WHAT'S MICHEL?

 昨日。
 純生は、母を訪ねて幾千里、ウキウキと胸躍らせてフランスへと旅立った。

 塩田邸の庭木に飛来したアブラ蝉が、今が盛りとばかりにポリフォニー・サウンドを激しく奏で立てる、八月初旬の昼下がり。 残された二人は有り余る若さと時間を持て余して、宿題を片付けるでもなく、遊びに出かけるでもなく、嵐の部屋でただゴロゴロと気だるい無聊を慰めていた。
 言葉少なに、常にそこはかとないプレゼンスを呈示しているに過ぎない純生だが――今は遠く異国の地と思うだけでなんとなく活力が出ないのは、決して二人の気のせいではない。

 しかし、嵐はともかく、光彦にとっては有意義な、実に有意義な時間であった。中等部から密かに抱き続けていた、大いなる野望を達成するチャンスだったのである。
 純生は海外、塩田一家は嵐を残して軽井沢に避暑。何故、嵐一人留守番役となったのか。理由は単純、日に焼けたくないからである。

「なぁ、俺らって所謂……親友ってヤツだよなぁ」と、光彦。
「まぁ、これだけ連んでりゃ、世間じゃそう呼ぶだろうな」と、嵐。

 突然、何を言い出すのかと嵐は忌々しげに眉を顰め、さも興味なさそうに答えた。冷房嫌いの光彦のお陰で、(雪国仕様の)嵐の部屋は熱気が立ち込め殆どサウナ状態。その上、光彦はアロハシャツの前を肌蹴させ、半パンを脚の付け根までたくし上げて、隆々たる体躯を此れ見よがしに嵐の目前に晒しているのだ。百八十六センチの巨体は部屋を斜めに両断しており、そのはばかる様が一層暑苦しく、鬱陶しい。

 嵐の素気無い態度を物ともせず、光彦はくるりと身を返し、嵐と向き合い寝釈迦の体勢を取った。四肢を投げ出し寝そべっている嵐の顔をまじまじと見て、光彦は荘重な声で「嵐よ」と呼びかけた。

「マイケルと俺と、どっちが好きだ?」
「はぁ……? 暑さに脳みそやられたのか?」

「マイケルと、俺。どっちが好きかっての」
「マイケル。……レベルが違うよ。俺の神様だぜ?」

 嵐はいささかの逡巡も見せずに、頑然と言い切った。光彦は一瞬、口をへの字に曲げ言葉を詰まらすが、懲りもせずさらに問い続けた。

「マイケルと俺が、同時に崖から落っこちそ……」
「マイケルを先に助ける」

「マイケルのコンサートと俺の誕生……」
「マイケルのコンサート」

「マイケルの顔と俺の顔、どっ……」
「マイケルの顔」

「マイケルの……」
「マイケル」

「マ……」
「マイケル」

 質問を変えるたび、光彦の眉間の皺は深くなり、目付きは険しくなっていった。一方、嵐はひたすら無表情を繕い、光彦の戯言を聞き流していた。
 光彦が、小さな溜息を付いた。嵐は、黙念とした光彦の顔を垣間見て、ようやく解放されたかと思いきや。




「フライングVと俺が崖から……」
「フライングV。……フライングVフライングVフライングVッ!がぁっ」

 光彦の不毛な質問攻勢にいい加減嫌気が指し、ついに嵐の苛立ちは頂点に達した。
「しつっこいぞッ! ナンなんだよ、一体!?」
 弾むように半身を起こし、嵐は光彦に怒声を浴びせた。何故こんな珍妙な禅問答に発展したのか。己が神と崇めるマイケル・ジェンカーに、光彦が対抗意識を抱く理由が皆目分からない。

 光彦は項垂れ、捨てられた子犬風に嵐を見上げ、
「……嵐よ……俺は、ギターにまで負けてんのか?」
 と、哀韻を含む口調でボソボソと呟いた。
「俺は、お袋の腹ン中からマイケル聴いてるんだよッ!」
「そんなに好きか? 愛してんのか?」
「当たり前だッ!」
「……じゃあ聞くが、お前はマイケルをネタにオナニーすんのかよ」
「――え?」

 理解を超絶した突飛な問いに、嵐はしばらく呆然と光彦の目を見ていたが、やがて、その貌は見る見るうちに怒りの形相へと――白い顔がピンク色に変化していく様は、酸性に反応したリトマス試験紙を彷彿とさせた。怒髪冠を衝く、とはまさに今の嵐のことであろう。

「こ、こ、こ……この野郎ッ!」

 沸々と湧き出す憤怒の念に全身を戦慄かせ、嵐は、咽から掠れた一声を絞り出すのがやっとであった。烈火の怒りを湛える嵐の表情をチラと見て、光彦は罪の意識など片鱗も窺わせず、悪戯っ子のような笑みを浮かべると、むくりと起き上がった。
「俺の毎晩のオカズはな……」
 光彦は、固まって彫像のように動けずにいる嵐の細い顎をおもむろに取り、熱っぽい視線で睨み据えると、
「嵐。お前だよ、もうずっと」
 と、厚かましくも言い放った。
 その一言に、嵐の十二種類から成る脳神経群は完全に焼き切れ、ショートした。
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