鋼鉄のゲノム

 扉を開けると――そこは異次元空間だった。

「ほら、これが”A”、これが”Eマイナー”でちゅよー。これが”F”……ちょっと難しいでしゅねー」
 すっかりメルトダウンした顔付きで、幼児言葉と謎のアルファベットを連発しながら、ゾウさんギターをかき鳴らすド金髪ヘヴィメタ少年。傍らには、お揃いの子供服に身を包んだ、一見して一卵性と判る双子が無邪気に戯れていた。

 ドア前を立ち塞いでいる光彦に気付いた嵐が、
「お、来たか。カワイイだろー? 俺の甥っ子たち」
 と、叔父バカっぷり炸裂の、とろけた笑顔を光彦へと向けた。

 光彦の背に不快な冷気が広がる。
 フニャフニャしてる、行動が読めない、すぐ泣くエトセトラ――何を隠そう、光彦は女性の次に子供が苦手なのである。
 目を見開いたまま動けずにいる光彦の背後から、
「わーん、カワイイッ!」
 女子高校生の如く声を裏返してそう叫ぶと、純生は光彦を押し退け、靴を脱ぐのももどかしげにバタバタと嵐の部屋に上がりこんだ。
「だろ? マー君とコー君。はーい、コンニチハー」
 双子を膝の上に乗せ、それぞれの手を取り純生へと軽く振って見せる。
「おいくちゅでしゅかー?」と、純生。
 恥ずかしそうに小さな手でピースサインを作る男の子の代わりに、
「二歳でちゅー」
 と、裏声で答える嵐は、まるで怪しい外国人腹話術師であった。


 中間テストを無事乗り切り、羽を伸ばしに塩田家に訪れた光彦の眼前に広がる、恐ろしげな光景。硬派ヘヴィメタが、デレデレと子供をあやす姿は正視に耐えざるものがあった。
 五月も半ば過ぎ、陽気は初夏そのものの清々しさだというのに――唐突に脳内に湧き出た疑問が、光彦の全身を冷気に包んだ。
 しばらく考え込む素振りを見せた後、重い溜息を一つ吐いて、光彦は部屋へと上がりこんだ。壁に背を擦りつけるようにそろそろと歩き、最奥の隅を陣取って胡坐を掻く。

「訊きたかねぇが……名前の由来はナンだ?」
「え? そりゃお前――」

 塩田 真郁(マイ ク)。
 塩田 晃次(コー ジ)。

 命名、嵐。真郁の由は言うまでもない。晃次は、さまざまな有名バンドを渡り歩いた、かの天才ドラマー、コージ-・パウエルから。”マイ”と”コー”を続けて読めば”マイケル”だ!――と、得意満面に解説する嵐に、光彦は無表情を崩さなかったが、純生は瞠目して言葉を失った。

 僅か二歳の子供に嬉々としてギターコードをレクチャーする嵐と、双子のヘヴィメタ予備軍。
 脈々と受け継がれる鋼鉄の遺伝子――因果は巡るとは、このことである。

「いい名前だろ? マイクとコージーだったら、将来海外進出しても通用するよな」
「……」
「……」

 返答に詰まった純生は、心からの同情を込めて双子の頭を優しく撫でた。子供嫌いの光彦でさえ、天真爛漫に微笑む物知らぬ双子に、憐憫の情を抱かずにはいられなかった。

「嵐、悪い。買い物に付き合ってて遅く……お、ウワサのスーちゃんとミキちゃんか?」
 黒髪短髪、十ほど老けた嵐の、リーマン休日バージョンと言うに相応しい容貌の男が、ひょいと顔を覗かせた。実年齢は三十歳、白い綿シャツに洗いざらしのジーンズがよく似合い、顔の造形こそ良く似てはいるものの、受ける印象は、嵐とは対照的に爽やかそのものである。
 兄、修也。間違いない。
 背筋を伸ばし、膝を正して純生がペコリと頭を下げた。すると、
「スーちゃんね。聞いてた以上に可愛いねぇ」
 修也は、如何にも裏表の無さそうな溌剌とした笑顔を顔中に広げ、クシャクシャと純生の頭を撫でた。嵐そっくりの顔形に眉を開き、初対面にしては珍しく、照れたような微笑を修也へと返す純生を見て、 光彦がむっつりと口角を下げた。何故だか面白くない。

「ミキちゃんだろ? 嵐が世話になってるね」
 どうも、と顎を突き出し、おざなりな挨拶を返してフイと外方を向いた光彦を、修也は気にするでもなく、アコースティックギターを手に取り嵐の隣に腰を下ろした。
「嵐。G、Eマイナー、C、D……」
 言い終わらないうちに、修也はアコースティックギターでシンコペーションのリズムを刻みだした。数拍置いた後、嵐がぞうさんギターで即興のリフを重ねていく。途端に、ちびっこヘヴィ・メタルズが、キャッキャと手を打ち鳴らしてはしゃぎだした。
 どうやら、この家族セッションは休日恒例の行事のようである。純生は感心頻りな面持ちで、嵐と修也の顔を交互に眺めていた。

「あ、今の良かったろ?」
「七十点だなぁ……スーちゃん、タンバリンやる?」
 突然の指名に驚いて、純生はふるふると首を振った。
 笑い合い、ギターで会話を交わす嵐と修也――時折、手を止めてはじゃれ合い、楽しげにラウド談に花を咲かせている。双子の息子と歳の離れた弟への修也の溺愛ぶりは、傍から見ても相当なものであることが分かった。

 輪をかけて面白くない。
 純生が初対面の修也に微笑みかけたからか、はたまた一人っ子の境遇で経験し得なかった他愛も無い家族の戯れに羨望を抱いてか。説明不能のもやもやとした感情が、光彦を苛立たせていた。
 光彦とて、子供のいる部屋で煙草を吸わない程度の気遣いはできる。しかし、吸えないときほどニコチンへの欲求は高まり、更に光彦のイライラを増幅させるのだ。

 そんな折、タイミングが良くも悪くも、光彦の携帯が鳴った。派手派手しく鳴り響く『仁義無きテーマ』に、自然と部屋にいる全員の目が光彦へと集まる。
 ポケットから取り出し着信を確認するが、液晶画面には見知らぬ番号が表示されていた。
 携帯を耳に当てた光彦は、「もしもし」と言う代わりに、ムッと仏頂面を作った。

「――あぁ、分かった」
 とだけ返事をし、通話を切って携帯を胸ポケットに収めると、光彦はおもむろに立ち上がった。
「俺、帰るわ」
「……え? 来たばっかりじゃないか。なんか急用か?」
「まぁ、そんなモンだな」
 嘘を吐くのも気が咎めたのか、言葉尻を濁す光彦の様子を見て、純生の(小)動物的勘が鋭く働いた。
「……篠原、くん?」
 光彦が、肯定するように純生を流し目に見る。
「……そうなのかよ?」
 語気を荒げる嵐を煽り立てるように、光彦が眼光に凄みを滲ませた。
「てめぇにゃ関係ねぇだろが」
 その一言に嵐は、いきなり血相を変え憤然と立ち上がると、靴を履こうとしていた光彦の肩を乱暴に掴んだ。
「関係ないってナンだよッ! 俺らといるよりアイツとセッセッセッ帰れバカヤローッ!」

 安穏とした平和に浸る塩田家に於いて、猛る嵐の姿は珍しい。怒号に怯えた双子が、大声を張り上げて泣き出した。眉ひとつ動かさず、冷静にことの成り行きを見守っていた修也が、双子を抱き寄せヨシヨシと背中を撫でさする。
 二人の殺伐とした睨み合いはしばらく続いたが――「言われなくても帰るよ」と、鼻白んだ声音で言い放ち、光彦は肩を怒らせくるりと踵を返して、塩田家を後にした。

 ――俺らといるより、アイツとセックスするほうが楽しいのかよ?

 これでは、二股を掛けられ嫉妬に狂った女の言い分だ。頭ではそうと理解していても、一度噴きあがった怒りの炎をすぐさま鎮火できるほど、嵐は出来た人間ではない。
 大人の余裕からか、修也は詮索することもなく飄然とギターをスタンドに戻し、
「マーくん、コーくん。今日のランちゃん怖いから、母屋に帰ろうねぇ」
 と、しゃくり上げる双子を抱え上げた。

 修也が出て行った後、閉じられたドアに向かって、嵐がピックを思い切り投げつけた。
「ナンだよナンだよ、ナンなんだよ光彦ッ! 純生もアッタマ来ただろ? あの態度ッ!」
「嵐……怖いよ」
 ギターまで投げつけそうな嵐の勢いに、純生が身を縮ませた。
「淫乱ヤローッ! 下半身節操無し男ッ! 万年発情ホモーッ!」
 散々毒吐いた後に、胸に去来した感情は言いようの無い淋しさであった。嵐は、ギターを床に置くと、力無く膝を抱え込んで丸まり、そして小声で呟いた。
「アイツ……篠原がいるから、もう酸欠になんないのかな?」
「どうかな……僕はまだ授業中息苦しくなるよ。嵐は?」
 肩を落とし神妙にコクリと頷く嵐の膝に、純生が優しく手をかける。
「光彦、イジけたんだと思う。僕も一人っ子だから、なんとなく分かっちゃうな。お兄さんと仲良さそうで、羨ましかったもん」
「俺が悪いのかよ? 無茶言うな。それにアイツ、篠原に呼び出されてホイホイ帰ってったんだぜ? 兄貴は関係ないだろ?」
「そうだけど、あんなに挑発的な態度、おかしいじゃない? やっぱりイジけてたんだよ」
「俺は兄貴と仲良いんだよ。そんなんで……子供かよ、アイツ」
 純生も、嵐と同じ体勢になって肩を並べた。
「嵐だっておかしいよ。篠原君にやきもち焼いてるみたいだった」
「それが分かってるから、余計に腹が立つんだよ。篠原に階段で睨まれたときは、奴が一人で盛り上がってるんだろう、くらいに思ったけど……違うのかな?」
 悲しげに首を振る純生の肩に、嵐がそっと額を寄せた。
「俺ら、恋人じゃないけど、ある意味特別な関係だよな。クラス変わっただけで、三人して酸欠になるんだぜ? なんかこう……裏切られたような気がするのは俺だけか?」
「実は僕も……ちょっと妬けちゃった。折角の日曜日なのにさ。光彦、酷いよね……」
 二人の間に、重苦しい憂鬱が立てこめる。嵐と純生は、ほぼ同時に大きな溜息を吐いた。


 何ゆえ、嵐と喧嘩する破目に陥ったのか。西口商店街を駅に向かって重い足取りで歩きながら、光彦は首を傾げた。
 なけなしの良心が疼く。嵐の激昂ぶりに、光彦は驚くより先に腹が立ってしまい、心ならず逆撫でするような言動をとってしまったのだ。
 光彦にとっても、三人で過ごすまったりとした休日は貴重なのである。得体の知れぬ疎外感に神経を尖らせていた、あのタイミングでさえなければ、篠原からの呼び出しなど歯牙にもかけなかったであろう。しかも、二人が誤解しているようなベッドへのお誘いなどという色っぽい内容では無く、観たい映画があるから付き合ってくれ、との呼び出しだったのだ。

 篠原が携帯番号をどうやって知ったのか――大方、”自称江坂さんの舎弟”の誰かに訊いたのだろう――否、そんなことはどうでも良い。映画を観るような気分では無かった。そもそも、映画館まで足を運んで観るほど光彦の興味を喚起させるのは、古い任侠モノくらいである。
 今、篠原に会えば十中八九、理不尽に当り散らしてしまうであろう己を自覚している。光彦は『峰』に火を点し一息に煙を吸い込むと、携帯を取り出した。
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