私はあなたに相応しい

 朝八時をほんの少し過ぎた時刻。根岸邸から一区画、駅寄りの道幅の狭い小坂は、プロレタリアートとブルジョアジーを分つ境い目となっていた。小坂から向こう、駅側は、ごっちゃりと建ち並んだ建売住宅の群れがあり、通学時間帯の真っ只中、その家々の間を縫う入り乱れた路地には学生が切れ目無く流れていて騒々しい。だが、小坂から根岸邸側――都下のビバリーヒルズと巷で呼ばれる街区――は、ひっそりとしていた。
 この街区を少し歩けば、やんごとなき御血筋と噂される迎賓館付きのお屋敷やら、とある大企業の創業者の大邸宅やらに遭遇する。それらに比べれば根岸邸は“慎ましやか”とも言えるが、シンデレラコンプレックスに囚われた近所の少女らの夢に登場する程度には優雅な佇まいであった。
 美しいグラデーションを描く素焼きの瓦で葺いた屋根、白壁に上品に配置されたオールドブリックタイル、外壁の西側には六角形の張り出し窓、東側には高い玄関アーチ。アプローチに敷き詰められた玉砂利の両脇には、四季の花が咲く。南仏にある祖母の邸宅そっくりに設計された根岸邸は、建材のほとんどをフランスから輸入したほどのこだわりようで、落成当時は建築専門雑誌の表紙を飾ったほどであった。不在がちな両親の、愛息の孤独を癒したいがための配慮であったが、純生にとっては有難くない結果となった。
 純生は、この家があまり好きではない。
 大好きなフランスの祖母の家は、訪れるたびに純生の心を優しい思い出で満たしてくれた。だからこそ帰国していざこの屋敷を前にすると、「そっくりだけど、ここにはおばあちゃんがいない」と余計に寂寥感に苛まれたし、両親に会えない寂しさからにじみ出る涙を堪えたのは、いつもこの広い屋敷の何処かであったからだ。
 なにより嫌いなのは、ロートアイアンの厳めしいアーチ門。電動で制御されている門扉は、開閉の際に悪魔の呻き声のような音を発する。魔の巣食う古城に誘うような重苦しい門構えは、子供の頃の恐怖の象徴だった。四方から睨む防犯カメラも、通るたびに純生を落ち着かない気持ちにさせる。これから大好きな親友に会えると思えばこそ、毎日この門を潜るのも苦にならなかった――が、今朝の純生は酷く沈んだ眼をしている。
「はぁ……」
 鉄製の門が閉まると、純生の口から自然と溜息が零れ出た。肩からずり落ちたスクールバックの持ち手を力無くかけ直して、純生は、とぼとぼと重い足取りで歩き出す。そんな日々が、もう三日も続いている。

 嵐は、毎朝きっかり八時五分に塩田邸の門扉の前に立ち、待ちかねる様子で純生がやってくる道の方角を窺っている。角を曲がり、嵐の姿を認めるなり純生は満面の笑みで大きく腕を二回振り、嵐は手を小さく上げて応える。純生が、一日の一番始めに幸せを感じる瞬間であった。
 だが、純生の予想通り、今朝も出迎える者は誰もいなかった。
「……まだかなー……」
 アルミ製の門柱に顎を乗せて、純生はぼんやりと母屋の玄関を見た。すると、嵐の母がヘアカーラーを前髪に巻いたままの頭をドアからひょいと出して、
「スーちゃん、もうちょっと待ってね! いま歯を磨いてるから!」
 と、叫ぶ。そうして数分ほど待ったところで、魔女のホウキをかぶったようなボサボサ頭の嵐があたふたと母屋から飛び出てきて、前髪の隙間からすまなさそうに純生を覗き見、“離れ”に駆け込んだかと思うとフライングVを担いで出てきて、ショートブーツのサイドジッパーを引き上げながらけんけん飛びで純生の前までやってきた。
「ごめん、待たせた」
「また眠れなかったの?」
「……眠れたよ」
「……ふぅん」
 このやりとりも、もはや朝の定番となりつつある。生気の無い眼の下にはクマ、丸まった背中、なにやら覚束ない足取り――まるで少し前の光彦と嵐が入れ替わってしまったようだ。長い前髪に隠れて良くは見えないが、この金髪のペシミストは普段からの青白い顔に加えて、額から長々とタテ線を垂らしているに違いない。「うそつき」と、純生はアスファルトに向けてこっそり呟いた。

「おせぇぞッ!!」
 これまた日常とは異なる展開の居酒屋『よっちゃん』前。嵐が声を張り上げて光彦を叩き起こしていたのはつい先週までのことで、ここ三日間は、なんと寝起き最悪のはずの光彦が『よっちゃん』の裏口前で、つま先を鳴らしながら二人を待ち構えているのである。嵐は、ほんの一瞬だけ光彦を流し見るものの、あとは知らん振りで通り過ぎ、光彦は、苛立ちを無理やり吐き出すような調子で鼻を鳴らしてから、無言で二人の後を追う。
 ひたすら地面を睨んで歩き続ける嵐の横顔に、光彦はちらちらと訝しげな視線を投げ飛ばしながら歩く。上目で嵐と光彦を交互に窺いながら歩く純生は縁石や点字ブロックにたびたび躓き、転びそうになると光彦に制服の襟をぐいと引き上げられた。
 駅前に差し掛かった頃、純生は唐突に背後からチョークスリーパーを食らう。
「く、苦し……ッ!」
「わり、加減間違えた。つか信号、赤だっての」
「あ……、わッ!!」
 鼻先五〇センチをうなりを上げてトラックが走り過ぎ、純生は慌てて一歩分うしろへと跳ねとんだ。
「あ、ありがと」
「ちゃんと前見て歩け。面倒みきれねぇぞ」
「うん、ごめん」と言う先から、純生の意識は嵐へと流れてしまう。
 親友があわや大事故の憂き目に遭ったというのに、嵐は、俯いたままだった。
「……はぁ」
 これから学校までの道のりで、もう四、五回は溜息を吐くだろう。授業中には十回、昼休みには百回溜息を吐くかもしれない――そう考えるだけで純生は、早くも今日三回目の溜息であった。

 午前中の授業を乗り越え、昼休みの屋上にて、林の影から野外劇を盗み見る観客と化した生徒達の中心に、三人はいた。嵐の箸はまるで進まず、純生は、相も変わらず嵐と光彦に目線をいったりきたりさせていて、落ち着かない。そんな純生のランチボックスの中身が三分の一ほど片付く頃には、光彦は疾うに、パンを三つ、サンドイッチを一袋たいらげている。二人の食事が終わるのを待たずに光彦は、
「ヤニ補給してくるわ」
 と、言い残して裏庭へと消えた。踵を擦る独特の靴音が去るのを待ちわびたように、嵐はようやく顔を上げ、まったくの無表情でその長身が消えたドアの先を見る。あまりに長いこと嵐がドアのほうを見ているので、純生は呆れて溜息を吐いた。今日何度目の溜息かな、明日は数えてみよう、と愚にもつかないことを考えながら、箸を置いてオレンジジュースを啜る。
「嵐……? 嵐ってば!」
「あ……ああ、なに?」
「なんとなく、呼んでみただけ」
「なんだよ、それ」
「別に」、と続いた純生の一言が、昼休みの会話の締めくくりとなった。

 不思議なことに三人は、放課後も行動を共にしている。超然と光彦は嵐の部屋に来るし、嵐は拒むでもなく二人を迎え入れる。嵐がフライングVをスタンドに立てたりライダースをハンガーに掛けてたりしている間に、光彦と純生は定位置に座る。そして、嵐が腰を落ち着ける頃を見計らったようにコーヒーを運んでくる朋子の雑談に暫し付き合う。ここまでは、プログラムされたようにいつもと変わらぬ日常であった。朋子が去った後は、嵐はギター、純生はノートPC、光彦は競馬新聞と、各々の趣味ツールが登場するわけだが、ここ三日間はそれらに出番は無い。昼休みと同じに、光彦が早々に退場するようになったからだ。光彦は、コーヒーを飲み終えると「店があっから」と席を立ち、黙として部屋を後にする。残された嵐と純生は、会話も無く、何をするでもなく、空々漠々とした憂鬱にただ耐えながら不毛なひと時を過ごす。
 今までも会話らしい会話など無きに等しかったが、別段、話題が無いときはそれが当たり前であったし、気にも留めなかった。そもそも、三人のコミュニケーションスキルは一般人のそれに比べて極めてレベルが低く、お互いに“場の空気を読む”などという精神的労苦を共有できたことがない。中でも、はた迷惑な俺様流独我論を振り翳すのが光彦という人間だ。その光彦が、嵐の心労の原因が自分にあることを自覚した上で、距離を置こうとしている。

 純生は、手遊びに残り少なくなったコーヒーに砂糖を大量に角砂糖を沈め、スプーンでかき混ぜていた。どろどろになったコーヒーの表面に浮かんでは消えていくスプーンの軌跡を眺めながら、物思いに沈む。
 純生に、危機感は無かった。あのオカズ宣言も、光彦が意図的に距離を置いているのも、つまり光彦自身、三人の関係をなにより大切に思っている表れであることを理解していたからだ。爆発寸前までに膨れ上がった性的欲求不満の矛先を、現実に向けることなく妄想の中に収めることで、光彦は関係性の均衡を保とうとした。何ゆえ光彦が許可など求めたのかそこまでの判断はつかなかったが、純生は、難しく考え込んだりはしなかった。オカズ宣言は確かに衝撃で頭にもきたけれども、同時に、パズルの最後のピースを当てはめるような明快さで納得もしたのだ。光彦の中で、己の占める位置を。
 ――今日も帰っちゃったけど、光彦だって、僕達と一緒に居たいに決まってる。
 と、純生は思う。光彦は、見るからに体調不良の嵐を気遣って自己犠牲的に身を引いている。もしかしたら、一人酸欠で苦しんでいるのかもしれない。騒動の張本人とはいえ、滅多に拝めない光彦の優しさや思い遣りに、純生は感動すら覚えている。
「嵐は解ってるのかな? ……これって結構、単純なことだよね」
「なんか言ったか?」
 内容などそっちのけだろう雑誌から視線を外して嵐が答える。
「ううん、独り言。ねぇね、今晩泊まってもいい?」
「駄目」
「僕と一緒だと、ちょっとは眠れるかもよ?」
「だから、眠れてるってば」
「……ふぅん」
 疑わしそうに眼を据わらせた純生から逃げるように、嵐は再び雑誌に顔を埋めた。
「嵐の、うそつき」
 純生は、当人に聞こえる程度の声で呟いてみた。しかし、反応は返ってこない。帰り支度を始めると、引き止めるような眼差しで見るくせに。

 純生が危惧するほどに、嵐は悩んではいなかった。悩みたくとも、精神と肉体が物理的に弱り果てていて、正常に頭を働かせるほどの気力も体力も残されてないというのが実情だった。嵐を苛んでいるのは、毎夜訪れる悪夢である。光彦に鍵を返されたその日の夜に見た夢は、終生の記憶の中に焼き付けられただろう鮮烈さとおぞましさで、嵐の意識を撃った。

 夢は、暗い空を見上げるところから始まった。不気味な螺旋を描く黒雲の中心は、世界を飲み込もうとする悪魔の口に見えた。眼に入るもの全ては暗灰色で構成されていて、世界から色という色が消え失せてしまったようだった。廃墟の街を彷徨っている。背中にあるべき愛器は無く、純生もいない。だが、傍らに光彦の規則的な息遣いと体温を感じ取れることが、不安に押しつぶされそうな心を辛うじて支えていた。散乱する瓦礫に足を取られながら、ただひたすらに歩く。空虚な残骸と化したコンクリートや木片に眼を凝らせば、僅かながらに見覚えのある特徴が見出せる。朽ちかけた時計塔は、かつての学び舎の面影を残していた。何故、世界はこんなにも変わり果ててしまったのか、何処を目指して歩いているのか――何か途轍もなく恐ろしいものから逃げようとしていることだけは不思議と解っていた。
 傾いたビルの向こう側に、小さな光が見えた。七色に光輝を放つあの光の先にはきっと純生がいる、あの光を目指せば良いのだと確信して、歓喜に心が躍った。ようやくこの薄気味の悪い場所から抜け出せるのだと恍惚として虹色に瞬く光を眺めていると、「じゃあな」と、不意打ちにように別れの言葉を光彦から告げられた。驚いて顔を上げてみれば、そこに光彦の姿は無く、まるで瞬間移動でもしたかのように長身の影は、もう数十メートルも先にあった。その背中を追って駆け出した途端に、地鳴りとともに立っていられないほどに地面が波状に揺らめき出し、頭上から瓦礫が降り注いだ。地面から突き出ていた水道管にしがみついてどうにか態勢を保ちながら、濛々と立ち上る塵埃の向こうに霞む人影を必死で眼で追い、光彦の名を大声で何度も呼んだ。光彦は振り向きもせず、影はますます遠くなり、光に溶解していく。
 得体の知れない気配を感じて、空を仰いだ。一面を覆う黒雲は俄かに蠢き出し、渦の中心から極彩色の帯状のものを吐き出し始めた。その禍々しい物体は巨大な蛇のように身をくねらせながらゆっくりと中空を旋回していたが、やがてぴたりと動きを止めた。帯の先端が、異様な頭部の輪郭をおぼろげに浮かび上がらせた数瞬後、物体はもの凄いスピードで降下してきた。あっという間も無く、色とりどりのペンキをぶちまけられたように眼の前が極彩色に染まった。不快な感触が身体中に纏わりつき、逃れようと無我夢中で手足を振り回す。ふっと開けた視界に、両翼を広げたカラスほどもある大きな生物が飛び込んできた。前翅にくっきりと刻まれた目玉模様がぎょろりとこちらを睨んだ瞬間、この邪悪な色の集塊は毒蛾の大群だったのだと悟り、稲妻のような戦慄に身を貫かれた。毒蛾は、ひとつ羽ばたく度に夥しい量の鱗粉をばら撒き散らす。鼻から、口から侵入してくる鱗粉が、気管に詰まって息ができない。猛毒が身体を内部から侵蝕していく。死ぬのだ、という直感が脳裡を掠め過ぎたとき――翅の隙間に光が覗いた。小さくなった光彦の影が、今まさに光と一体化しようとしていた。

 嵐は、絶叫とともに飛び起きた。しばらくは恐慌状態から抜け出すことができず、ちゃんと息をしているか、手足は融けてしまっていないか、完全に覚醒するまで身体中を弄って感触を確かめた。ようやく現実に戻ってみれば悪い汗がスウェットをぐっしょりと濡らしていて、シャワーを浴びなおさなければならないほどであった。それからというもの、夢魔はさまざまに姿を変えて嵐を襲った。最後には決まって、窒息をする悪夢だ。まどろみかけては飛び起きる夜が続いたせいで、すでに眠るという行為そのものが嵐の恐怖の対象に変貌していた。
  嵐の心を蝕んでいるのは、我が身に起こった激しい呼吸困難であった。絶縁状の如き鍵を渡されたとき、“光彦を失ったのだ”と咄嗟に思った。と同時に、喪失、絶望、虚無、孤独、焦燥――それらが錯綜する感情の塊りが一度に心に圧し掛かってきて、その抑圧が引き金だったと認めざるを得ないタイミングで、呼吸困難は嵐の肺臓を強襲した。
 だから嵐は、何故似たような展開の悪夢に毎夜うなされてしまうのか、その理由をしっかり理解している。自覚している以上に光彦を失うことを恐れている己を、嫌というほどに思い知らされた。嵐は、“あの”とき、本当に死ぬかと思ったのだ。もう一回でもあの発作に見舞われたら一体どうなってしまうのか、怖くて想像もできない。クラス変えからこの方、息苦しさに悩まされ続けてきたものの、嵐は、身体と心は別の次元で機能しているものと、心の何処かで信じていた。だが、違った。精神と肉体がこれほどまでに密接に連動しているとなると、問題は、友情や恋愛だのといった生ぬるいものではなくなってくる。

「……もう、死ぬの生きるのって問題だよな、これじゃ……」
 雑誌を枕にして寝そべっていた嵐が誰へとも無くそう呟いた頃には、純生のカップに残ったコーヒーの溶解度はすでに飽和していた。スプーンの先で溶けない角砂糖をつついていた純生は、途端にぱっと顔を明るくした。ようやく口を開いた親友の変化を敏感に感じ取って、その先を聞き漏らすまいと、スプーンを投げ出して嵐ににじり寄る。
「なに、なんの話? なんの問題?」
 のそりと半身を起こした嵐は、純生の真剣な表情を見てふっと眉を顰めてから、カラ元気と一目で解る笑みを蒼い顔に刷いた。
「ごめん。やっぱり俺、うそついてた。ずっと眠れなかった。嫌な夢を見て……」
「……うん」
 不意に、嵐が純生の肩に顔を埋めた。もう驚きもしないが、やはり対応には困るので、純生は行き場のない両手を泳がせる。
「俺、ずっと純生を甘やかしてるつもりだったのに、実は純生に甘えてたんだな。最近、やっと解った」
「え、と。そうかな……?」
 照れながらそう相槌を打って、おずおずと嵐の背にまわそうとした純生の両腕が、実体を掴むことはなかった。嵐は、ぽんと純生の頭を叩いて立ち上がり、ハンガーからライダースジャケットを外した。純生が困惑している間に、ジャケットを羽織り、フライングVをケースに収める。
「ど、どっかいくの?」
「これから、鍵、返してくるよ。あいつまだ、学校にいると思うし……」
 嵐が言い終わらないうちに「僕も行く!」と叫んで、純生は慌てて身支度を始めた。フライングVを担ぎ上げた嵐は、純生を見下ろし、「駄目だ」ときっぱり告げる。取りつくしまもなく突っ撥ねられたのでむっとして、「絶対行く」と食い下がる純生に、ドアの前で振り返った嵐が残したのは、「気をつけて帰れよ」の一言だった。

「……信じられない。ギターは連れて行くのに、僕は置いていくんだ……」
 呆気に取られながら恨みがましくそう呟いたが、しばらくして純生は、ふふっと微笑んだ。兎にも角にも、嵐が行動を起こすのは喜ばしいことである。結果はどうあれ、何もしないよりはずうっと良い。純生の微笑みが、悪戯っぽい邪気を滲ませた。純生は、素早い手つきでカップをトレーに戻し、散らかした角砂糖の包み紙を片付けた。あたふたと制服の上着に袖を通し、投げ出してあったスクールバックをむんずと掴んで肩にかけ、立ち上がる。嵐には追いつけやしないだろうが、光彦の居場所は知っている。大体、光彦に鍵を返しに行くのに、自分を除け者にする理由が見当たらない。城主は嵐ではあるが、ここは三人の部屋でもあるのだから――。


 勢い込んで『よっちゃん』の暖簾を潜った純生を出迎えたのは、珍獣でも見るような酔客達の視線であった。無理もない、頭のてっぺんからつま先まで“純朴な未成年”が、縄暖簾の似合いすぎる居酒屋に飛び込んできたのだ。驚いて身を引き、ぴしゃりと引き戸を閉めた一瞬後に、店内からわっと喚声が上がった。たちまち只事ではない騒ぎに発展し、光彦を冷やかす野次の数々が店の外まで漏れ聞こえてくる。酒のフィルターを通せば完璧な少女に見えたようで、純生は“光彦の彼女”と勘違いされたのだ。純生が暖簾の影に身を忍ばせて怯えていると、一頻り客にイジられてきたらしいエプロン姿の光彦が、むっつりとした面持ちで店から出てきた。
「バカ野郎、お前のせいで大騒ぎじゃねぇか」
「あれ? 嵐は? こなかった?」
「嵐? きてねぇぞ」
「……あれぇ? 本当に?」
 ふと不穏な影が過ぎって足許を見た純生は、短い悲鳴とともに飛び上がった。匍匐前進で純生に近づいてきた黒い物体が、しゃっきりと立ち上がり、ぴんと背筋を伸ばして両足の踵を打ち鳴らす。ヘルメットのつもりだろうドンブリをかぶったサラリーマンは、完熟トマトのような顔を純生に向けて、力強く敬礼した。
「自分は『よっちゃん』代表の重責を担い斥候としてまいった木下上等兵でありますッ! 軍曹殿の彼女様であられますかッ!?」
 と、ダミ声でがなり立てられて、純生は両耳を塞いで地面にしゃがみこんでしまう。光彦は、「誰が軍曹だ」と言いながら腕力を行使して回れ右させ、木下上等兵を見事な手際で店へと押し込めた。ほれ、と純生に手を伸ばす。
「なんだよ、営業中にくるなんて。どした?」
「驚いた……。光彦ってやっぱりすごいね」
「店ン中はあんなののごった煮だぞ。つか、わりぃ。急に団体さん入っちまって、マジ今日テンパってんだわ」
「え、ちょっと!」
 引き止める間も無く光彦は、「気ぃつけて帰れよ」と、嵐と同じ台詞を残して店の中へと消えてしまった。
「そんなぁ……」
 裏口で嵐を待っていようかと一歩踏み出した矢先に、ガラリと戸を引く音がして、純生は、脱兎の如く駆け出した。またあの上等兵に絡まれでもしたら、今度こそ卒倒してしまいそうであった。
  純生は、『よっちゃん』から程近いコンビニに逃げ込んだ。携帯をポケットから取り出し、すぐもとに戻す。嵐の部屋の充電器に、携帯がささったままだったのを思い出したからだ。自宅へ帰ろうかとも考えたが、二人に無下にされたことに無性に腹が立ってきてどうにも納まりがつかず、思索に耽っているうちに、二人連れの客に流されるようにして雑誌コーナーにたどり着いた。ガラス越しに『よっちゃん』の明かりが良く見える。純生の表情は、得意げなものに変わった。
 雑誌を読むふりをして通りを覗っていれば、嵐が通るかもしれない。視力は心もとないが、あの金髪を見逃すはずがない。と、我ながらの妙案に満足して、早速雑誌を広げてみたものの――甘かった。

「そういえば嵐、学校……って言ってた? なにしに?」
 三十分も経過しようという頃、純生はそう独りごちた。嵐が篠原から預かった部室の鍵の存在を知らない純生には、『学校』と『鍵』がリンクしないのも止む無しで、純生は、途方に暮れてしまった。篠原の名が頭を過ぎるも、嵐は「鍵を返しに行く」と明言していたわけであるから、やはり繋がらない。結局、嵐は光彦の堵場の日だと勘違いをして学校にいってしまったんだろう、という強引な結論に落ち着いた。腕時計を見れば時刻はもう八時を回っており、店員の眼も気になりだして、純生はコンビニを出ることにした。

 自宅までは、釈然としない気持ちを引きずりながらの道中だった。おまけに、待ち伏せているのは大嫌いなアーチ門。暗くなると、門灯の揺らめきも何処か妖しげで、不気味さが倍増する。門扉を前にして、また漏れそうになった溜息を、純生はぐっと飲み込んだ。吐くたびに、何か大事な養分が身体から失われていくようで、比例して気分も沈んでしまう。さっさと通り過ぎてしまおうと、純生は、スクールバッグから小さなリモコンを取り出した。呼び鈴を鳴らせば『ひろさん』に開けてもらえるのだが、少し時間がかかってしまうので、待っているのが嫌なのだ。
 背後を通りを過ぎた車のライトに煽られて、薄暗闇に閃きが走った。眼をやると、門柱の袂の辺りにぼんやりとした白い影が見える。不思議と恐ろしさはなく、純生は、引き寄せられるようにして門柱に近づいた。
 門柱に立てかけるようにして置いてあったのは、野辺に咲く白い小薔薇を集めたような花束であった。何故こんなところに花束があるのか首を捻ったのもほんの数秒で、すぐに純生は、喜色満面と両手を打った。光彦の花束を都合してもらった生花店に、嵐が「次の小遣いで買いにいく」と約束していたのを思い出したからだ。隣の駅までこの花束を買いにいったのであれば、今日の嵐の失踪も合点がいく。
「なあんだ、そういうことか」
 純生は、スクールバッグを地面に降ろして、幼児を扱うように慎重に花束を抱き上げた。小薔薇の開きかけた花弁に夜露が降りて、それが門灯の明かりを弾いて銀色に輝いている。慎ましやかだが気品のある芳香に包まれながら、花を買うときやここまでの道程はさぞや気恥ずかしかったことだろうと、親友の赤い顔を想像して頬を緩める。硬派な嵐であれば、直接渡さなかった理由も明白だ。
 ただ気になるのは、嵐がなぜこの花一種を選んだのか。店頭に飾られている花束はどれも多様な品種の組み合わせでできていたし、光彦に渡した薔薇も多彩であった。

「僕のイメージって白なの? 確か、花言葉ってあったよね。……嵐、まだ帰ってないのかな?」

 我が家の門前だということもすっかり忘れて、純生は、取り出した携帯電話に、長くなるであろう文字列を打ち込み始めた。
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