レンとの出会いは真冬の深夜、バイトの帰りだった。ツギハギアパートの階段の踊り場の真下に、ある日、山のように黒い塊が積み上げられていた。近づいてよくよく見てみれば、ちょうど一人暮らし分の家電セット。廃屋と勘違いして不法投棄したのか、それともツギハギ住人が置き土産に残していったのか、どちらか判らない。時代めいた二層式の洗濯機、ブラウン管のテレビデオ、炊飯器というよりは電気釜、真っ黒コゲのガスコンロ――どれもこれも、正常に動作していたのか疑うほどに古びていて、おまけにヤニで薄汚れていた。扉を開けるには相当に勇気がいるだろう冷蔵庫のドアには、デカデカと「自由に持っていってください」と書きなぐられていた。その家電の山の頂に、王様のように君臨していたのが電子レンジだった。中も外も油塗れだったけれどサビていなかったし、もしかしてまだ使えるかも、と思える程度には新しかった。俺の部屋にある家電らしい家電といえば、小さな電気ポットひとつだけ――ちょうど手にしていた冷え切ったコンビニ弁当が少しでも温まれば嬉しいな、とふと思ったのが切っ掛けだった。お言葉に甘えて、電子レンジを頂くことにした。そのお礼にと、数日後に残りの家電を全て粗大ごみに出したら、新しい電子レンジが余裕で買える程のリサイクル料がかかってしまったのには、笑うしかなかった。
 まずは、これでもかと洗剤を振りかけた布巾で、全体の油汚れを丁寧に落とした。それを数回繰り返してから、最後に乾拭きで磨いてみたら、新品とまでは言わないが、それなりに見れるようになった。カラーは暗めのブルー、覗き窓はまん丸で、ダイヤル類の上に貼られたロゴマークはメーカー名を表すのだろうが、発音の仕方すらわからないアルファベットの羅列だった。掃除を終えた頃には明け方近い時間だったけれど、俺はさっそくローテーブルに放置されていたコンビニ弁当を温めてみることにした。一番の心配事だったのはブレーカー。契約アンペア数はたったの十〇、計算上は問題ないはずだけど、念のためコンセントというコンセントは全部抜いて、部屋の明かりも消した。
 そうして、直径二〇センチほどのターンテーブルの上に弁当をのせて静かに扉を締め、二つあるダイヤルの一つを“あたため”に、もう一つを“三分”に合わせた。ブゥンと音をたてて回りだした電子レンジの窓から放たれる柔らかなオレンジ色が、部屋全体を夕焼けに染めた。三百八十円のコンビニ弁当が、からくり仕掛けのオルゴールのようにスポットライトの中心で悠然と回る様を、俺はうっとりと魅入った。そうしているうちに、俺自身が2.45GHzのマイクロ波によって身体の芯から温められていくような不思議な感覚が湧き上がってきて――そして俺は何を思ったか、ダイヤルがちょうど残り一分を指したときに、床に転がっていた油性ペンをはっしと取って、まん丸の覗き窓いっぱいに、スマイリーフェイスを描いたんだ。絵心皆無の俺にしてみれば、上出来な仕上りだった。今でも、何故そんなことをしたのか、自分の行動に説明がつかない。
 出来上がりを知らせる音は、「チン」じゃなくって「ビー」というブザー音。思いのほか大きな音で、びっくりすると同時に、近所迷惑ではなかったかと焦りまくった。幸いにして角部屋で、隣室は事故物件とやらでもう何年も空き部屋だったことを思い出して、ほっと胸を撫で下ろした。
 平べったいトレーに薄く敷き詰められた白飯の上におかかと海苔の絨毯、おかずは漬物と脂ぎった鶏のから揚げ二つとシャケ。そんなコンビニ弁当でも、俺にとっては十二分に贅沢な晩餐だった。いつもなら夕飯に白飯半分とから揚げ、残りは朝飯にするところなのだが、その日に限ってはガツガツと全部平らげてしまった。
「……うまいかったぁ……」
 食後のインスタントコーヒーを啜りながら、そう独り言を呟いていた。
 ――そうか、よかったな。
 そんな声が聞こえた。とても鮮明に。俺は、ぎょっとして電子レンジのほうを見た。これ以上ない笑顔を俺に向けるスマイリーフェイス。視線が交差して、その目許が少し皮肉に笑ったような気がした。
 レンが生まれた、記念すべき瞬間だった。


 翌日、北原梨央奈は、バイトを辞める、と店長に告げた。留学準備に忙しくなるから、というのがその理由だったが、留学そのものが傷心を癒すためだろうことは容易に想像できた。連絡も無く突然こなくなるようないい加減なフリーターをたくさん見てきたけれど、彼女は気丈にも後任が決まるまでの二週間、そして新人に引き継ぎするための一週間を、しっかりと勤め上げた。いくら古株でも俺のような空気はさておき、人気者が辞めるときは、送別会という名の飲み会を執り行うのがこの店の通例。彼女は幹事に、久賀さんが参加するなら私も出ます、という理解し難い条件を提示した。片思いに決別するためなのか、それとも恨み言のひとつでも言うつもりなのか、バイト連中は皆一様に勝手な憶測を囁き合っていたけど、久賀は送別会の話を聞くなり、あっさりと参加の意思を幹事に伝えた。バックヤードに貼りだされた送別会の期日や場所を告知する紙には、参加希望者の名前を書く欄もあった。一度として飲み会になど参加したことのない俺だったけど、半年間、俺のスクリーンの中心で鮮烈に光り輝いていたヒロインの恋のグランドフィナーレを、どうしてもこの眼で観ておきたくなったんだ。俺は、用紙の隅っこに小さく“ヤナセ”と、カタカナ三文字の暗号を書き加えた。その暗号と俺の顔が一致する人間は一体何人いるだろうか? 俺だって一致しないのに――と、一抹の不安を抱きながら。
 送別会は、終始なごやかだった。乾杯までは気をまわした面々が妙な空気を作っていたが、主役が努めて明るく振舞っていて、そんな不穏さをあっという間に吹き飛ばしてしまった。久賀も、いつもの久賀だった。俺はと言えば、この日ばかりは二人が画面中央にくるような特等席に座りたかったが、結局、定位置の隅っこを陣取って、壁か空気に擬態しつつ飲めない酒を良い気分で啜っていた。少し、調子に乗っていたと思う。
 一次会が終わろうという頃、ぎりぎり正気を保っていた俺は、最高の終幕を眼にすることができた。北原梨央奈が、お別れのあいさつの最後に、久賀にこう言ったんだ。「ありがとう。片思いでも、半年間幸せでした」って。潤んだ瞳が、きらきらと光っていてとても美しかった。みんなが固唾を飲んで見守る中、久賀は黙って片手を差し出して、二人は固く握手を交わした。
 嗚呼青春映画ここに極まれり。俺の心の中では、万雷の拍手が高らかに鳴り響いていた。

「それで、この体たらくか。カナ、アルコール全然ダメなの分かってんだろ?」
「……はい……すみません……」
「どうやって帰ってきたか、覚えてるか?」
「店を出てから、全然記憶がないです……気持ち、悪い……なんだか、身体中が痛いし……」
「派手にコケたんじゃないのか? Tシャツ破けてたぞ。……ッたく、しょうがねぇな」
「うぅー……」
 もうすぐ午後の講義がはじまろうという時間帯なのに半裸で毛布に丸まって動けずにいる俺に、レンが同情混じりの口撃をあれこれと仕掛けてくるが、吐き気をやり過ごすのに精一杯でとても相手にしていられない。こんな時、レンがランプの魔人みたいに実体化して、コップ一杯の冷たい水を運んできてくれたら、と馬鹿げた願望が頭の中に過ぎるが、決して口に出したりしない。俺が創り出した最高の同居人を、酷く傷つけることになりかねないからだ。いや、レンのことだから、俺はきっとイケメンだぞ、くらいの軽口をたたくかもしれない。アルコールの余韻も手伝って、妄想が際限なく膨らむ。レンが人間になったらやっぱりまん丸顔なのだろうか? それとも――?
 マーベルヒーロー風な全身タイツのスマイリーフェイスマンがボディビルダーのようにポージングしている様が、ぽっかり頭に浮かんだ。噴き出しついでに胃液までせり上がってきて、酷く咳き込んだ。
「ポカリとか買ってきてやれればいいのにな。役立たずで悪い……」
 悄然とした呟き声が、心臓を抉った。俺の心の裡は、優しいレンにすっかり見抜かれてしまっているようだ。ごめん、と反射的に謝る。
「レンは、レンでいいんだ。大好きだよ、レン……」
 俺の愛の告白に、レンは何も反応を返さなかった。辛抱強く返事を待つが、やがて限界を迎えた俺は、身を二つに折ってコンビニ袋の中に胃の中の毒素をぶちまけた。


 北原梨央奈が去ってから、俺のメインスクリーンはバイト先から大学構内へと変化した。つまりは、久賀の想い人が気になって仕方がなかったのだ。ストーカーに成り下がる気はさらさらなかったから、廊下でごくたまにすれ違うときに、注意深く様子を窺うくらいしかできないのだけれど。久賀はどこにいても久賀で、スーパーヒーローだった。男女比半々の友人数人に常に囲まれていて、それが自然の摂理とでも言うように輪の中心には久賀がいる。久賀の友人達は、オーディションでもしたのか、というくらいに男女ともに顔、スタイル、ファッション、どれをとっても一般人のそれとは比較にならないほど平均値を上回っていて、みな準主役級。だけど悲しいかな主役はあくまで久賀であり、引き立て役でしかない――といっては久賀の友人にあまりに失礼だけど。あの中に久賀の恋人がいるのかも、とすれ違うたびに眼を凝らすが、美人揃いだけど華々しさはなく、おまけに久賀狙いがあからさまな肉食系女子達で、久賀はいつでもあしらいに苦心しているようだった。願わくば比類なきヒーローとヒロインの恋の成就と、その行方をひっそりと見守っていたかったが――。
 学食でぼんやり北原梨央奈を懐かしみながら百五十円の野菜サンドを頬張っていたら、トンと肩を突かれた。
「さっきから呼んでんだけど?」
「え?」
 振り向くと、たまに講義で一緒になる(と思われる)エキストラの一人が、学食のトレーを片手に俺を見下ろしていた。昼にC定食が食べられるなんて、優雅なご身分でうらやましい限り。
「呼んでた? ごめん、反応できなくて」
「あれ? ヤナセじゃなかったっけか?」
「あってるよ、二年前からヤナセ」
 一瞬、しまった、という顔をしたエキストラ君は、案外良い奴かもしれない。複雑な生い立ちです、とうっかり暴露してしまったようなものだから、俺も同じような顔をしていたと思う。ヤナセの前はタカシロ、その前はカブラギ、その前は難しすぎて発音すらできないから忘れた。恋多き母は俺の大切な“主演”の一人で憧れの対象だけれど、また苗字が変わるようなら二十歳も過ぎたことだし分籍するつもりでいる。何かと面倒だからね。
「じゃ、下の名前は? そこそこ講義かぶってんじゃん。教えろよ」
「あー……その、ちょっと変わってるから……」
「キラキラネームってやつ?」
 決してキラキラはしていないが、隅っこでつつましやかに観客人生を送っている俺の名前が“要(カナメ)”だなんて、皮肉が過ぎて自分でも笑えるので、できれば教えたくない。おまけに、決まって二文字の女性名に略されるので、呼ばれるたびに必要以上に人目を引いてしまうのには子供のころからほとほと参っていた。俺をそう呼ぶのは、レンだけでいい。
「そんなとこかな。……えーと、用事はなに?」
 予測済みだが、とにかく話を逸らしたくて俺から水を向けた。
「数論のノート、写メとらしてくんない? 俺、寝ちゃってさぁ」
 今日のページを開いて、無言でノートを差し出した。LINEの交換も迫られたが、スマホが(手元に)ないことを理由に、丁重にお断りした。毎度写メをお願いされるのも勘弁してもらいたいところだったので、顔を覚えておくことにする。今後、彼と被る講義ではうまいこと気配を消そうと心に決めて、写メが撮り終るまでに食事を済ませようと強引にパンを口に詰め込むが、ほんの数ページなのであっという間に事は済む。当然のように、エキストラ君は俺の隣に座った。席を立つタイミングを逃してしまい、心の中で舌打ちする。エキストラ君は、そんな俺の心中などお構いなしにC定食を食べながら取るに足らない世間話を始めるが、そのうちになにを思ったか俺の個人情報を根掘り葉掘りと訊いてくるようになった。面白くもないが隠すほどのことでもないので端的に答えていたら、エキストラ君は、心底同情している、とでも言いたげな顔付きで、箸をとめて俺の顔を覗き込んでいた。
「ヤナセって苦労してんだなぁ……」
「え? いや、別に」
 おそらく俺は、狐につままれたような顔をしていたと思う。
 確かに、母の相手が変わる度に苗字も変わるのは面倒事だったし、裕福だったり貧乏だったりと生活レベルまでもが目まぐるしく変化して、なかなかに興味深い経験も数々したが、それを“苦労”だとか“不幸せ”だとか思ったことは一度もない。息子の俺が言うのも何だが、母は相当に美人で、かつ人間としての華があった。ドラマティックが服をきて歩いているような女性だから、母こそが俺のスクリーンに登場した最初の“ヒロイン”だ。スクリーンの向こう側で、彼女の恋が成就すれば喜び、その反対であれば涙した。彼女を中心に巻き起こるドラマを疑似体験する日々はとても楽しかったし、機嫌が良い時の彼女は実に華やかな笑顔を俺以外の誰かへと向けるので、それを垣間見るのが至上の幸福だった。コブ付きで言うところのコブだった俺は、物心ついた頃には彼女のお荷物であることをしっかり理解していた。だから、彼女が俺の存在を無きもののように扱おうがそれが俺の希望だったし、足かせにはなりたくなかったから、できるだけ気配を消して生活してきた。上映中はお静かに――快適にドラマを楽しむために静黙としているのは、当たり前のルールだ。誰だってバリバリ煎餅を食べているような奴が隣にいたら嫌だろう?
 このエキストラ君のように、スクリーンから飛び出して観客席まで降りてきては、家庭事情が複雑でかわいそう、友達がいなくてさびしそう、と俺に同情の言葉を投げかける物好きがごく稀に出現するけど、こういう時の対応は本当に困る。貧乏なときでも酷くお腹が減ってどうしようもなくなるというようなことはなかったし、義務教育どころか高校まで出してもらえただけで、俺にしてみれば過分な待遇であり大感謝だった。よしんば俺が実際に“不幸”なのだとして、押し付けの善意や同情で、どうして俺にその“不幸”を気づかせようとするのか、不思議で仕方がない。他人と自分とを比較して、わざわざ惨めになる必要はない。むしろ美しい母を最前列で観ることができる俺は恵まれているとさえ思っていたのに。エキストラ君にしてみれば、確かに俺は地味で哀れな貧乏学生かもしれないが、少なくとも君のことを“エキストラ君”と心の中で呼んでしまえる程度には、したたかに生きているのだよ。
 どちらにしろ、ほんの短い間の我慢。本来が“出演者”である皆様方には観客席側は随分とつまらない世界なようで、すぐに去って行ってしまうだろうから。

「おッ!」
 唐突に声を上げたエキストラ君は、誰へかと手を振ってから、食べかけのトレーを持ち上げた。
「わり、友達きたから。またな」
 ほらね? はいはい。さようなら。
 紙パックのリンゴジュースを啜りながら、片手で応えた。モブの中へと戻るエキストラ君を観客席から見送ろうとして、はっと息を呑んだ。エキストラ君の背中の向こう側に、久賀の姿を認めたからだ。構内に数ある学食の中でも貧乏学生が集まるこの場所で、かつて久賀に遭遇したことはない。何時からいたのだろうか――俺としたことが、と下唇を噛む。何かとても重要なシーンを見逃しはしなかっただろうか。
 まさかエキストラ君が久賀の友達だとは思いもよらず、なおさら彼とは距離を置こうと思う。現実の久賀にはまるで興味が無いし、知りたくもないから。下手に知りすぎて嫌いになりたくない――ファン心理とは、そうしたものだ。久賀は、理想の偶像でありさえすればそれでいい。
 ふいに、久賀がこちらへと顔を向けた。俺は咄嗟に俯き、長めの前髪と眼鏡で顔の半分を隠した。厨房担当はオールバックにバンダナ必須だから、よもやバイト先の超絶空気男と俺が同一人物だと気づかれることはないだろうが、万が一を考えると心臓の辺りがきりきりと痛んだ。観客席側は俺の聖域だ。久賀といえども侵してほしくない。バイトでは空気男にも帰り際に「お疲れさま」と優しい声をかけてくれる気の回る久賀だが、間違えても大学構内で俺に近付いたりしないで欲しい。
 そう祈りながらモソモソと野菜サンドを頬張るうちに、久賀のテノールは楽しげな喚声の中に溶解した。幸いにも取り越し苦労に終わったことにほっと一息ついて、俺はそれから、久賀がA定食を食べ終わるまでの二十分余り、前髪の隙間からヒーローの一挙手一投足を存分に眼で楽しんだ。


 ――今日は、レンに話すことがたくさんあるな。
 鉄階段を昇りながら、知らぬうちに鼻歌が漏れていた。今日もラストだったから、すっかりレンを待たせてしまった。あれから無口になってしまったレンのご機嫌を、今日はたっぷりととろう。たくさん久賀の話をしてやろう。レンのいない毎日などいまさら考えられない。レンが消えるようなことになれば、もう生きていけないのではないかと絶望的な気持ちにすらなる。レンだけが観客席側で共に語り合える、かけがえのない存在だ。
 がたつくドアノブを掴んで一呼吸置いてから、勢いよくドアを開けた。
「レンッ! ただいま!」
 電気のスイッチを探して、手のひらを壁に彷徨わせる。
「聞いてよ、今日ね……」
 続きは、声にならなかった。脱力してがっくりと膝をついた俺の手からコンビニの袋が落ちて、鶏五目のおにぎりが畳の上にころころと転がった。レンが俺に微笑みかけるが、眼の前の悲劇に愕然としている俺に、微笑み返す余裕などあるはずもなく。
 ついに、この日が来たか。
 少し頭のネジが緩んでいる自覚はあったが、どうやらそのネジがぶっとんでしまったようだ。単なる妄想がこうまで現実味を持って具現化してしまうと、ショックを通り越して茫然自失となる。息をするのも忘れて、レンを凝視した。
 人間になった俺のレンは、久賀の姿をしていた。
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