ガッチャ!

 光彦はホモ――。
 差別ではない。決して差別するわけではないのだが、この厳然たる事実に、未だ異性に目覚る予兆すらないチェリー二人は惑溺していた。ここ数日、三人の間に漂う空気は、重く陰気なものであった。しかし、気を揉んでいるのは嵐と純生二人きり、当の光彦本人はのほほんと、まるで他人事のように涼しい顔している。

 告白事件から十日ほど過ぎたある日の昼休み。いつものように購買へ赴く光彦の背中に飲み物をオーダーし、嵐と純生は階段へと向かった。
 一段目に嵐が足を掛けようとした折も折、嵐と純生の真正面――よく焼けた顔から嫌味なくらい白い歯をキラリと覗かせ、友人と談笑しながら階段を降りてくるジャージ姿の男子生徒は、篠原輔、その人であった。
 嵐は、色を失って不自然な体勢のまま固まった。
「……嵐?」
 嵐の背中越しに、純生が顔を出す。
 篠原も二人の存在を認知した様子で、階段の途中ピタリと足を止めた。
 一瞬にして、篠原の眼差しが、矢尻を突き立てるような鋭いものに変わった。明らかに憎悪と取れる暗影を帯びた視線に臆したのか、胸を反らせて後退る嵐。一拍遅れて篠原の存在に気付いた純生が、サッと身を引いて嵐の背後に隠れた。
 嵐には甚だ以て長い時間に感ぜられたが――篠原が嵐を睨み据えていたのは、ほんの五秒程度だった。
 やがて篠原は、唖然と絶句する二人の間抜け面にそれぞれ一瞥をくれ、仕上げとばかりに鼻を鳴らして嘲笑を浴びせかけると、途端に相好を崩し何事も無かったように友人へと向き直った。

 人ごみを軽やかに縫いながら去っていく篠原の背中を指差し、
「い今、睨まれたよな? 思いっきり」
 と、興奮を露わに嵐が声を上擦らせる。
「それから、フフンって……フフーンって、バカにしたみたいに鼻で笑われた」
 萎縮しきった弱々しい声で純生が答える。
「俺ら、なんか悪いこと篠原にしたか?」
 青いジャージの背が廊下の雑踏に埋没したのを見て取ると、純生は胸に手を当て控えめに息を吐いた。
「うー……いつも光彦と一緒にいるから? もしかして……ジェラシー?」
「光彦、付き合ってないって言ったじゃないか」
「篠原君は違うのかも……こ、怖かったよね」
「おい、冗談じゃないぞ……何で俺らが嫉妬されなきゃいけないんだよ」
 光彦にとって篠原はお手軽なセックスの相手、しかし篠原にとっては――?
 篠原の険悪な態度はまさに青天の霹靂であった。悶々とする感情を持て余しつつ、二人は重い足取りで屋上へと向かった。


 篠原との一件は光彦に伏せておこうと、二人は暗黙のうちに了解しあった。どちらにしろ、光彦にその気が無ければ、「篠原のことを真面目に考えてやれ」と尤もらしく説教したとて結果は明白である。「仕様が無ぇだろ」と、返されて終わり――伊達に九年連んでいない、それが光彦という人間なのである。
 なにより、ホモの色恋沙汰に巻き込まれたくない、というのが二人の本音であった。否、篠原に敵意を抱かれている時点で、十分渦中の二人なのだが。

 終始無言で黙々と昼食を平らげる嵐と純生を不審に思いながらも、光彦は我関せずと牛乳パックの底をズズズとストローで吸い上げていた。
 呑気なもんだな、と嵐は胸中で毒突いた。
 先刻の出来事も気懸かりだが――嵐にはもう一つ、大きな懸念事項があった。

「なぁ……俺ら、どうやって来年同じクラスになるんだよ? もうすぐ中間だぜ?」
 一週間後に中間テストを控え、不意に不安が込み上げてきたのだ。
「あぁ? 俺が宇宙語勉強して国立行きゃいいんだろ? 純生には成績落としてもらって、さ。成績さえ均しゃ、あとは学年主任脅せばなんとかなるだろ」
 ポカンと口をだらしなく開けて、嵐は茫然と光彦を見た。
「光彦がぁ? 文系の勉強ぉ? ……ウソだろ?」
「してるしてる、バッチリよ。なぁ、純生?」
 純生が恨めしげに光彦を睨む。その視線をことさら無視して、光彦は矢継ぎ早に先を続けた。
「そんなことより嵐。お前、ギター弾けなくてストレス溜まってんだろ? 俺ら、今日遠慮してやるから、存分にギター弾けよ」
「……なんだよ、気持ち悪いな」
 まさかそんな有難いお言葉を光彦の口から聞けるとは夢々思わず、嵐は詮索するような眼を向けた。
「いい加減勉強しねぇと、な。純生」
 光彦は意味有り気な目配せを純生へと送り、押し込むような口調でそう言った。学校のコンピューターをハックするのは今日だ、と暗に信号を送っているのだ。確かに、テスト用紙の印刷日程から逆算すれば、今日あたりが頃合いである。
 光彦と二人きりになるのは怖い――だが来年同じクラスになれなければ、純生とてもう一年、酸欠で苦しむことになるのである。修学旅行どころの話ではない。
「……うん」
 そうは返答したものの、未だ拭いきれない罪悪感に苛まれ、純生は縋るように嵐を見た。
「そかぁ? そうだよな」
 幸せそうに微笑む嵐の意識は、すでにフライングVへと高々と飛んでいたのである。


 根岸家正門前――純生は思いつめたように息を呑んで、くるりと光彦に向き直った。
「み、光彦。信頼してるからね?」
 もちろん、光彦の野獣化を恐れての一言である。
「は? ナンのことだよ?」
 邪念の欠片も混じらぬ光彦の怪訝な顔に、安易に友を疑った己に恥じて、
「ごめん、気にしないで」
 純生は頬を赤らめた。

 フリルの踊るレースカーテン、パステルカラーのベッドカバー、アンティークのテディ・ベア――。
 家の外観と純生のイメージから推測すれば、然もありそうなアイテムの数々なのだが、意外や意外、純生の部屋は実に簡素で、整然としている。築三十五年、四畳半のカオスに巨体を埋めて生活している光彦には、極めて居心地の悪い空間であった。
 机上にポツンと置かれた額入りの家族の肖像を手に取り、軽くキスを送る純生。絵になる光景だった。
「お前、やっぱり半分フランス人だなぁ」
 感心したように言う光彦に、純生は「何を今更」と、首を傾げて見せた。

 『ひろさん』の運んできたコーヒーを啜りながら、光彦は改めてぐるりと室内を見回した。
「まえ来たときも思ったけど……お前の部屋、色気ねぇなぁ」
「男だもん。色気なんてないよ」
 当たり前、とでも言いたげに、純生が眉を寄せる。
「パソコン、どこだよ」
「ここは勉強部屋。PCはそっちのドア」
 学習机の上に置いてあった如何にも優等生然とした銀縁眼鏡を手に取った純生に、光彦が驚いたように声をかけた。
「お前、目が悪いのか?」
「うん。四六時中モニタ見てるのに、視力が良いわけないよ」
 レンズに息を吐きかけ、クロスで丹念に眼鏡の手入れをする純生の姿が妙に新鮮である。
「学校じゃ掛けてねぇじゃねえか」
「それほど悪いわけじゃないし……僕、人の顔良く見えない方がいいんだ。表情が分かっちゃうと、余計に緊張しちゃうんだよね」
「俺と嵐はどうやって見分けてるんだ?」
「嵐はあの頭でしょ? それに光彦はムダに大きいじゃない? 二人ともイヤでも視界に入っちゃうよ」
「……あ、そ。無駄にね」
 意識してかしないでか、時折、意表外の毒を吐くのが純生である。

 PC専用ルームに入るなり、光彦は言葉を失った。秋葉原に迷い込んだかと錯覚するほど壁一面にひしめき合っている電子機器類――嵐の部屋でWEBカメラを介して垣間見た純生のPCは、ほんの一部に過ぎなかったのだ。
「お前、プロバイダでもやってんのか?」
「何バカなこといってんの? さ……て、やりますか」
 ブレザーを脱ぎ捨て、純生は両腕の袖をたくし上げた。椅子の上に胡坐を掻く純生は、不思議と男らしく、大人びて見える。

 真っ黒な画面に目にも留まらぬ速さで流れ行く文字列、鮮やかな手つきでハッピーハッキングに謎のコマンドを入力していく純生。
「ナニしてんだ?」
「……えーとね……ここから直接やると、僕だってばれちゃうかもしれないでしょ? だから、んー……ハックハックって言ってね、まず大学とか……不特定多数の人が利用するPCを乗っ取って……それを何台か踏み台にして、学校のサーバーにアクセスするの。で、セキュリティーホールを探して、アタックを仕掛けるんだよね。それから……」
 光彦は耳慣れぬ横文字の羅列に嫌気が差し、煩わしげに手をヒラヒラと泳がせた。「ま、よろしく頼むわ」と投げやりな言葉を純生に掛け、ポケットから携帯用灰皿と”峰”を取り出す。
「あッ! この部屋でタバコ吸っちゃダメッ! PCが風邪引いちゃうッ!」
「……引くのか? 俺ん家のは大丈夫だぞ……?」
「引くの。だからベランダ行って!」
「……そりゃどうも」
 気色ばむ純生に逆らう気も起きず、光彦はポリポリと後ろ頭を掻きながら、ベランダへと続くサッシを開けた。

 一服を終えて光彦が戻ってきた頃。すっかり二進数の世界にダイブしてしまったのか、純生は眼の色を変えて食い入るようにモニタを見つめていた。フランス語とも英語ともつかない怪しい呪文をぶつぶつと呟きながらキーボードを叩く純生の姿は、筆舌に尽くし難い異様さである。
「えーと……どうだ? 順調か?」
「五月蝿い! 話しかけないで!」
 純生君、怖い。
 眼鏡をかけると人格が変わるのではなかろうか。
「んんん……なに? コレ、穴だらけ。せめて最新のパッチくらい当てといて欲しいなぁ。光彦~、こんなショボい仕事、この僕にやらせないでよ~」
「……はぁ、すいません」
 意味も無く低姿勢になる光彦であった。
 

「信じられないッ……! 今までで最速! あっという間にバックドア付けられちゃったよ!」
 アハハ、と無邪気な笑い声を上げ、純生が光彦に振り返った。
「……バックドア?」
「僕だけの秘密の入り口ってところかな。コレ付けちゃえばもうやりたい放題だよ。テストのデータ引き上げてログ消しておしまい」
 人差し指で軽くリターンキーを弾くと、純生は小さく伸びをした。
「だけど……遣り甲斐ないったら。サーバー管理者って数学の白石だっけ?」
「……さあ」
「ついでにウィルス仕込んでシステムダウンさせちゃう? テストそのものが無くなるかもよ」
 そう言って悪戯っぽく瞳を光らせる純生に、
「……お前な」
 こいつだけは敵に回したくないと光彦が身震いした矢先、モニタの傍らに置かれた子機が無機質な電子音を立てた。『ひろさん』からの呼び出しである。


「――ねぇね、もう遅いからひろさんが夕ごはん食べていけって。光彦、なんかリクエストある?」
「うそッ! マジでッ!?」
 願っても無い申し出である。
 おでんだのホッケだのもずく酢だのを『よっちゃん』からくすねて食べるのが、光彦の日々の晩餐である。滅多に口に出来ない、”洋食”には並々ならぬ憧れがあった。

 躊躇無く、光彦は明答した。

「ハンバーグとグラタンッ!」
 と――。

参考資料:「10分でわかる漫画ハッカー入門」(Saint/データハウス)|「アングラインターネット・裏用語辞典」(フォレスト出版)|「B-GEEKS」(三才ブックス)|「ハッカーハンドブック」(Dr.K著/尾子洋一郎訳/三修社)
※この回は上記の本を「ナナメ読み」して書いたものです。管理人にはそんな大それたスキルはありません。
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