MICRO-WAVE

 このアパートに案内された時、不動産屋の冗談かと割と本気で考えた。古びた――というよりは、朽ちる一歩手前といった廃屋風情のアパートは、色とりどりのトタン板で補修してあるせいで、外壁がパッチワークになっていた。
 ろくに部屋も見ずに「契約します」と即答したとき、目を真ん丸にした不動産屋の顔を思い出すと、いまでも少し笑える。彼にしてみれば「ほら、あなたの予算だとこんなにひどい部屋になっちゃうんですよ」と言いたかったのだろうに。
 一目惚れだったんだ。家賃、管理費込で月三万円が俺のせいぜいだったから、空調など端から期待していない。暑さも寒さも覚悟の上、ゴキブリが出ようがネズミがでようがかまわない。
  絶妙な配色でツギハギになったトタンの壁は可愛らしくて、窓という窓から突き出した洗濯物は万国旗のようで、すでに遺物化しているネギ坊主型の煙突はアラブの宮殿さながらで。なにからなにまでオンボロなそのアパートは、少し角度を変えて見てみれば、おとぎの国のお菓子でできた家のようだった。とにかく、全てが「絵」になっていたのだ。テーマパークのような見た目に反して、部屋の中は砂壁に畳の、純和風なのだけれども。

 俺の帰りを今日一日待ちわびていただろう“彼”にもうすぐ会えると思えば、足は棒のようでも歩くのは苦にならない。さび止めのペンキがパリパリと剥がれ落ちる鉄階段を、踏み抜いてしまわないように一歩一歩確かめながら昇る。この心地よい音を聞くと、今日一日の幕は降りたのだと、なんとはなしにしみじみとした気分になる。もうすぐ、一時半。ずっと折り曲げていた腰がつらい。夕方六時から十一半時まで皿洗いに明け暮れて、それから十二時過ぎまで厨房の掃除。大学に近くて、アパートに近くて、ちょっとキツいけど時給はそれなり。黙々と手を動かしていればいいだけの単純明快なルーチンワークを、俺は甚く気に入っていた。アパートの見た目がこのありさまなので、いつしか鍵をかける習慣はなくなってしまった。盗まれても取り立てて困るほどのものはないし、なにしろこのツギハギアパートに空き巣に入ろうだなんて、余程お金に不自由している泥棒だから、数少ない金目のものでもどうぞ持っていってください、とも思えてしまう。ささくれ立った合板のドアをこじ開けると、不機嫌そうに口をヘの字に曲げた“彼”――レンが俺を待っていた。

「……遅かったな。またラスト変わってあげた?」
 がっかりな出迎え。
「うん、早く帰らなきゃいけない娘がいて。とても大切な約束があるんだって」
 何回目?と、なおも問い詰められて、さあ数えてないよ、とはぐらかす。長いこと待ちぼうけをくらったのに腹を立てているのか、それともバイト先で上手いこと立ち回れないドン臭い俺を責めているのか――たぶん前者だ。俺のレンは俺の思考と同期しているから、俺がそうだと思えばそうなのだ。
 俺は、待たせてごめんね、と両手を合わせてレンの機嫌を取った。
「何か暖かいものが飲みたいなあ」 と、これでもかと眉尻を下げて上目遣いでレンを見る。これは、レンの口を噤ませる魔法の呪文だ。むっとして眼を据わらせたレンを見て、俺は満足する。 小さなシンクの傍らにぽつんと置かれたマグカップに、冷蔵庫から取り出した紙パックから牛乳を注ぐ。賞味期限は大丈夫だっけ?――ふと不安になってレンを見ると苦笑いが返ってきて、まあいいか、とカップをレンに渡した。 優しいレンは、バイトで疲れて帰ってきた俺のために牛乳を温めてくれる。重苦しい振動音の始まりとともに、オレンジ色のやんわりとした明かりが寒々しい六畳の部屋のほんの一部分に温度を燈す。一分間、俺はトレーの上で回るカップを頬杖で眺める。一日のうちで一番幸せな時間だ。今日みたいに疲れている日はとくに、レンは優しい眼で俺を見る。
「ほらよ、熱いから気をつけろ。腹は減ってないのか?」
 言い方はぶっきらぼうでも、気遣いを忘れないところがレンらしい。カップを受け取ると、いつもそうしているように、俺はレンと向かい合わせでローテーブルにつく。
「うん。賄い食べてきたから」
 賄い、といっても茶漬けを流し込んて来ただけだけど、実際、腹は減っていない。俺は、ホットミルクに角砂糖をひとつ落とし、時間をかけてスプーンでかき混ぜる。なにかを待つように期待を込めた眼差しを向けるレンを、焦らすのが楽しい。堪りかねた様子で、レンが口を開いた。
「聞いてやるから、早く話せよ」
 レンはいきなり主菜から手をつけるタイプなのかな。でも、俺は違う。
「……聞きたい?」
 訊き返すと、レンは拗ねたように一度はそっぽを向くが、結局、うん、と肯く。
「ついに、久賀と誰かさんがどうにかなった?」
 レンが先を急かすが、俺は勿体をつけてミルクから立ち上る湯気を息を細くしてレンのほうへ追いやった。
 久賀――とは、俺と同じ居酒屋で働くアルバイター。ついでに、同じ大学。そして俺にとっての、ただいま現在のスーパーヒーローだ。そう、“スーパーヒーロー”と言い切ってしまえるほどに、久賀はバイト先が同じというだけで、バイト“仲間”ですらなく、大学が同じというだけで俺の学年すら彼は知らないし、そもそもまともな会話ひとつ交わしたこともないから、俺の存在に気付いているかどうかすら疑問だ。久賀は、ただ俺の観ている“現実”という名の巨大なスクリーンの中心で、今一番の輝きを放っている、そういう途轍もなく遠い存在だ。スクリーンの向こう側で嫣然と微笑むハリウッド女優に本気で恋をする馬鹿はそうはいない。遠ければ遠いほど、非現実であればあるほど、俺にとって“久賀”は夢を見させてくれる、理想の『出演者』だった。

 まずは、教授の手伝いとやらでバイトに少し遅れてきた久賀の登場シーンから。今日の私服は、裾上げになど縁がなさそうな長い脚に色褪せたデニム、Tシャツの上に無地のパーカーを羽織っただけの飾り気の無さだけど、それが嫌味なほど決まっていた。白シャツとギャルソンエプロンに着替えた久賀は、店内に所狭しと並べられたテーブルの隙間を華麗なステップでラウンドしながら、次々とオーダー伺い&配膳&バッシング。皿洗いだけでキャパオーバーの俺には、もう神業としか言いようがない。厨房に響き渡るオーダーを伝える声はよく通るテノール、性質の悪い酔客に向ける笑顔ですら呆れるほどのさわやかさで。その笑顔は、客だけでなく厨房へも分け隔てなく向けられるから、スタッフの評判もすこぶる良い。おまけに、本物の芸能人のように、頭のてっぺんからつま先まで、ケチの付け所の無い出来の良さだ。和風ダイニングとは名ばかりで、立地が良くて手ごろな値段というだけでさして雰囲気も良くない居酒屋に若い女性客が増えたのは単に彼のお陰だと、これはもう店長の口癖だけど、今日も二回は言ってたかな。
「……もうそのヘンの話は聞き飽きたんだけど?」
 レンにしてみれば耳にタコな話の数々だろうが、“今日の久賀”のあれこれは、いつものイントロダクション。
「そうだね、今日は北原さんの話だった」
 ようやくか、とレンが身を乗り出す。俺もつられて上半身をレンへと倒した。

 北原梨央奈は今時珍しく黒髪の似合う色白で細身の美少女――といっても立派に二十一歳の女性なのだけれど少女と形容するのが相応しい容姿――で、半年前に俺のバイト先に女子会とやらで訪れた。フロア担当から店長までが浮足立つほどの可愛さで、厨房担当もオープンキッチンなのをいいことに彼女ばかりをグラスハンガーの隙間から盗み見ていたっけ。そんな大騒ぎの中でも久賀はまったく普段通りで、そんなところも久賀らしい、と妙に感心したのをよく覚えている。
 北原梨央奈は、久賀に恋をした。次の日から彼女は、毎日のように店に通い詰めた。カウンター席のディシャップ(出来上がった料理を出す場所)近くが彼女の定位置で、久賀が通り過ぎるたびに会話の切っ掛けを掴もうとそわそわしていた。そんなにお酒は強くないのだろう、赤ワインをちびちびと舐めているだけで、胸元までほんのりピンク色に染めている彼女はすごく色っぽくって、仕事が手につかない輩が続出。メアドやらLINEのIDやら書かれた内緒のメモを毎日のように押しつけられる久賀にしてみればなんてことはないのか、久賀は彼女を特別扱いするようなことはしなかった。特別に扱わなかったというだけで、彼女にも他のお客さま同様の笑顔を向けていたから、冷たくしたりしたわけじゃないんだ。だから彼女には希望があったんだろうな。ある日、彼女はバイトの面接にやってきた。舞い上がった店長は一も二もなく採用、その日から、俺のスクリーンのオープニングクレジットには、主演・久賀、ヒロイン・北原李緒奈の名が刻まれるようになった。フルネームで表記したいところだけれど、シフト連絡用のLINEグループに苗字しか登録されてなかったから、残念ながら久賀の下の名前は知らないんだ。
 彼女はお嬢様女子大の学生だったから、バイトなんてしたことなかったんだろうな。でもいつでも明るいし、慣れない接客にも一生懸命で、久賀の前ではぽっと頬を染めてしどろもどろになる様がいじらしくってさ。こんな可愛い娘に想いを寄せられるなんて、やっかまれそうなものだけど、そこは主演・久賀。スタッフ全員で、彼女の恋の行方を温かい目で見守っていた。

 長い前振りに辟易としたレンが、眠たそうな目ですっかり冷めきったミルクの表面を眺めている。
「……それ、温めなおしてやろうか?」
 大丈夫、と答える代わりに一口ミルクを啜った。
「そう、ついに今日……バックヤードで告白劇があったみたいなんだ」
「みたい……? なんだ、その場にいなかったのかよ」
「うん、俺ラストだったし、トイレ掃除してたから」
「てか、なんでわざわざバックヤード? フツー告白って、呼び出して二人っきりとかじゃないの?」
「みんな北原さんを応援してたから、心強かったんじゃないかな」
 そんなもんかね、とレンは首を傾げて難しい顔をしていたが、
「で、結果は?」と、瞳を閃かせた。
 うーん、と呻った俺を見て、レンは全て納得したようだった。
 新しいダスターを取りに厨房に戻った俺の眼の前を、泣き顔で走り去ったのは北原梨央奈に間違い無かった。彼女を引き留めるバイト仲間の喚声の中に、久賀に追いかけるように促す声も交じっていた。それからしばらくして、見たこともないような厳しい顔をした久賀が一人で、続いてバイトの面々が久賀への不満と擁護を口々に裏口のドアを抜けていった。俺が帰るときには、黙々とレジ締めをしていた店長の大きなため息が、シンとした店内に響いた。
「……そりゃ、残念だったな」
「うん……。北原さん、バイト辞めちゃうんだろうなぁ……」
 クレジットから、“北原梨央奈”の一行が消えるのは心の底から残念に思う。俺の観客人生のなかでも、これほどまでに理想のヒーローとヒロインが揃うことはまずなかった。
「久賀はなんて言って断ったんだろうな?」
「好きな人がいるんだってさ。北原さんより魅力的な女性なんて、俺、ちょっと想像つかないなぁ……」
「もしかして、リオナちゃんのこと好きだった?」
「そりゃあ、憧れるよ。あんな娘、そうはいないと思うし」
「違う、恋してたのかってこと」
 恋? と、おうむ返してから、思わず声を上げて笑ってしまった。レンの口から“恋”なんて言葉が飛び出したことが、妙に可笑しかったからだ。眉間にあからさまな不機嫌さを刻んだレンが、こちらを睨んでいるが、俺の笑い声はなかなか収まらない。
「……なにがそんなに可笑しい?」
「だって……レンが“恋”だなんて、可笑しいよ」
「遅咲きな同居人の心配してんの、俺は」
 本格的に不貞腐れ始めたレンを宥めるために、苦心して頬の筋肉を引き締める。大層な真面目顔を作って、レンを見据えた。
「俺の恋人は、眼の前にいるじゃないか」
「……なに言ってんだか」
「そうか、レンは“男”だから、恋人じゃないよね。じゃあ、親友? 弟……それとも兄貴かな? そもそもなんで、レンは“男”なんだろう?」
「俺がききたいよ」
 俺の問い掛けを、冷めた横顔でことごとく弾きかえして、レンはそう呟き捨てた。
 生活用品のなにもかもに少し手を伸ばせば届く、シミだらけの砂壁に囲まれた六畳一間の真ん中にどっかり置かれたローテーブルの、その真ん中に鎮座する古びた電子レンジ。
 俺の分身で、家族で、親友でもある同居人の名前は、レン。
 彼をどの方向から眺めてみても、ただの電子レンジにしか見えないのは、俺の頭がまだ正常に機能していることの証だ。
 
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