ教室に居るワケにゃいかねぇだろ?対人恐怖の純生にゃいい機会だって思ったんだよ、俺は」
 突然、ガバッと身を起こした純生が、必死な形相で二人に訴えた。
「だって、ヤなんだ。ホームルームまでは我慢したけど……二人が一緒じゃないと……恐いし……息苦しくなっちゃうんだもん」

 ――息苦しい?
 嵐と光彦は、今日の新しい教室で感じた『息苦しさ』を思い出した。嵐が光彦を指差し「お前、どうだった?」と訊くと、光彦は「まぁ、ちっと酸欠っぽかったかな」と答えた。
「でも、それって慣れればどうってことないんじゃねぇ?九年同じ教室だったんだから最初の内は仕様がねぇけど、さ」
 と、どこまでもお気楽に光彦。それを聞いてまた純生が「ウッ」と、瞳を潤ませた。

 三人とも同じ酸欠状態に陥ったと理解した嵐は、暫く思案顔で腕組みをしていたが、やがて
「要するに、息継ぎすればいいんだよ」と、人差し指を立てて、二人に提案した。
 嵐の云わんとしていることを要約すると、こうである。

 九年間、意識もせずに同じ空間をただ共有していただけの三人組、今回のクラス変えで大なり小なりそれぞれが動揺しており、その結果呼吸器官に異常を来たすまでになってしまったのではないか。深刻な事態に陥る前に、適度に三人の時間を作って酸素補給をし、一日一日を乗り切っていけば良い。短い休み時間では移動だけでその殆どを浪費してしまうので、まず朝一緒に登校し肺一杯に酸素を溜め込み、昼休みに屋上で息継ぎ、下校後にまた誰かの家でO2補給。そうすれば純生もなんとか耐えられるのではないか――という算段。

「どうだ、純生。できそうか? 恐いのは仕様が無いが、退学するわけにはいかないだろう?」
「だだって、また授業中指されたりしたら……」
「あぁ、それなら学年主任に云っといてやるよ。安心しな」

 光彦は、競馬の予想屋のようなことを中等部からやっていた。教頭を始め、学年主任から用務員に至るまで安い金額でレース予想を売りつけ、年間数十万単位の利潤を上げさせていたので、その発言力たるや生徒会長のそれとは比ぶべくもない。光彦の鉄火場が、表沙汰にならず中等部三年間存続できたのも、この賄賂とも言える競馬予想のお陰であった。

 純生は小さく「うん、頑張ってみる」と返事をし、嵐と光彦は一先ず胸をなでおろした。

 ――こうして、三人の素潜り生活が始まった。

 中等部までは、何かイベントのあった時にだけ妙な連帯を見せていた三人ではあったが、特にベタベタとしていた訳ではなく、必要最低限の会話しか無かった。それだけで充分満足だったのである。
 しかし、この素潜り生活は大きな変化をもたらした。有ろうことか奇異な三人組は、お互いについて語りだしたのだ。
 まるで九年分の沈黙を取り戻すかの勢いで。
PAGETOP