単気筒 ROCKERS -後編-

 三人を乗せたカブはサスペンションを軋ませながら住宅街を抜け、川沿いのサイクリングコースへと入った。
折しも、季節は五月に入ったばかり。薫風に若葉は揺れ、川面は初夏の青空と緩やかに流れる白雲を映している。都下にしては上出来な眺めであった。
 釣り糸を垂らす老人、バーベキューを楽しむ家族――河川敷に整備されたグラウンドには、草野球に興ずる人々の喚声が飛び交っていた。
「どうだー? 気持ちいいだろ?」
 光彦が得意げに胸を反らし、二人を振り返った。道はただ真直ぐに伸び、眼前に広がるのはいっそ清々しいほどの新緑のパースペクティブであった。純生は満足そうに顔を綻ばせていたが、嵐は「前、前見てろ」と気が気でない様子で、カブの最後尾から頓狂な声を上げていた。

 休日を謳歌する人々の賑わいが途切れた頃、”美佐代 THE 3RD”は緩やかに停車した後、ブルンと軽くエンジンを吹かした。光彦は、手のひらを忙しく泳がせて二人に降りるよう急かし、カブのスタンドを立てた。レッグシールドの内側にあるキャリアに括りつけられていた二等辺三角形のビニールケースを抜き取ると、遠足に来た子供さながらに嬉々として、光彦はウオォーと奇声を上げながら土手を走り降りていった。
「な、なに? あのテンション」
「全く、変態オヤジかと思えば……」
 と呆れ顔で呟いた嵐であったが――天気と季節が自ずと三人の気分を高揚させていた。嵐と純生は光彦の後に続き、土手の草むらを勢い良く滑り降りていった。


 嵐にとっては、幼少時に散々連れてこられた場所である。「ヘヴィメタの星になれ」と、幾度となく兄に暗示をかけられたのが、この河川敷だ。しかし光彦には、自宅から僅か二キロ程度の、インスタント・レジャーのメッカに何の想い出も無かった。無理もない、母親を早くに亡くし、父親が一人で店を切り盛りする光彦の幼少時代の遊び場といえば、居酒屋の店内か、自室でしかなかったのだから。

「オラッ! 嵐、勝負だッ!」
 光彦がビニールケースから取り出し、ぶんぶんと振り回しているのは、バドミントンのラケットであった。
 子供かよ、と心中でツッコミを入れながらも、
「ヘヴィメタに羽根突きやれってのか?」
 まんざらでもない様子で、嵐はキラリと瞳を輝かせた。
「拘りすぎなんだよ、お前は。わざわざ買ってきたんだから、やろうぜ」
 と、光彦がラケットの片方を嵐に投げてよこした。
「言っておくが、こう見えても俺は運動神経いいんだぞ」
 嵐は受け取ったラケットを肩に担ぎ、フフンと鼻を鳴らして不敵に笑った。
 過去に目撃してきた嵐闘の数々でそれは証明済み、百戦錬磨の光彦ですら、こいつと真剣に取っ組み合えば面倒なことになる、と一目置いているのだ。云われなくとも、充分に心得ている。
「僕、審判やるね」
 純生は、ちょこんと土手の裾に膝を抱え込んで、楽しそうに二人のやり取りを見ていた。
「賭けるぞ。何か賭けねぇと、盛り上がンねぇからな」と、光彦。
「純生と違って俺は貧乏だ。金なんて無い」
 なぜなら、小遣いは全て古レコードかギターのゲージ、ラウド雑誌に消えてしまうから。
「ばぁーか、お前から小銭搾り取っても楽しくねぇよ。鍵だ、鍵。お前の部屋の合鍵」
「なッ……なんでそんなもん欲しがるんだよ?」
「何かと便利だろうが」
 冗談ではない、ホモに寝込みを襲われる危険性のあるものを、安々と渡せるわけが無かった。だが負ける気も無い、ここで引くのは男が廃ると云うものだ。
「お、俺が勝ったら、何もらえるんだよ?」
 そこまで考えが及んでいなかったらしき光彦は、んー、と顎をさすりさすり……
「秘蔵のエロビデオ(男同士)、見せてやる」
 導き出した答えがこれである。「ふざけるなッ!」と叫ぶ嵐を無視して、蒼天に向けて光彦は高々とシャトル打ち放った。


「ねぇねー、まだやるのー!?」
 抜けるほど澄んでいた青は夕日色に変化し、すでに西の空には夜の闇が垂れ込めていた。飽きることなくシャトルを打ち合う嵐と光彦の影が、草むらに長い線を引いていた。純生は、地面に書いたおびただしい数の”正”の字を呆れたように眺め、欠伸を噛み殺している。
「純生ッ! 今、カウントいくつだ?」
「十八対十六で光彦のリード~」
 気抜けした声、ヤル気ゼロの純生であった。
 バトミントンのルールなど、インドア派な三人が知る由もない。二十点先取で、かれこれ三十五試合目、勝敗は十七対十七のイーブンである。
 コートも無ければネットも無い、混沌としたラリーは延々と続き、なかなか決着がつかない。
モツニコミで培われた光彦の体力は馬並、嵐はゼイゼイと肩で息をしながらも、運動センスと、前後左右に光彦を揺さぶる頭脳的な配球でなんとか乗り切っていた。
「嵐ッ! いい加減諦めろ!」
「バカ野郎ッ……! お前に合鍵なんて渡せるかってのッ……!」
 なにしろ、バックバージンの危機である。必死だ。
「僕もう帰りたいよ~、ねぇ~」
「合鍵には……」
 高く上がったシャトルコックを目で追いながら大きくラケットを振りかぶると、
「理由があンだよッ!」
 裂帛の気合とともに、光彦は身をしならせて渾身の一撃を放った。嵐は、ラケットのフレームに辛うじてシャトルを引っ掛けた――その瞬間に、シャトルの先端と羽部分が勢い良く分離し、それぞれ違う方向へ飛び去ってしまった。

「どうだ。もう羽の替えはないぞ。嵐よ、俺の勝ちだ」
 崩れ落ちるように膝を付いた後、嵐はそのままゴロリと大の字に寝そべった。勝ち誇った顔で見下ろす光彦を憎々しげに睨め付け、
「クソッ! 俺の城をどうしようってんだよッ!」
 と、自棄くそ気味に吐き捨てた。
「あの女、今でもたま~に店に来ンだよ。お前の部屋はその避難所。今日みたいに締め出し食らったら、夜行く宛てに困るじゃねぇか。店、常連が居座れば明け方まで営業してるンだぜ?」
「……あの女って?」
「まだ幼気な俺のドーテーを奪った忌まわしき女。あいつの笑い声が一階から聞こえてくる度、タマが縮み上がる思いなんだよ。な、助けると思ってさ」
「……そのときは入れてやるよ。別に、合鍵なんて無くたっていいじゃないか」
「まぁ、細かいことは気にすんな。保険みたいなモンだ」
 天使の笑顔を満面に広げ、純生が無邪気に嵐の顔を覗き込んだ。
「嵐、僕にも、ね」
 沈没――そんな表現が一番しっくりくるほど、嵐は死んだようにガックリと、全身の筋肉という筋肉を弛緩させた。

 上がった息もどうにか収まりかけた頃、嵐はむくりと半身を起してわざとらしい溜息をついた。
「あぁー、体力で負けた。俺も明日から毎日モツ食おうかな……」
 体力さえあれば勝てたと言いたげな口ぶりだったが、光彦は別段気にする風もなく、
「……やめとけ、朝勃ち治めンの大変だぞ」
 自嘲的な響きを含んだ光彦の声音は、やけに説得力があった。


 普段使わない筋肉を酷使したせいか、体のあちこちが軋むように痛む。泥だらけのTシャツを洗濯機に投げ入れ、洗面台の鏡を何気無しに見遣った嵐の顔が、愕然と歪んだ。
二の腕と首周りがきれいにピンク色と白のツートーンに――つまりドカタ焼けしていた。
 嵐の貴重な日曜日は、フライングVとの語らいどころか、ヘヴィメタ五箇条の禁忌を犯す日焼け跡まで作ってしまう、最悪の一日となってしまったのである。
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