イルカ三兄弟

 嵐の部屋があった頃の面影は微塵もない、すっかり二世帯住宅に改築された塩田家二階のリビング。そのドアから、嵐は遠慮がちにそろりと顔だけ覗かせた。
「家族団らんのところ悪いんだけど、ちょっといいかな?」
 スポーツニュースを観ながらのんびりと缶ビールを傾けていた兄、修也は眼を丸くして嵐を見た。
 嵐が、平日の夜に母屋の二階に訪れることは珍しい。その上、嵐の顔半分は湿布薬で覆われていて、痛々しげな様が余計に眼を引いた。
「あらぁ、嵐ちゃん。お茶でもどう?」
 双子を寝かし付けてリビングに戻ってきた修也の妻、真歩(マホ)が嫋やかに微笑みかけるが、嵐は首を振って、
「兄貴。俺の部屋、来てくれる?」
 いつになく真剣な面持ちで、修也に向かって小さく手招いた。
 修也は、真歩に聞かれたくない話なのだろうと直感して、無言でパジャマの上からパーカーを羽織り、冷蔵庫から缶ビールを二本取り出しポケットにねじ込んだ。

 自室に戻るなり、嵐は粛然と膝を揃えた。ますます只ならぬ様相を呈する嵐に、修也が不審に眉を顰める。
 防音の効いた嵐の部屋にデフォルトであるはずのBGMは、今日に限って流れていない。沈黙が重苦しく修也に圧し掛かった。嵐が自ら口を開くのを待つつもりで悠然とビールを飲んでいた修也だが、一本目も空こうという頃、さすがに痺れを切らして、金髪頭を軽く小突いた。
「……なんだよ。どした?」
 嵐は「うん」と小声で頷いて、決心を固めたのか、ようやく顔を上げた。

「あ……あ兄貴の初恋はいつだよ?」
 嵐が訊きたいのは、もっと直接的なことである。だが、切り出す勇気はまだ無い。
「……あれぇ? もしかして嵐ちゃん、恋の悩みか?」
 ついに我が弟もお年頃かと、修也は感慨深げに嵐を見た。
「ち、ちが……いや、そうかな」
「その顔の傷は、あれか。女の子を誰かと取り合って作ったのか?」
「そんなんじゃ……いや、そうかも」
 煮え切らない嵐の応答に、修也は肩を竦め、
「初恋ぃ? 覚えてないなぁ……。初恋だなんだって考える前に、女の子とは適当に付き合ってたな。俺の時代はさ、ギターやってるってだけでモテたから、二股三股は当たり前……」
 得意げにそこまで話して、修也は口をつぐんだ。嵐の眼差しに侮蔑の色を見て取ったからだ。

 いまでこそ妻一筋の修也だが、若かりし頃のギターの腕は嵐に負けず劣らず、ミュージシャンに酒と女はつきものと、入れ食い状態の学生時代を送った。修也と嵐の父、正志も、当時同級生であった母、朋子との間に高校一年生で子供を作るという快挙を成し遂げるほどの早熟さだ。
 嵐が、これほどまでに純粋培養されてしまったのに多少の罪悪感を感じながらも、反面、おもしろがっている兄、修也であった。

「あのさ……俺の悩みってのは……その」
 言い出しにくそうに兄の表情を窺う嵐に視線を合わせて、修也は先を促すように真顔を作ってみせた。
「全然、女の子に興味がいかないってことなんだよ。今はギターと……あいつ等で頭一杯って感じで」
「あいつ等って、ミキちゃんとスーちゃんか?」
 こくりと嵐が顎を引く。如何にも青臭い嵐の悩みに、込み上げてくる笑いを噛み殺しつつ、修也は腕組みをして大きくひとつ頷いた。
「いいんじゃないか? 別に。友達とジャレてんのが一番楽しい時期だしなぁ」
「でもさ、少しぐらい色気付いてもいい年頃だよな?」

 すっかり汗をかいた二本目のビールを手に取り、プルタブを引こうとした修也の手がふと止まった。
「ちょっと待て、話がおかしいぞ。その傷は女絡みじゃないのか?」
 途端に嵐は、表情を凍らせた。

 光彦(♂)の相手が篠原(♂)で、その篠原(♂)から光彦(♂)にフラれた腹いせに自分(♂)が殴られた――などと、いくら仲の良い兄弟とは言え説明するのは難しい。漠然とではあるが、篠原に光彦を取られたくないと、不安と焦燥を感じている己を自覚しているのだ。男ばっかりの複雑な四角関係を、一体どう説明しろと言うのだ。

 話題を切り替えるために、嵐は身を乗り出して、一番訊きたかった問いを果敢にも切り出した。
「兄貴が、どっ……童貞を捨てたのはいつ頃?」
 きょとんと眼を見開いてから、修也は弾かれたように豪快に笑い出した。
「そりゃ、兄貴にすればガキ臭い質問だろうけど、笑うこと無いだろッ!? 真剣なんだよ、俺ッ!」
 耳朶まで真っ赤に染めて切実に訴える嵐を見かねて、修也は苦心して顔中の筋肉を引き締めた。
「言ったら嵐ちゃんが傷つくから、教えない」
「そ、そんなに早いのか?」
 さあね、と修也は空々しい口笛を吹いた。
「そっちの方にも俺、興味がイマイチで……男同士で連んでる方が楽しいなんて、やっぱりヘン?」
 修也は、飲み終えたビールの缶をパキリと握り潰した。
「あのな、恋の相手なんて無理して探すもんじゃないよ。俺だって、いろんな娘と付き合ってきたけど、”コイツだ”って思ったのは真歩だけだったし。出逢ったのも二十五の時で……もしかして遅咲きの初恋だったのかなぁ、あれが」

 ただの晩生か、脳がヘヴィメタ過ぎるだけなのか。
 たとえ嘘でも構わない。嵐は、この行過ぎた友情に戸惑う己の感情を鎮めてくれる言葉を待っていた。修也の青春時代にも『そんなことがあった』と、軽く言い流して欲しかったのだ。

「焦ることない。今は、嵐が一番楽しいと思えることをやってればいいんだよ」

 修也から返ってきた答えは、嵐にとって酷く曖昧なものだった。

「明日も会社だし、そろそろ帰るぞ。お前も寝ろよ」
 潰したビールの空き缶をひとまとめにして、修也は立ち上がった。
「……嵐ちゃんって呼ぶの、いい加減やめろよな」
 口をへの字に曲げて拗ねる弟が愛おしい。修也は嵐の金髪をクシャクシャと撫でた。

 ドアを開けたところで、修也が、「あれ?」と調子外れの声を上げた。パーカーのポケットから皺だらけの小さな紙袋を引き出し、
「あぁ、忘れてた。こないだ江ノ島に行っただろ? その土産」  
 と、嵐に差し出した。気を使わなくていいのに、と言いかけた嵐は、渡された袋を開けるなり眉を顰めた。
「……もしかして、光彦と純生の分も?」
 嵐の声は低く、どこか修也を咎めているようだ。
「そう、お揃い。可愛いだろ? お前等三人みたいで」
 中に入っていたのは、キーホルダーが三つ。
 リングから伸びた細いチェーンからは、無風の空に萎れた鯉のぼりのように三体のイルカがぶら下がっている。一番大きなイルカが青、次が黄色、一番小さなイルカがピンク。どれもの品の無い蛍光色で彩色されていて、形はいびつ、おまけに目つきが悪い。土産物の定番と言えば定番だが、兄のセンスを疑うような出来の悪さであった。

 修也の背中を見送ってから、嵐は折りたたみベッドを広げ、毛布に潜り込んだ。
 未だ疼き続ける右頬にそっと手を当てる。嵐は、頬に篠原の心痛を焼き付けられたような錯覚に陥っていた。
「一番楽しいこと……」
 ぼんやり天井を見上げて、ぽつりと呟く。
「マイケルは十四でスコーピオンズに入ったんだよなぁ……」

 ギターを弾くのは最高に楽しい。だが、バンドとなると――。
 幾度となく助っ人に借り出されてきたが、嵐の求めるスタイルを実現できそうな面子を校内で探すのは難しい。かといってラブコールを送りたくなるほどのインディーズ・バンドは嵐の知る限りではない。メジャーの門戸を叩こうにも、国内に好みのレーベルは無く、そもそも、二十年前なら未だしも、今時『ヘヴィメタやらせてください』と鼻息を荒くしたところで、冷遇は想像に容易い。

「やっぱり、あいつ等と連んでんのが一番楽しい……のかな」

 純生は?
 ネットを介して世界中に友人がいるという。

 光彦は?
 舎弟のような取り巻きがいる。学園の影で暗躍するその数は定かではないが、少なくとも二、三十人は固い。微妙な関係とは言え、篠原という特別な相手も。

 俺は?

 嵐の思考はそこで止まった。何故だか言いようの無い孤独感が胸の内から湧き出し、居た堪れなくなる。毛布を春巻きの皮のように身体に巻きつけると、嵐は長い手足を小さく折りたたんで、眠りに落ちるのを待った。


 ――ここ数日、嵐の様子がおかしい。
 話しかけても上の空か、呆けた返事をかえすだけ。光彦は、嵐の変化に気付いてすらいないようで普段と変わらずに接していたが、嵐の言動に不審を覚えた純生は事あるごとに話しかけ、その顔色を窺っていた。
 嵐の頬から湿布薬が消えた頃。下校途中、俯き加減にアスファルトに視線を這わせていた嵐は、突然立ち止まって、おい、と二人を呼び止めた。

「あのさ、たとえば放課後だけとか……俺たち別々に行動してみないか?」
 純生が愕然と表情を強張らせて嵐を見上げ、次に光彦の反応を窺うように見た。
「……やだ、嵐。なに言ってるの?」
「俺たちはさ、もっといろんな人と会ったり話したりして……やっぱり少しずつ離れてることに慣れていかなきゃいけないんじゃないかな? ……一生、連んでいられるわけじゃないんだからさ」
 片耳の後ろに手のひらを広げて、光彦が呆れ顔で「はぁ?」と訊きかえした。

「お前バカか? 一生連んでられねぇから、今、連んでんだろうが」

 純生が、傍らで尤も至極と深々頷いている。
 嵐は、発作的な怒りを覚え、拳をきつく握り締めた。

「どうしてお前はそうなんだよッ……!」

 どうして光彦は、自分が散々悩んで導き出した答えを、こうも簡単に喝破してしまうのだろう? 
 大体、光彦の相手が男ですらなければ、安穏と連んでいられたのだ。光彦がいい加減な性格でさえなければ、こんなに悩むこともないのだ。光彦が光彦が光彦が――。

 相手にするのも馬鹿馬鹿しいと、先にたって歩き出した光彦の背中に向けて、嵐は身をしならせて何かを力一杯投げつけた。
「いってぇな――ナニすんだよ!」
 見事命中、背中を手の甲で摩りながら振り向いた光彦に、嵐の怒声が飛ぶ。
「くれてやるッ! 俺様に感謝しろッ!」
 地面に視線を振り落とした光彦が眼にしたのは、チープなキーホルダーのついた、鍵であった。

 五月の初旬、近所の川原にて。光彦とのバトミントン勝負で賭けの対象になったのが、嵐の部屋の合鍵である。その勝負に負けた嵐は、合鍵を渡すよう光彦からしつこく迫られていたが、その度にあの手この手ではぐらかし続けてきた。ライダースのポケットに忍ばせてはいたものの、渡すべきか否か、嵐はどちらにも踏み切れずにいた。
 だが、今。光彦の吐き捨てた言葉は、一人煩悶していた嵐にとって、まさにそれこそ正鵠を射たと言えるものだったのだ。

 当然とばかりに鼻先に差し出された純生の手のひらに、嵐はもう一つの合鍵を乗せた。
「キーホルダー、お揃いなんだね」
 幸せそうに微笑み、小首を傾げてみせる純生。合鍵を拾い上げた光彦は、三体のイルカをしげしげと眺め、
「随分安っぽいな。ラムネのオマケでも、もうちっとマシなんじゃねぇの?」
 と、臆面も無く言い放った。
「文句は兄貴に言ってくれ」
 嵐はきまり悪そうに、フイと外方を向いた。

 再び歩き出した三人の耳に、目の粗い金やすりを擦り合わせたような金属音が飛び込んできた。
 蝉だ。
 夏休みが、目前まで迫っていた。
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