The Swingy Boys Quartetto

 下校のチャイムが鳴ってしばらく、靴音が入り混じる正面玄関を抜け、嵐と純生は、青葉茂る桜並木のアーチを、他愛ない会話を交わしながら歩いていた。

「塩田ッ!」

 不意に名前を呼ばれ、機械的に振り返った嵐の視界に飛び込んできたのは――篠原輔のドアップであった。

 純生が、あッと驚きの一声を上げた。いきなり全体重をかけて飛び掛ってきた篠原に、嵐は身構える隙も無く――。
 二人の身体が宙に躍った。刹那、嵐は器用にも空中で猫のように身をよじり、背負っていたフライングVを脇に抱え込むようにして庇った。このまま背中から倒れこめば二人分の体重を受け、確実にネックが折れると一瞬にして判断したのだ。
 夏の日差しを受け鬱蒼と生い茂る樹々の、覗いた地面のわずかな隙間をまるで狙ったように、二人は倒れこんだ。右肩を激しく地面に打ち付け、嵐が呻き声を上げる。間髪容れずに、篠原は嵐の身体に跨り、サイドマウントポジションの体勢を取った。
 何がどうなっているのやら――苦痛に歪む顔をようやく振り向けると、篠原はシャープな目鼻立ちを一点たりとも弛めず、傲岸不遜に嵐を見下ろしていた。

「ま待てよ、ギターが……」
 愛器の心配などしている場合ではない。次の瞬間には、嵐の顔めがけて篠原の拳がマッハのスピードで降下してきたのだ。
 避けられない。
 そう確信して、嵐は反射的にきつく眼を閉じ、歯を食いしばった。
 鈍い打撃音が地面に吸い込まれた。脳を揺さぶられるような衝撃の波が去った後、嵐の口の中に錆びた鉄の味が一杯に広がった。

「根岸ッ! 余計なことすんなよッ!」
 賭場まで光彦を呼びに行こうと、そろそろと後退る純生に、篠原が大声で威喝した。純生は足を竦ませて、持っていた学生カバンで防御するように顔の殆どを覆い隠してしまった。

「い、い、い――いてぇな、クソッ! どっからどう見ても男じゃないか、バカヤローッ!」
 キレると怖い嵐ではあるが、一度は脳内で『可愛い女の子』に置き換えた篠原輔が相手である。殴り返す気も起きず、悪態だけを力いっぱい投げつけた。
 数回、噛み合せを確かめるように顎を上下させ、疼く右頬を手のひらで摩りながら、嵐は星の飛び交う眼を凝らして篠原を見た。
「なんで俺!? 殴る相手、間違ってないか!?」
「塩田でいいんだよ」
 一発殴って気が済んだのか――敵愾心に満ち満ちていた篠原の表情は、和らいでいた。

 辺りを見回せば、二重三重にもなった人垣が、三人の周囲を取り囲んでいた。陸上部のスターとヘヴィメタ少年を繋ぐ糸を探るような不審げな、または面白半分のにやけた顔つきの生徒達が、事の成り行きを見守っていた。
 嵐の、過去の大乱闘事件は有名である。二人の仲裁をする勇気のある生徒は、その場に一人としていなかった。
 この騒ぎでは、数分と待たずにいかめしい面構えの教師達が現れるであろう。篠原は敏捷に立ち上がると、すました顔でズボンの汚れを丁寧に叩き落とし、「こいよ」と二人を手招いた。

 場所を変えてもう一戦というわけか――篠原の表情からは読み取れない。ともすれば痛みに歪みそうになる顔を懸命に繕って、純生の肩を借りて立ち上がると、嵐は篠原と向き合った。
「嵐、ダメだったら」
 涙声の純生が嵐の袖を引く。だが、嵐は殴られた理由を知りたかった。誤解があるなら、解消する良い機会だとも思ったのだ。
 人垣を押し退けて、颯爽とした足取りで校庭の方角へ向かう篠原に、結局二人は従ったのである。

「ここなら、誰にも邪魔されないだろ?」
 連れて行かれた先は、光彦のいる体育倉庫と丁度グラウンドをはさんで反対側にある、男子陸上部の部室であった。閉め切られた室内には、汗と、土の匂いが混じる独特の臭気が充満していた。
 落書きだらけの壁に貼られた、タイムが細かく記されたグラフ、寄せ書きされた色紙。川の字に並べられたアルミ製のベンチの上に、乱雑に脱ぎ捨てられたジャージやユニフォームの類、ロッカーの上に鎮座する『優勝祈願』のタスキを巻いたぬいぐるみ――体育会系と縁の無い嵐と純生には、異世界にも感ぜられる空間であった。

「……部活は?」
 相手に呑まれては喧嘩に負ける。動揺をひた隠しに、嵐は冷静を装った。
「インハイ予選終わったばっかで、今日は休み」
 ふと、嵐の意識が逸れた。学園長が陸上部の快挙について弁舌さわやかに語っていた今朝の全校朝礼、数日もすれば、派手派手しい垂れ幕が校舎の屋上に掲げられるのであろう。
「そうだったな。おめでとう、頑張れよ」
 素直に口を吐いて出た嵐の一言に、篠原は目を丸くした。
「言われなくても頑張るよ。特待生だからね、結果出さなきゃヤバいんだよ」
 状況に不釣合いな、ちぐはぐな会話になっていることに、嵐はまったく気付いていない。純生はドアの前から離れず、心配そうに二人の様子をうかがっていた。

「座れよ。ポカリしかないけど、飲む?」
 篠原が部屋の隅に置かれた、見るからに年代物の小さな冷蔵庫から、ペットボトルを取り出した。
「……ケンカじゃないのか?」
「インハイ控えて、そんなことできるわけないだろ。塩田を一発殴りたかっただけ」
 張り詰めていた神経が急激に弛み、例えようも無い疲弊感が嵐を襲う。気抜けしたようにベンチにヘタリ込んだ嵐の傍らに、純生が寄り添うように座って、小さく肩を丸めた。
「……だから、なんで俺? 篠原、大きな誤解してないか?」
「全然、誤解じゃないだろ? 江坂にコクった時、大切なのはお前らだけだって言われたんだぜ?」
 声を暗く落として、ショックだったよ、とポツリと漏らした篠原は、殺気をみなぎらせていたつい先ほどの姿から想像もできないほど、弱々しく嵐の眼に映った。
 篠原が、また『女の子』に戻ってしまった。見た目ではない、嵐の脳内の問題である。

「た確かに、俺らと光彦は付き合いが長くって、その、ちょっと変わった関係だけど、基本はただの友達で、た大切ってのはそういう意味じゃなくてッ!……えぇと、なんて説明したらいいのかな、純生」
「えッ!? な、何?」
 狼狽気味に声を上擦らせる二人に篠原は苦笑して、
「それに……ヤるだけは良くないんだって? 随分わかったようなこと、江坂に言ってくれたみたいじゃん」
 と、揶揄するような口調で言った。グッと息を飲む嵐。
 まさか光彦、『嵐に説教されたから、お前とヤるのやめるわ』とか、あっさり篠原に言ったんじゃなかろうか?――あり得る、あの単細胞なら。

(俺のせいかよ――ッ!)

 頭を抱え込んだ嵐の脳内は混乱の渦である。純生は、不安顔で嵐と篠原の表情を交互に覗き見ていた。

 篠原は、小さな丸イスを二人の前に置き、その上に紙コップを並べてスポーツドリンクを注いだ。ペットボトルを冷蔵庫に戻し、代わりにロッカーからプラスチック製の白い箱を持ち出すと、嵐と向き合うようにして座った。
「塩田、顔こっち」
「ぇ、え? かおこっち?」
 意味が分からず、おうむ返した嵐に、
「顔だってば、こっち向けろよ。すぐ手当てしないと、今晩痛くて寝らんないぜ?」
 見れば、白い箱には赤い十字のマークがついていた。
 篠原は、救急箱からガーゼを数枚取り出し小さく折りたたんだ上に、チューブからフルーツゼリーのようなゲル状の薬をひねり出した。
 殴られた本人に傷に手当てを受けるとは思いもよらず、対応に窮した嵐は、顔を寄せてきた篠原から逃げるように身を引いた。
「じ、自分でできるよ」
 篠原は少し苛立った様子で、嵐の顎を乱暴に引き上げた。
「いてッ!」
「俺ら体育会系はね、こういうの慣れてんの」
 湿布薬特有の臭いが、ツンと嵐の鼻をついた。再び篠原のドアップを拝む破目となり、嵐は妙に落ち着かない気持ちになる。
 真っ黒に日焼けしているせいか、男らしい精悍な顔だと思い込んでいたが――近くで見た篠原は、意外に品のある目鼻立ちをしている。陸上のスターという地位に加えて、このマスクなのだから、チョコレートの数を光彦と争うのも納得であった。

「――ヤるだけでも救われてたんだよ、俺は。中学んときから江坂に惚れてたんだから」
 篠原は、穏やかに語りだした。
「幼稚園の保父さんが初恋だから、まぁ、男が好きなんだって自覚は随分昔からあって、そういう経験も早かったりするわけなんだけど、やっぱり人気者って気分いいだろ? 俺はさ、足の速さと女にモテることに関しては、負けたことなかったんだ。それが中学入って江坂出現、やたら女子生徒に騒がれてたじゃん? この俺様と張り合うなんて、一体どんな奴なんだろうって興味持って……気が付いたら、江坂のこと眼で追い回すようになってたんだ」
 あの、単細胞左脳ヤクザのどこがいいのか、嵐には不思議で仕方が無かったが、あえて訊くことはなかった。篠原だけに見える、光彦の魅力があるに違いないのだ。
 嵐と純生は、ただじっと篠原の言葉に耳を傾けた。

 十センチほどに切り分けた医療用テープを、湿布薬を滲ませたガーゼの上から十字に貼りながら、篠原は淡々と先を続けた。
「江坂ってさ、一匹狼っぽいところあるだろ? だけどお前ら二人は特別って感じで、いっつも一緒でさ……俺は放課後部活だし、話しかけるチャンス無くって。高等部入って、やっとお前らとクラス分かれて内心喜んでたら、いきなりベタベタしだしてさぁ。そんで、焦って告白。中三のバレンタインの時の、カミングアウト事件は知ってたし、ちょっとは自信あったんだけどな。あっさりフラれて……俺も必死でさ、じゃぁセフレになろうぜって、食い下がったんだ――ハイ、顔終わり。肩も打ったろ? 服、脱げよ」
 嵐は、カッと頬を上気させて、ぶんぶんと首を振った。
「安心しろよ、男が好きっていっても、誰にでも欲情するわけじゃないんだから」
 そうではない。篠原の、半袖の開襟シャツから覗く、健康的に日焼けした筋肉の筋が美しく浮き出る腕を目の当たりにして、嵐は、ガリガリの半身を到底晒す気になれなかったのだ。
 さも頑然として表情を強張らせる嵐に、篠原はおどけた笑顔を見せて、救急箱の蓋をパタリと閉じた。

「あ、ありがとう――って俺、なんでお前に殴られたんだ?」
 手当てを受け、すっかり忘我の彼方であったが、己を殴ったのは他ならぬ篠原である。嵐は眉根を引き寄せて、篠原に詰め寄った。
「あぁ、ただの八つ当たり。根岸でも良かったんだけど……」
 チラと篠原に含蓄ある視線を投げられた途端に、純生の額にサッと縦線が降りた。
「根岸じゃ殴り甲斐なさそうだろ? 顔に傷なんて付けたら『純生くんファンクラブ』に殺されそうだしな」
 そう言って、怯える純生をなだめるように、にこりと白い歯を零す篠原に、
「俺ならいいのかよ」
 と、嵐は唇を尖らせた。

「聞いてるかもしれないけど……こないだ江坂に、俺とのこと本気になれないからもう会わないって言われてたんだ。江坂は結構この関係を楽しんでると思ってたから、いきなりそんなこと言われて驚いて……江坂のこと問いただしたんだ。そしたら塩田の名前が出てきたってワケ」
「惚れてるのに体だけなんて……やっぱり良くないと思うよ……俺、まだそういうの、良くわからないけど」
 ガキだな、と一笑されて、言い返すこともできず、嵐は紙コップを手に取り一気に呷った。
「……俺たち三人はさ、クラス離れてからヘンなんだよ。一緒にいないと全然落ち着かなくって、酸欠になっちゃうんだ。ヘンだよな?」
「なにそれ、ノロケてんの?」
「俺たちの関係って、篠原にはどう見える? やっぱりヘンだと思うだろ?」
「俺に訊くなって」
 まくし立てる嵐を、相手にしてられない、とでも言いたげに、
「さ、塩田殴って気分いいし、軽くランニングでもしてくるかな」
 篠原は、立ち上がってシャツを脱ぎ始めた。
 目前でいきなり素肌を晒す篠原に驚いて、嵐と純生は慌てて席を立った。

 ――俺、江坂のことあきらめないから。

 去り際に、鋭い眼光を瞳から放って、篠原は確固たる口ぶりで二人にそう言い残した。

 自分たちの関係。篠原の、光彦への想い――。
 駅までの道のりを、錯綜する思考と格闘しながら、嵐と純生は肩を落として、とぼとぼと歩いた。
「……結局、篠原はなにが言いたかったんだろう? 俺たちに宣戦布告か?」
「うん、そんな感じだったね」
 純生はうつむき、嵐は小さく溜息を漏らした。
「こないだのケンカで、俺たちは三人揃ってないとダメなんだって、俺は改めて実感したんだ。光彦が篠原の熱にほだされて本気になったとして、俺や純生のこと見向きもしなくなっちゃったら……一体、どうなるんだろうな?」
「……きっと僕たち、酸欠で死んじゃうね」
 それきり二人は、口を閉ざした。


 翌朝――。
「なんだぁ? そのツラ」
 嵐の右頬に貼られた大きな湿布は、光彦の寝起きダークマターを吹き飛ばすほど、インパクトのあるものだったらしい。光彦は昨日、父親の手伝いに借り出されたらしく、嵐の部屋に現れなかったのだ。嵐は、光彦の凝視をはぐらかすように目線を斜めに落とした。
「……転んだんだよ」
 あまりにも見え透いた嘘である。
「ケンカか? ケンカだな? またバンドのヤツらか? 加勢するぞ」
 嵐の肩を抱き寄せ、嬉々として話しかけてくる光彦の腕を鬱陶しげに振り払うと、
「転んだんだってばッ! ……黙ってろ、しゃべると痛いんだよ」
 嵐は不機嫌極まりない様子で、口を一文字に引き絞り、そのまま押し黙ってしまった。光彦は、なんだよ、とひとつ舌打ちをすると、今度は純生に嵐の無残な顔の原因を問いただした。
 純生は微笑を浮かべて、
「僕も知らない」
 と、静かに首を振った。
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