一色 皆人(イッシキ ミナト)は、コンビニで立ち読みをしている途中、ふと顔を上げた矢先に見覚えのある後姿を窓の外に見つけ、思わず目を見開いた。そして、次に困惑した。
 帰宅途中であろうクラスメイト、市橋 青(イチハシ セイ)が、コンビニから道一つ挟んだ向かいにある煙草の自動販売機の前で、放心したように立ち尽くしていたからだ。
(市橋だ……。アイツ、制服のままあんなところで何やってるんだ?)
 市橋青は、学校中に名の知れた生徒だった。サスペンス系のテレビドラマでそこそこに活躍してる有名女優の私生児、というだけでも話題性は充分だというのに、その上、”異常”といえるほどの潔癖症で、応援団のような白い手袋をトレードマークとしていた。
 昼休みともなれば、わざわざ校庭の水場まで行き、執拗に両掌を擦り合わせて手を洗う。冬場、冷水に晒した手の甲が真赤に染まっても、無表情にひたすら洗い続ける様は、居合わせた生徒から気味悪がられるほどだった。
 常に俯き加減に、誰とも目を合わせず、青は頑ななまでに他人との接触を避ける。
 当然、クラスメイトとの雑談などを楽しむ筈も無く、同じクラスになってからほぼ一年が経過するというのに、皆人は、青が教師以外の誰かと会話しているところを見たことが無かった。
 青の席は、いつの間にか定位置となった廊下側の最後列、しかも、あからさまに前列から机一つ分距離を置いた場所だった。
 高校も二年になるというのに、青の神経質そうな細い顎と華奢な肩の線は、中学生と見紛うほど幼かった。色白で整った面立ちをしているが、表情の変化は皆無に等しく、今時流行らない銀縁の眼鏡は、いかにも優等生然としていた。実際、大学進学する生徒が半数に満たない中堅高校にいて、全国模試で一位を取った、という経歴の持ち主だった。
 そんな市橋青と、煙草の自動販売機――。
 皆人にとっては、余りにも不釣合いな取り合わせに見えたのだ。

 皆人は、学年末考査前の張詰めた教室内の空気に辟易とし、二時間目を終えたところでサボリを決め、用意してあった私服に着替えて街をうろついていた。何事にもいい加減な性格が災いし、札付きというほどではないが、不良の部類に入る生徒で、今日のような突発的なサボリも日常茶飯事だった。
 丁度、血流中のニコチンが切れかけ、煙草を買いたいと思っていたところだった。自販機のすぐ傍らにある酒屋の小窓を叩けば店員から買えるのだが、いくら私服とはいえ高校生、皆人はさすがに躊躇した。青が立ち去るのを待とうと、コンビニの窓から様子を窺っていたが――優に五分が経過しても動く気配すらなく、自販機の表一面に陳列されたパッケージを、青はただ眺めていた。
 皆人は、業を煮やしてコンビニを出た。
「あのさ。早くしてくんないかな。俺も、タバコ買いたいンだけど」
「……え?」
 青は、一歩後退り皆人に場所を譲ると、すみません、と小さく謝った。その声は、酷くしわがれていた。
 青の声など殆ど聞いたことが無い皆人は、こんな擦れ声の持ち主だったか、それとも遅い変声期かなどとぼんやりと考えながら、小銭を投入口に差し入れた。
「誰かの使い?銘柄、忘れたとか?」
 何気無しを装い声をかけたが、相手は市橋青、皆人は、返事など更々期待していなかった。
「僕が吸うんです」  問いかけへの答えが返ってきたこと、そして、青自身が喫煙者だという二つの思惑違いに驚き、皆人は弾かれたように振り返った。眼鏡の奥に覗く、伏せられた双眸に向けて目を見張る。
 市橋が煙草を吸う――。
 手は汚れるのは嫌で……ヤニで肺が真っ黒になるのはいいのか?
 カタリ、と軽快な落下音を耳にし、皆人はすぐさま我に返った。釈然としないまま、視線を青の顔から引き剥がすと、身を屈めて自販機の取り出し口を探る。青は、表情も無く傍らで佇んでいたが、瞳だけは皆人の手の動きを追っていた。
「あの」
 身を起こした刹那、不意に背後からしわがれた声で呼びかけられた。
「……何?」
「それ、美味しいんでしょうか?」
「は?」
 青は、皆人がミリタリージャケットのポケットにねじ込もうとしていた、マルボロメンソールを指差した。
「これ? 美味いよ。俺、メンソール好きだから」
「メンソールってなんですか?」
「……お前、いつからタバコ吸ってンの?」
 と尋ねると、青は抑揚のない声で実に端的に答えた。「昨日からです」、と。
 青はマルボロのパッケージに一瞥を投げ、くるりと踵を返すと、自販機のすぐ側にある酒屋の小窓を叩いた。ガラスの引き戸が開き、熟年の女性が顔を出す。
「マールボロのメンソール、三十箱ください」
 店員は一瞬、不審げな眼差しを青へと送ったが、注意を促すわけでもなく、無言で棚から緑色のカートンを三箱取り出した。真面目を絵に描いたような青の様子から、問題無しと判断されたようだ。
 商品をビニール袋に詰める間、青は学生鞄を開き財布を取り出すと、手袋を嵌めたまま札入れを弄り、ようやくと一万円を抜き出した。差し出された店員の手を避けるようにして、青はわざわざ釣銭用の皿に札を置いた。
 呆然と佇む皆人を歯牙にも掛けず、淡々と目的を遂げていく青。皆人は首を傾げた。
 何故、タバコを吸おうと思ったのか?一度に三十箱も買う必要がどこに?
 皆人は、去っていく青の背中へ、無意識のうちに足先を向けていた。
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