ダイバーズ

「光彦ーっ!遅いぞーっ!」

 今日は素潜り生活、初日。居酒屋『よっちゃん』の裏口から二階の窓を仰ぎ見、待ちくたびれた嵐が大声で叫ぶ。

「――嵐! うるせぇぞっ!」

 郷愁すら醸し出す、曇りガラスがはめ込まれた年代物のサッシが開くと同時に、光彦が怒鳴った。光彦は、Yシャツを素肌の上に軽く羽織り、首から紺のタイを無造作に垂らして、寝癖のついた髪をポリポリと掻きながら如何にも不機嫌そうにヌッと顔を出した。「ちっと待ってな」と憎々しげに言い捨てると、ピシャリと窓を閉める。

「……アイツ、寝起き最悪だな」と、嵐。
「うん。知らなかった……」と、少し怯えた様子で、純生。

「待たせたな」と、リーダー張りの高飛車な台詞を吐いて『よっちゃん』の裏口から光彦登場。
 ムッツリと口をへの字に曲げて、相変わらず不愉快そうである。普段は飄々として感情の起伏が少ない光彦の意外な寝起きの悪さに、嵐と純生は対応に窮し、駅に着くまでの数分間三人は無言のまま歩いた。

「――ねぇね、光彦のところは、朝、和食? それともパン?」
 ホームで電車を待つ間、気不味い空気に耐えかねて、純生が光彦に当り障りの無い質問を投げた。
「朝メシにパンなんてシャレたモン、食ったことねぇよ、俺は」
 けんもほろろな光彦の応対に純生は項垂れ、救いを求めるように嵐の顔を見上げた。
「でも、お前んトコのオヤジさん、板前だよな? 和食の朝メシ、美味いんじゃないか?」
 嵐は努めて柔らかい口調で光彦に話し掛けた。

「……お前らなぁ、毎朝モツ煮込みともろきゅうでメシをカッ込む俺の身にもなってみな」
 嵐の問いは、余計に寝起きダークマターを刺激してしまったらしく、光彦は声を荒げた。
「モツニコミ? モロキュウ……? なんだか美味しそうだけど」
 と、天然ぶりを発揮して、純生。
「モツだぞ、モツ。豚の内臓! もろきゅうは、モロにキュウリ! 分かってンのかよ? ついでにポン酒でも出しやがれっての」
(もろきゅう→胡瓜にもろみ味噌を付けて食す代表的な酒の肴。モロに胡瓜の略では決して無い)

 高い位置から二人をギロリと睨むと、フンと鼻を鳴らし、光彦はそれきり外方を向いてしまった。
嵐は、八つ当たりすんなよ、と心中毒付きながら口を尖らせた。しかし、触らぬ神になんとやら、嵐は本日一番の問題である純生に向き直ると、
「純生、空気一杯吸っとけよ」と、優しく背中を撫でた。
「……うん」
 純生は、弱々しく頷いた。


 学校に近付くにつれ、どんどん純生の表情からは余裕が無くなっていく。すでに呼吸は乱れ、光彦と嵐の顔を交互に見上げては、胸に手を当てて短い深呼吸を繰り返す。
 校門を潜り桜並木を抜け正面玄関へ、下駄箱で上履きに履き替えると、嵐が純生の肩に手を置いて、
「純生、昼休みまでのガマンだぞ」と、真剣な面持ちで言った。
 現金なもので、学校に到着する頃には光彦の寝起きダークマターもすっかりどこ吹く風、「まぁ、気楽に。気楽にな」と気の抜けたエールを純生に送った。
「……昼休み、屋上だよね? 絶対だよ?」
 純生は拳を握り締めながら眉間に皺を寄せ、決死の勇を鼓し教室へと向かった。


 一時間目から四時間目までが午前中の授業。そして、十二時半から一時十分までが昼休みである。
 午前中、三人は落ち着き無く、それぞれに息苦しさを感じながら過ごしていた。

 純生は、ひたすら黒板と腕時計を交互に見ながら授業を受け、十分間の短い休み時間の間は、広げたA4サイズのノートパソコンに突っ伏すようにして周囲との壁を作り、なんとかやり過ごしていた。
 裏から学園を牛耳るギャンブラー『光彦』と、デンジャーなヘヴィメタ小僧『嵐』、花も恥らう美少年『純生』、三人の不思議な友人関係はすでに有名である。迂闊に純生にちょっかいを出して、光彦と嵐の逆鱗に触れるのは、生徒はもちろん教師とてご勘弁願いたいところであったので、クラスメイトたちはその人形のような端整な顔立ちを遠巻きに眺めているだけであった。

 しかし、ほんの一部、「高入生」と呼ばれる、高校から『桜進学園』に入学してくる生徒達は違った。高入生は、十人居るか居ないかの割合でそれぞれのクラスに配されており、その誰もがすでに勝手知ったる中等部の面々からは浮いていて輪に入るべく躍起になっていたのである。
 孤独に休み時間を過ごす純生は、選抜Aクラスに八人居た高入生から同類だと見なされ、彼らは虎視眈々と純生に声をかけるタイミングを計っていたのである。と、それは追々。

 一方、光彦。
 授業中、相も変わらず競馬中継をイヤホンで聞きながら、時折思いついたようにノートを取り、息苦しさを感じては頬杖をついて最後部窓際の席から校庭を眺めていた。
(――お、嵐は体育か)
 高等部一年の教室は一階であったので、目の前の校庭が良く見える。
(青ジャージ、ダセェー。金髪に似合わねぇなぁ……)
 光彦は、如何にもやる気無さげにゴールポストの傍にボケッと突っ立っている嵐を見つけて、目を細め、くつくつと笑いを噛み殺していた。嵐は、光彦の視線に気付くと、舌を出して(ファック!)と云わんばかりに中指を立てて見せる。光彦は、にやけた笑いを浮かべつつ、三時間目の間中、嵐の貴重なジャージ姿を目で追っていた。

 そして、嵐。
 その生活のほとんどをギターに捧げる嵐は、授業だけは糞真面目に受ける。それが嵐の勉強の全てであり、予習だの復習だの、テスト勉強だのの経験は、中学受験の時以外皆無である。しかし、嵐も息苦しさに気を取られ、教師の弁は右耳から入りそのまま左から抜けていく、一時間目から四時間目まで、散々の体たらくであった。
(大丈夫かよ、俺たち)
 なんとかノートだけは書き写したものの、全く身の入らない授業を思い返し、休み時間に溜息をつく。嵐は、三人のうち一番几帳面な性格をしており、自分たちの今後を真剣に憂慮していた――。

 昼休みを告げるチャイムとともに、純生は脱兎の如く教室から飛び出し、丁度中間地点にあたる嵐の教室に向かった。

「嵐っ!」
 廊下に出た嵐の姿を即座に見出し、純生が悲鳴にも近い呼び声を上げた。
「おう、大丈夫だったか?」
 純生は、一気に嵐の傍に駆け寄ると、その胸元に顔を擦り付け思い切り息を吸った。
「嵐の匂いだぁ……」と、半泣き状態で純生。
「ハミングの匂いだろ?」と、嵐からは間の抜けた返事。
「お前ら、弁当か?」と、しばらくして光彦。
「うん」
 嵐と純生は声を揃える。
「そうか、俺、ちっと購買行ってくるわ。先に屋上行ってな」
「光彦はパンか?」
 ジャージのお返しとばかりに、含蓄ある口調で嵐が言う。
「俺に昼までモツとキュウリ食えって言うのか? 嵐よ」
 光彦は、嵐のにやけ顔に忌々しげな一瞥を投げると、階段の反対側にある渡り廊下横の人だかりへと歩き出した。

「俺、コーヒー牛乳!」
「僕、オレンジジュースね!」
 パシリを頼む二人を尻目に光彦は先を急いだ。


 二人は四階建て校舎の階段を登り、屋上へと赴いた。
 景色の良い場所ほど、高学年が幅を利かせるものである。ご多分に漏れず桜新学園にも暗黙の掟があり、低学年はまずその聖域を侵そうとしなかった。二人が屋上のドアを開けると、屯って居た三年生の数グループが金髪と美少年を一斉に睨め付けた。
 嵐は特に気にする様子も無く、適当な場所を見つけて腰を降ろしたが、純生はドア付近で小動物のようにビクビクと怯えていた。

「何やってんだ?」
 パンの詰まったビニール袋を手に下げた光彦が、純生の背後から声をかけた。
「……だって」
「お、あそこにしようぜ。嵐!こっちこいよ」

 光彦はズカズカと広い屋上を斜めに横切り、角の、一番景色の良いフェンス近くに座り込んでいた四人組に「どきな」と声をかけた。光彦の顔を見るなり、四人組は舌打ちしながらも腰を上げ、空いている屋上の中央付近に渋々と移動する。

 最高の位置を陣取り、暫くは食事をも忘れ、それぞれ好きな体勢で眼前に広がるパノラマを見つめていた。
 春の薫る風が三人の頬を優しく撫で、どこまでも青い空が、息苦しさを一気に開放する。

「生きてるって感じ……」
 純生は、天を仰ぎ肺一杯に空気を吸い込む。純生の呟きが、決して大げさではないことは、嵐も光彦も自覚していた。
 嵐は、フライングVのケースを抱き、ゴロンと仰向けに寝転んだ。
「ホレ」
 光彦がビニール袋からコーヒー牛乳とオレンジジュースを取り出し、二人に手渡す。

「こりゃぁ、なんとしても来年は同じクラスにならなきゃなぁ」

 昼休みの雑多な騒音を遠くに聞きながら、純生と光彦は、嵐の一言に深く頷いた。
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