一年の時、青を担任していた教師が熱血気味で、その潔癖症を深刻に捉えた彼は、母親を学校へと呼び寄せた。芸能人が来る、という噂はあっという間に広がり、校内は玩具箱を引っ繰り返したような騒ぎとなった。
 『潔癖症じゃなく、少し神経質なだけ、この子は何でも一人で出来るから、放っておいてください』
 そう、母親が言ったとか言わないとか。噂に疎い皆人の耳にすら届くほどの、有名な話だった。口軽い輩からその話を聞かされた時、皆人は激しい苛立ちを覚えた。物心付く前に父親を亡くしているせいか、青の孤独に共鳴しているような錯覚に、皆人は陥っていた。
 皆人は無欲恬淡とした性格で、人間関係に深い繋がりを求めない。クラスメイトの冗談に大笑いしている時でさえ気持ちは冷め切っていて、時には、その内容の下らなさに窃笑していた。
 必要に応じて連みもするが、器用に会話を受け流しながら距離を置き、プライベートには決して立ち入らせなかった。
 しかし、青に対しては特別な”意識”を抱いている自覚が、皆人にはあった。
 イチハシ セイ、イッシキ ミナト。
 二人の出席番号は隣り合っていた。
 皆人は、互いの名を続けて読めば『青一色』になると気付いた時、その語感の涼やかさにちょっとした感動を覚えた。だからといってどうということも無く、皆人が青に対して何か行動を起こすことはなかった。誰にも相手にされていないようで、その実、何かと衆目を集める青に、関わりたくないというのが本音だった。
 夏休みが目前に迫った、ある日のことだった。体操着に着替える青の、あばらの浮いた白い脇腹を垣間見たその日の夜――皆人は、青で夢精した。
 そっちの気があったのか、と数日考え込んだが、答えはなおざりにされたままだ。
 その一件を契機に、皆人は青を見ないようにしてきた。しかし、意識して顔を叛けてきたせいで、皆人は常に視界の端で青の姿を捉えていた。
 
「なあ」
 ほぼ確信犯的に、皆人は、青の肩に手を掛けた。
 ビクリと肩を揺らした青の全身が異様なほど強張るのが、皆人の指先から伝わってきた。
「マールボロじゃなくって、マルボロ。三十箱も買って、どうすんだ?」
 気軽い調子で言葉を投げかける皆人に、青はゆっくりと向き直った。視線が絡み合った刹那、皆人の心臓が小さく跳ねた。皆人は、青の瞳の色が微かに赤味を帯びた薄茶色であることを知った。
「僕に触らないほうがいいですよ」
「何で?」
「汚れるからです」
 サラサラと流れる艶のある髪、糊の効いた真白なシャツ、プレスされた折り目の美しいズボン、磨きぬかれた皮製のコイン・ローファー。
「汚れるって、俺が? それとも、お前が?」
「さあ?」
 かみ合わない会話でも良かった。”市橋青としゃべっている”事実に、皆人は興奮していた。
「あのさ、コーヒーでも飲まない?」
 意図せず口から飛び出たナンパの常套文句、その軽薄さに自ら呆れ、皆人は舌打ちした。青は黙然と、肩に置かれた手を凝視している。
「市橋、フカしてるだけでタバコの吸ってる気になってない? ちゃんと肺に煙入れてる?」
 初めて、その表情が揺らいだ。青は怪訝そうに、
「なぜ、僕の名前を知ってるんですか?」
 と訊き返してきた。十一ヶ月も教室を共にしてきたというのに、青は皆人の顔を覚えていない様子だった。四六時中、机か教科書を眺めている青にとっては無理も無いことだろう。まして今の皆人は、ワックスで髪を立たせ、私服を着ていた。
「俺、同じクラスの一色。分かんねぇ? 出席番号、市橋の次なンだけど」
「……一色、さん?」
 未だに名前と顔が一致していないような、弱々しい呟きだった。
 こいよ、と皆人が手首を取ると、今度は勢い良く身を捩り、青はその腕を振り払った。過剰なまでの拒絶反応に表情を硬くした皆人を見て、青は視線を地面に落とすと、ごめんなさい、とか細いしゃがれ声で謝った。
 素直な一面を覗かせた青に、気にしていない、とでも言うように皆人は顔を綻ばせた。
「肺に煙を入れないと、効果が無いんですか?」
「そりゃ、煙草に失礼ってモンだ」
 皆人が肩を竦めて見せると、青はしばらく考え込んだ後、
「人込み、嫌いなんです。僕の家でよかったら、コーヒーくらい出しますけど」
 そう云って、再び俯き歩き出した。
 抱きしめたい。
 悄然とした青の背中を見て、頭の片隅に俄かに湧き上がった欲望に、皆人は戸惑った。
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