フロムR

「閉めたぞー」
 と、窓から頭だけを出して、庭にいる純生にそう呼びかける光彦の背中を、苦虫を噛み潰したような顔で眺めているのは、言うまでも無く、嵐である。
 ガチャリ、と鍵を回す音がして、破顔一笑、純生がヒョイとドアから頭を出す。
「開いたぁー! 嵐、開いたよ!」
 なにがそんなに嬉しいんだか、合鍵で部屋のドアを開け閉めしては純生が忙しく出入りするお陰で、エアコンの効果がまったく得られない。
「……そりゃ開くっての、馬鹿馬鹿しい」
 今にも雷鳴を轟かせそうな暗雲を金色の頭上に戴き、嵐は盛大な溜息とともにそう吐き出した。

 終業式を目前にして、純生のテンションが異様に高い。光彦は、嵐の不機嫌を煽るかのように、面白半分で純生の奇行に付き合っていた。
 嵐は、合鍵を二人に渡してしまったことを心底後悔していた。

「ねぇね。夏休み、堂ヶ島と北軽井沢、どっちがいい? 堂ヶ島はねぇ、叔父さんにクルーザー出してもらって海釣り! 北軽はおじいちゃんのログハウスに泊まって湖畔でバーベキュ~。両方温泉あるよ!」
「選抜クラスって、もれなく補習があるんじゃねぇか?」
 と水を差す光彦に、純生はツンと唇を尖らせて、
「僕、もう立派に落ちこぼれだもん、そんなの無視」
 実際、先日のテストにて、純生の成績は惨憺たるものであった。

「らん~、せっかくの夏休みなんだよー? 三人でどっかいこうよー」
「俺を黒コゲにするつもりか? 海なんて以ての外だ」
 もはや玩具をねだる幼児さながら、純生は嵐の背後から首に双腕を絡ませて、猫のようにじゃれ付いてなかなか離れようとしない。
「いいじゃない、日焼け対策すれば。行こうよぉ」
 さすが一人っ子、甘え方に情け容赦が無い――などど、嵐は妙に感心していたが、ふと気付けば光彦も一人っ子である。純生ならじゃれ付かれても仔猫で済むが、光彦となると……。

「ぐえッ……! す純生ッ……!」
 突然、純生に結構な力で首を締め上げられ、嵐は絶命寸前の蛙のような苦鳴を上げた。
「だって嵐、なかなかオーケーしてくれないんだもん。ね、絶対楽しいって! 僕、夏休み前半はフランス行っちゃうから、お盆過ぎくらいにどう?」
 細腕に降参とばかりに高速タップを入れると、純生は、悪びれもせずペロリと舌を出して見せた。甘えるベンガルタイガーも恐ろしいが、仔猫も侮れないと嵐が思い知った矢先、
「温泉いいな。男同士で裸の付き合い」
 と、光彦がぽつり。

「……」
「……」

 動作を凍らせたまま、眼を据わらせ冷ややかに睨む二人に、
「……ナンだよ。俺が一緒じゃ駄目だってのか?」
 光彦はやや悄然とした口ぶりで言った。
 やがて、「差別反対」を連呼して、一人シュプレヒコールを始めた光彦をことさら無視して、純生は嵐に向き直り、「らん~、いいでしょう?」と、甘え声で畳み掛けた。

 互いを特別な存在だと認めてから、初めての長期休暇。
 中等部時代の三人の夏休みといえば、純生は海外を飛び回り、光彦は、昼間はウインズ新橋で競馬観戦、夜は店の手伝い。嵐は、中古レコード屋巡りとギターに明け暮れる毎日であった。

「うーん……」
 嵐は、純生の提案を吟味するように思案顔を作って俯いた。
 確かに、何のイベントも無い夏休みというのも寂しい。ヘヴィメタの城に、ただぐうたらと二人に居座られるのも勘弁してもらいたいところだ。
 しかし問題が一つある。

「そりゃ、楽しそうだけど……俺、カネないよ」
 壁一面を占拠する累々たるCDの殆どは、修也が嵐に買い与えたものだ。庭に城を建ててもらった負い目もあり、嵐は親に小遣い以上の金品を強請ったことがない。月一万円をやりくりする嵐にとって、小旅行とはいえ即諾できない財政状態なのだ。
「おカネなんて! 宿泊費はタダだし、ひろさんに車出してもらえば旅費だって……」
「そんなの、親が許さないよ。向こう行ってからだって色々カネかかるだろうし」
「気にしなくっていいのにぃ」
「そういうわけにはいかないの」
 所詮、純生に下々の気持ちなど分かろうはずも無い。

 しばらく黙然と二人のやり取りを聞いていた光彦が、ポンと膝を打った。
「よし、嵐。七月一杯、ウチでバイトしろ。時給七百円で五時から十一時まで、一週間も働きゃ三万くらいにゃなる」
「居酒屋はマズいだろ……高校生だぜ?」
「俺だってしょっちゅう手伝わされてンだから問題ねぇよ。花火大会の前後は店が混むから、親父も喜ぶだろうし」
 いよいよ本格的に頭を抱えて、嵐は低いうなり声を上げた。
 正月に甘酒を舐めるのが精一杯の高校、しかも一年生が、居酒屋でバイトデビューをして良いものだろうか――?

 一頻り悩んだ後、こちらを窺うように不安顔を向けている純生に、ふっと照れたような笑いを返して、
「……そうだな……うん、やるよ」
 これもヘヴィメタとクソ真面目しか能がない己にとって、視野を広げる良い機会だろう。そう納得して、嵐は頷いた。


「さすがにライダースじゃもう暑いな……」
 嵐は、手をひさし代わりに太陽を見上げて、眼を細めた。
 梅雨明けを宣言するニュースが流れたのはつい昨日のこと、空気は独特の湿度と熱気を孕んで、肌に纏わりついた。だが、決して不快ではない。
 まだ夏色に染まりきらない空に飄落する白雲が実に気持ち良さげで、自らの爽快感を投影しているかのようだ。
 夏休み初日――学校の鬱屈から開放されたばかりのこの日、嵐の眼に映るもの全てが輝いて見えた。

 『よっちゃん』の裏口から嵐を出迎えたのは、光彦の呆れ声であった。
「お前……バイトにまでギター持ってくんなよ」
「しょ、背負ってないと、歩く時バランスが取れないんだよ」
「俺の部屋に置いて来い。階段上って突き当たり。腰のチャラチャラも外せよ。あとコレ」
 そう言って光彦は、筆文字で『居酒屋 よっちゃん』とプリントされたデニム地のエプロンを、嵐に投げてよこした。

 カウンターの向こうで黙々と仕込み作業を続ける陽平に、「お世話になります」と軽く頭を下げると、「おう」と小声で一言――態度は無愛想極まりないが、どこか父親らしい暖か味を滲ませる風貌に、嵐は緊張を解いて頬をゆるめた。
 物珍しげにきょろきょろと周囲に視線を廻らせながら急勾配の階段を登り、二階の廊下に出ると、時代めいた市松模様のふすまが嵐の前に立ちはだかった。
「……ここか」
 嵐は、初めて眼にする光彦の部屋に多少心躍らせて、ガラリとふすまを開けた。

 待てど暮らせど嵐が二階から降りてこない。さては怖気づいたかと、不安に駆られた光彦は、嵐を追って自室へと赴いた。
「……エロ本(男同士)でも探してんのか?」
 床に這いつくばる嵐を茫然と見て、光彦が言う。 
「そんなもん探すか。掃除に決まってるだろ? 俺、こういうの耐えられないんだよ」
 なるほど、光彦の部屋は、『散らかした』というレベルではない。
 部屋の中央には、たまに酔客たちと囲む麻雀用に、夏だというのにコタツが鎮座している。その上には麻雀牌と各種賭博グッズの山、部屋のあちこちには丸まったハリネズミのように吸殻を生やした灰皿がある。
 寝乱れたままの万年床、競馬新聞、ビジネス書の類は床中に散乱して、足の踏み場も無い。綺麗好きな嵐にとっては、万物創生以前とも言える秩序無き空間であった。

 嵐が二階に上がってから僅か十分、もう数年光彦がその存在すら忘れていた『畳』が見えるほどに部屋は片付いていた。てきぱきと雑誌を種類別に積み上げていく嵐は、掃除に没頭するあまり、当初の目的をすっかり忘れてしまっているようである。
「……バイトに来たんだろ」
「あ、そうか」
 ハタと我に返り、立ち上がった嵐のエプロン姿をまじまじと見て、
「お前を嫁に欲しくなってきた」
 と、光彦。
「光彦が言うと、シャレにならない」
「半分マジだ」
「殴るぞ」
 そんな微笑ましい会話を交わしながら、二人は階段を下りていった。

 オーダーの取り方、生樽サーバーの扱い方、皿の上げ下げのタイミング、おしぼりや箸の位置等々、光彦からレクチャーを受けているうちに、あっという間に一時間が過ぎた。
 いよいよ暖簾を掲げる時間になって、光彦が最後に接客の心得を教えてやると、テーブルを拭いていた嵐を手招いた。
「いいか、嵐。お客様は神様だ。どんな無茶を言われても、こうだぞ」
 まるで王族との謁見に臨む中世の騎士のように畏まって、光彦はタイル張りの床に片膝を突いた。そして、口角を強引に引き上げ、これ以上無い、むしろ気持ち悪いほどの笑顔で。

「はい喜んでぇッ!」

「……うそだ……って言ってくれ……」
 愕然と固まる嵐に、光彦は、本当だ、と大仰に頷いてみせた。
 笑顔の安売りは、ヘヴィメタ五箇条に反する。安売りどころか、これでは笑顔の押し売りだ。
「そんなことしなくていい」
 カウンターの向こうから陽平が出した助け船に、光彦が舌打ちする。店主からして滅多に口を開かない、無愛想が売りとも言える『よっちゃん』に、○木屋まがいの挨拶など必要ないのだ。
 悪ふざけだと気付いた嵐は、光彦を怨めしげに睨み付けた。
「ま、気楽にな。俺も厨房にいるから、分かんないことあったらすぐ訊けよ」
 苦笑いで逃げる光彦に、陽平が声を掛けた。
「ミツ。悪ぃけどこの船盛り、青木さん家に届けてくれ」
 へーい、と面倒くさそうに返事をして、光彦はカウンターに置かれた風呂敷包みと、壁に立てかけてあった縄暖簾を手に、表口から出て行った。

 曇りガラスの引き戸越しに、光彦が暖簾を掲げたのが分かった。
 『よっちゃん』開店――。
 この後起こる悲劇など知る由も無く、嵐は必死で、光彦から受けた説明の数々を頭の中で反芻していた。
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