チーム・フラッパー -aka "identity crisis"

 時の流れというものはまったく情け容赦が無い。嵐がどれほど望まなくとも、昨日と一秒の狂いもない時刻に、ウェストミンスターの鐘は打ち鳴らされた。荘厳な音色は、篠原の背を送り出した姿勢のまま固まっていた嵐に、昼休みの到来を知らしめた。校内はにわかに賑やかになり、楽しげにさえずりながら更衣室へと引き上げていく女子生徒達が逆光を受けて、部室の窓に影絵となって次々と描き出された。それでも、嵐は動けなかった。
 不意に、腰の辺りに振動が走る。その断続的に続く不快さは、石のようだった嵐の身体にようやく一つの命令を下すことに成功した。ぎくしゃくと尻ポケットから携帯を取り出し、液晶画面を確認する。『新着メール』の文字の隣に見慣れた二文字を見つけて、嵐は眼を細めた。今のような状況下に於いては尚のこと、嵐にとって救済である対象が、画面の向こう側に過ぎったからである。
「そうだ……今日の昼飯は……」
 絶対に三人で食う――そう決めてたんだっけ。
 ぽかりと浮かんだ記憶の断片に促され、嵐はのろのろと立ち上がった。重い足を一歩踏み出すと、胸元で金属のぶつかり合う音がして、嵐の機能しはじめていた身体中の神経が一瞬にして切断された。ライダースのポケットからはみ出していたのは、アルミ製の黒いカラビナ。まだ脳裏にこびり付いている熱風で鼓膜を焼くようだった篠原の囁き声が、嵐の口の中に“ある感触”を蘇らせる。堪らずに、勢いよくライダースの袖で唇を拭った拍子に、顎に鋭い痛みが走った。
「いッ……て!」
 手首に巻かれてた皮製のバンドのピラミッドスタッツが、顎の皮膚を抉ったのだとすぐに解った。しかしその痛みは、何処か虚ろな非現実に囚われていた嵐の精神を、現実に引き戻す切っ掛けとなる。
 あいつが俺たちに片想いだって? そんな馬鹿な――嘘だ、篠原の性質の悪い冗談だ――本当に?……
 篠原が去ってから数十分、閉道を巡るように頭の中で繰り返され続けた疑問の数々が、おもむろに終点にたどり着く。そこに“答え”はなかったが、厳然たる“結果”だけは存在していた。昨晩、純生が言った言葉を思い出す。
 そうだ。どちらにしろ、俺たちは離れられない。
「だから俺はッ! あいつらとメシを食うんだ……ッ!」
 嵐は、笑う両膝を叱咤して、もう一歩を踏み出した。


 校舎に戻ってみれば、ランチボックスを抱えた純生が、嵐の教室の前で不安そうに視線を彷徨わせていた。人目を恐れる純生が、購買へと走る生徒で騒然とする廊下の隅に、一人佇んでいる。壁に背中をぴったり貼り付かせて、通り過ぎる生徒達の一瞥にいちいち怯えながらも、ただ一心に嵐の姿を探している。嵐は、湧き上がった形容し難い強い衝動に戸惑った。
 金髪頭を雑踏の中に認めるなり愁眉を開いた純生は、眩いばかりの笑顔を広げた。篠原と別れてから氷水に浸かっていたようだった嵐の身体は、たちまち確かな温度に包まれる。
「嵐、遅いッ!」と叫んで、駆け寄ってきた純生は途端に表情を翳らせ、「また喧嘩? 顎に血がついてる」と、嵐の顔へ手を伸ばしてきた。その手をやんわりと制止し、嵐は慎重に微笑みを作って首を左右へ振った。「待たせてごめん」と純生の頭をひと撫でする。
「リストバンドの鋲、ひっかけただけだよ。それより、光彦は? 購買?」
「うん、もう屋上で待ってると思う」
 意味有り気な笑いを忍ばせた口ぶりに胡乱げな嵐の両袖を、純生が引っ張る。
「光彦、最高に笑えるんだ。早く行こ」
 真っ直ぐに向けられた純生の瞳は輝いていた。窓からの陽光をきらきらと弾くその瞳に導かれるように、一度は抑制した衝動が咽元まで突きあがる。もう駄目だ、と何処かで声がした。

 驚いて、純生は反射的に総身を強張らせたが、直ぐに力は抜けた。嵐の心音を確かめるように平たい胸に耳を寄せる。ほんの短い間、その静かなリズムに心を委ねていた純生であったが、場所が場所だけに集まりつつある数多の視線に直ぐに居た堪れなくなる。居心地悪そうに身じろぎした純生を、嵐はさらに強い力を両腕に込めて抱きしめた。
「えっと……なにか、あった?」
「……なにもない」
 背に刺さる生徒達の好奇の眼も、嵐の暴挙への掣肘とはなり得なかった。嵐は、純生の柔らかな髪から匂いたつ清涼な薫りと甘やかな温もりに、嫉妬や焦り、不安といった負の感情が浄化されていく感覚に陶酔していた。
 篠原と別れてから止まっていた時間が、ようやく動き出したような気がする。篠原の指先に一突きされた眉間の痛みも、吸い取られるように消えていく。
「嵐、苦しいよ……」
 嵐の胸に埋めていた顔を振り、純生が細く息を継ぐ。「そうだな、ごめん」と名残惜しげに純生の旋毛に鼻先をこすりつけてから、嵐は心配そうに覗き込んできた純生の頭をもうひとつ撫でた。
「Vと弁当、取ってくるから待ってて」
 なるほど人の体温に癒されるというのはこういうことか、と妙な感心をして、嵐は教室の戸を引いた。
 嵐が純生を抱き竦めていたのは一分にも満たない時間であったが、昼時の騒々しい校舎の中、いつの間にか国立Fクラスの周囲だけ水を打ったように静まり返っていた。



 三人の定位置である屋上の一角で、憤然と腕組みをした光彦が二人を待ち構えていた。光彦の口辺はこれ以上無いほどひん曲がっていて朝からの仕打ちに全身で抗議している。そんな彼の不機嫌を承知で、純生は早速、光彦を指差してゲラゲラと大笑いを始めた。確かに、光彦の座する一帯だけなかなかシュールな空気を醸し出していた。
「お前らがこのクソ忌々しいものを持って歩けっつったんだろうがッ!」
 いいから早く座れ、と苛立ちの眼で促す光彦の右側には、十字模様の細かいカットが施されたクリスタル製の花瓶。そして左側には学長室にある調度品のような信楽焼の渋すぎる花瓶。花弁の変色し始めている一群から辛うじて鑑賞に堪え得る薔薇だけを選んで包んでもらった花束とはいえ、もとは一流ホテルの巨大な花器に飾られていたというアレンジメントだ。嵐が光彦に贈ったものもそれなりのボリュームであった。光彦の両脇に鎮座する花瓶には、そのどちらにも親のカタキとでも言いたげに大量の薔薇の花がぎゅうぎゅうと押し込まれていた。
「だって光彦、遺影みたいになってるッ! どうしたの、その花瓶?」
 笑いの隙間から純生が尋ねると、
「休み時間に便所から戻ったら、机の上でこうなってたんだよ」
 と聞くなり純生は、「やっぱり遺影だ!」と叫び、また大笑いを始めた。光彦が「いい加減にしやがれ」と半ば投げつけるように純生にオレンジジュースを渡す。厳粛な儀式に使われるべき肖像に例えるなんて、と多少の後ろ暗さを覚えつつも、言われてみれば左右の花々の配置が絶妙で、その中心にある光彦の顔は随分と眼つきの悪い遺影と化していた。言い得て妙に納得しながらも純生のように笑い飛ばすことができず、嵐は難しい顔でフライングVを肩から降ろし、光彦の対面に腰を据えた。
「その花瓶、両脇に抱えてあの混んでる購買に行ったのか? ……よく買えたな」
 光彦はフンと鼻を鳴らし、
「周りが勝手に避けやがった。お陰でいつもよりラクに買えたぜ」と尊大に言った。何を威張っているんだか、と呆れながら鼻先に差し出されたコーヒー牛乳のパックを光彦から受け取る。
「……サンキュー」
 何故だかいつもよりありがたく感じるそれをまじまじと見つめる。なおも笑いの収まらない純生に、「ね、嵐。最高でしょ?」と肩に手を掛けられ顔を上げると、純生の眼差しは一瞬病人を見るようなものに変わり、どうやら己の眉間の皺は随分と深かったらしいと反省して、また俯く。
 俺だって笑い飛ばしてやるつもりだったのに――。
 自らが贈った花々を恨めしげに盗み見る。光彦の前で心から笑える日など永遠にこないだろう絶望的な予感すら湧き上がってきて、嵐は、コーヒー牛乳に八つ当たりするようにブスリとストローを通した。
 そうこうしている間にも、嵐の目線は無意識に光彦から逃れようと巧みにコンクリートの上を這い回っていた。事務的な動きで弁当を広げだしたその横顔に注がれていた鋭い視線に、嵐は気付かない。

「でも凄い! 光彦が僕達の言いつけをちゃんと守ってるなんて!」
 しばらくして落ち着いたらしき純生が次に起こした行動は、箸を持つ嵐の手を止めさせた。純生が「えらいえらい」と、幼児を宥めるように光彦の頭をヨシヨシと撫で擦ったのだ。煩そうにしながらも純生にされるがままにパンにかじり付く光彦の姿も、嵐にとってはまた不可思議な光景であった。
「……純生?」
 嵐は、呆然と純生を見た。つい数日前まで、純生は嵐の背中に貼りつきビクビクと怯えながら光彦の機嫌を窺っていた。その純生が今、無邪気に光彦を玩弄し笑っている。時に純生は、光彦に多少の生意気を言うこともあったが、それも非力が故に嵐の庇護下であることが大前提であった――はずだ。嵐にとって、過去における純生の言動のいずれにも、たった今し方の純生の態度は当てはまらないもので、ただの軽口で片付けるにはあまりにも違和感があった。
 純生が変わった――? 否、純生の変貌は、あの光彦の電話を受けたときにすでに始まっていた。純生は、光彦相手に背筋が凍るほどの見事な恫喝を披露してみせたではないか。なぜ今更こんな単純なことに気付くんだ、と己の愚鈍さに唇の端を噛む。光彦もだ。いつもであれば高圧線のように嵩に懸かって純生の額を小突き、出過ぎたその口を閉じさせていただろう。
 正体の見えない不安がまた頭をもたげ、嵐の心を侵食していく。長年過ごした地に訪れた天変地異――隣人は次々新天地を目指して旅立っていくのに、自分だけが取り残されたような――。

 箸の上に最初の一口を乗せたまま純生のほうへ不自然に首を捻っている嵐に、おい、と不機嫌そうな声が飛ぶ。
「誰にやられたんだ?」
「……えッ!?」
 嵐の持つ箸の先から卵焼きが跳ね飛んだ。ぎょっと眼を剥いた嵐の異常な狼狽ぶりに、光彦の眉尻が下がる。
「それだよ、誰にやられたんだ?」
「なッ、何をだよッ!?」
「顎、血ィついてンぞ? 喧嘩か? 相手は誰よ?」
「あ……ああ、これ……」
 そっちのことか、とほっとしたのもつかの間、顔に向かって伸びてくる大きな手のひらの存在に気付く。嵐の瞳には何故だか光彦の動きがスローモーションに映った。ゆっくりと形状を変えながら接近してくる光彦の手に、篠原の細い指先が重なる。いよいよ光彦の手が嵐の顎を掴もうというとき、
「うわッ! 俺にさわるなッ!!」
 気付けば、嵐は渾身の力で光彦の手の甲を平手で弾き返していた。光彦が、唖然と嵐の顔を見遣る。だが嵐こそがこれ以上ないほどの驚愕の貌を光彦に向けている。純生のお陰で辛うじて表面的な和やかさを保っていた空間に、鉛の壁のような重苦しさが音を立てて落ちてきた。

「ちょっと……傷ついたぞ……」
 叩かれた手の甲を撫で擦りながら、光彦がぼそりと言う。被害者めいたその仕草が、嵐の神経を逆撫でた。箸を投げ出し、飛び上がるようにして光彦の前に立つ。
「き……ッ、傷ついてるのはどっちだよッ!? お前が俺達に何をしたのか、言ってみろッ!!」
「ネタにしてオナニー」と、さすがに周囲に配慮したのか小声で呟き、またも尊大に光彦は言う。
「ちゃんと許可は取った。くだらねぇ仕返しにも我慢してンだろ? まだナンか足りねぇのかよ?」
「お前……ッ! あんなの脅しじゃないかッ!!」
 とはいえ不本意ながらも承知したのは紛れも無い事実。道理に追い詰められ続く言葉を失う。脳裏には光彦への言い訳めいた恨み言が逆巻いていて、頭が爆発しそうだった。肩を怒らせている細身の影から、光彦の眼が冷めた閃光を放つ。
「言えよ。なンなら毎日このクソ忌々しい花かついで登校してやるよ。それとも土下座でもするか? 足でも舐めてやろうか?」
 淡々とした口調で怒りを煽るように畳み掛ける光彦へ、嵐は、無我夢中に拳を振り上げていた。
「そうか、殴りゃあ嵐の気が済むんだな?」
 さあやれ、とばかりに光彦は両膝に手を置き瞑目した。嵐の右腕にぐっと力が漲る。

 嵐は、光彦に“口”で勝てた例がない。頭を巡らせている間に揺ぎ無き光彦論を突きつけられてしまうので、舌戦といえるまでの口喧嘩に発展したことすらないのだ。今、無抵抗の光彦に武力を行使することは、嵐にとって自ら敗北を宣言するようなものなのである。いっそ感情に任せてこの拳を思い切り振り下ろしてやりたかったが、結局、拳は宙に投げ出されたままだった。
 不意に、ライダースの裾をぐいと引かれ、嵐の片膝が揺らぐ。
「嵐のバカッ! 早起きした意味ないじゃないか!」
 凍り付いていた空気の壁に、純生の一声が亀裂を入れる。純生らしからぬ鋭さを宿した叫び声のほうを窺うほどの度胸もなく、嵐は、ただ怒らせていた肩だけを落とした。純生を巻き込んでの壮大な茶番劇は、この昼休みを穏便にやり過ごすためであったことを思い出し、途轍もない自己嫌悪の波が嵐の心に襲いかかってきた。だがこのまま引き下がるのは堪らないほど癪だった。今更、どうやってこの場を取り繕えばいいのか――持って行き場を失った嵐の右拳は、未だぶるぶると震えている。

 ひとつ、光彦が諦めたように溜息を吐いた。ごそごそと上着のポケットを弄りだす。そして光彦は、嵐の胸元に見覚えのあるものを差し出した。
「これ、渡しとくわ」
 光彦の人差し指には、すっかり塗装の剥げ落ちた三匹のイルカと、ノコギリ歯のような刻み目のついた小さな金属片がぶら下がっていた。その金属片の鈍い光が、背水の覚悟で光彦に花束を贈った時よりも、篠原のキスよりも――およそここ数年起こったどの出来事よりも――嵐の心を根底から激しく揺さぶった。身体中から力が抜けついでに右腕もだらりと下がり、嵐はでく人形のように立ち竦んだ。のそりと立ち上がった光彦の顔を、夢遊病者のように見る。
「今、これ持ってっと何かと都合が悪ぃンだよ。……解ンだろ?」
「わか……らない。お前にやった鍵だ……」
「解れよ」と、光彦が苦笑する。理解できるが、したくない。頭が拒否している。
 これはパンドラの箱の鍵だ。受け取れば、大きな災いが降りかかる。
「いらない……返されても、困る」
「返すんじゃねぇ、預けるだけだ。こりゃ俺のモンなんだから、大事に持っとけ」
 そう言って、光彦は嵐の手首を取り、手のひらに鍵を乗せた。
「ちっとヤニ補給に裏庭いってくる。放課後は賭場があるから、お前ら先に帰れよ。それから今日は……金曜だし店が込むから……」
 お前の部屋にはいかない、とは続かない代わりに、両脇に花瓶を抱え上げた光彦は「つくづく間抜けだな」と自嘲的な呟きを残した。そして、広い背中が嵐の視界を覆った。

 光彦の姿が扉から消えるのと同時に、ひそひそと囁きあう声が屋上のあちこちから立ち上るが、嵐の耳には届かない。胸の奥では、ひゅうひゅうと気持ちの悪い音が鳴りはじめていた。唐突に襲ってきた息苦しさは、今までに感じてきた真綿で首を締め付けられるような生ぬるい酸欠とは明らかに異質で、喘息の発作のそれに似ていた。胸を押さえ、身を二つに折り苦しさに耐える。視界がどんどん狭まってきて、このまま気を失うのではないかと思った矢先、純生の白く強ばった顔が暗闇の僅かな隙間に見えた。呼吸の仕方を忘れた嵐の背に、そっと添えられた手。「僕も苦しいよ、嵐」と、純生が優しく耳元で言う。ひくりと痙攣のような震えを刻んで、ようやく嵐は息を継ぐことができた。
 純生の肩を借りて、膝を落とす。目の前には、卵焼き一つ分のスペースがぽっかり開いた弁当箱。しかし食欲などあろうはずもなく、嵐は、抱え込んだ膝の間に顔を埋めた。
「バカなんて、言っちゃってごめん」
「いや、俺が悪い。せっかく純生が色々してくれたのに、全部ダメにした」
「やっぱり嵐、ちょっとヘンだよ。廊下でも、僕を抱きしめたりしてさ……」
 沈黙で応える嵐に、純生は眉を顰める。
「あのさ……もしかして……」
 純生は、しばらく何かを言い淀む素振りを見せ、やがて絞り出すような声で言った。
「お昼休み前に、篠原君に……会った?」
 指先にひやりとしたものを感じた。嵐がゆっくりと顔を上げると、今にも泣き出さん眼をした純生がいた。光彦と篠原のキスを目撃したと純生が告白したあの夜の、腕の中で怯えたように強張った小さな身体の感触を、嵐は奇妙によく覚えている。「そうか、純生もか」という独白は、嵐の心の中で呟かれたものだった。

 篠原に良いようにされていたのはどれくらいの時間だったのか――最中の時間の流れは完全に歪んでいた。唾液を吸い尽くすが如く貪欲に絡んできた篠原の唇と舌に、本来引き出されるべき性的な興奮を、嵐は微塵も感じることはなかった。ただ苦しさと、頭の芯を焼かれるような感覚に翻弄されていた。圧迫感から逃れようともがく嵐の抗いが成功の兆しを見せたとき、唐突に唇を離して篠原は言った。
『痛いだろう、塩田。――俺の痛みが、流れ込んでくるみたいだろう?』
 断罪するように突きつけられた『痛み』という言葉に、嵐は閉ざそうとしていた唇をこじ開けられた。再び侵入してきた熱を持った塊は、嵐の口腔を容赦なく犯した。その生々しい蠢きが、今も嵐を捕らえて離さない。

 甘いはずのコーヒー牛乳を酷く苦い薬のように一口飲んだ嵐を顔を、純生は微動だにせず見つめている。
「……会ったよ、篠原と」
 純生は無言で、きゅっと嵐の二の腕を掴んだ。その先は聞きたくないとも言いたげな固い顔つきで居竦まる。
「違うんだよ、純生。……俺達はさ……」
 嵐は、そこで一旦言葉を切り、屋上のフェンス越しに空を見上げた。つられて純生も空を仰ぐ。
「俺達は、篠原に殴られたんだ」
 高く淡い秋の蒼空には、幾筋も白い刷毛で刷いたようなすじ雲。その中に混じって、過ぎ行く季節を惜しむかのように夏の雲がぽかりとひとつだけ漂流していた。
 ポケットには、カラビナ。
 手の中には、三匹のイルカ。
「鍵、返さなきゃな……」
 傍らで純生がこくりと頷く気配がした。

 どっちの鍵を――?
 悩め、と言われても、一体なにから悩んで良いのか。
 それすらも今の嵐には解らない。
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