ぽかんとだらしなく開いた嵐の唇に、光彦がすかさず自身のそれを重ね合わせた。嵐の首に右腕を回し上体を引き寄せると、腰を左腕でがっちりホールド。混乱に乗じて、遠慮会釈もなく舌まで差し入れ、縦横無尽に口腔を侵しはじめる。

 ――えーと。なんだっけ?

 夢か、うつつか、幻か。眼前を覆う光彦のドアップは、今の嵐にとって現実味のない光景であった。光彦の黒褐色の瞳は艶やかに妖しく光り、唇は熱した呼吸をつきながら嵐を貪っていた。
 弾力性に富みしっとりとした光彦の舌先が、嵐の口腔内を悪戯っぽくかき回す。手指は、Tシャツをたくし上げ、強張る筋肉の畝を楽しむように腰元を撫で摩っていた。
 汗ばむ光彦の体から微かに匂いたつ煙草の香りが、嵐の嗅覚をくすぐる。朝方から綿々と続く蝉の鳴き声に混じる湿った音は、朦朧とした意識に心地よく浸透し、嵐は暫し陶然と、光彦の為すがままに思考を委ねていた――が、しかし。

 酸素欠乏、という物理的な苦痛が、断絶したニューロンのネットワークを、少しづつ、緩やかに結合させていく。 霞んでいた視界が明瞭になるにつれ、嵐はようやく、目前の現実を認識することができた。

 光彦にキスされている。それも、極めて濃厚なキスであった。

「……んんんッ!」

 突如、手足を忙しくバタつかせもがく嵐を、光彦は双腕に一層の力を込め抱きしめた。首を振って逃れようにも、舌先は咽るほど奥にまで差し込まれ、どうにも抗いようが無い。脇腹を微妙な強さで掠める光彦の慣れた指運びに促され、背筋を駆け抜けた疼きに嵐は上体を仰け反らせた。嫌悪感というより、これは――。

 嵐は、愕然とした。
 光彦の両肩を満身の力で押し返す、光彦の背中を爪で引っ掻く、光彦のレバーに拳をねじ込む、光彦の……。

 懸命の抗拒も万策尽きて、ぐったりと嵐の四肢が伸びきった頃、光彦はようやく嵐を解放した。



 嵐、十六歳、夏。
 光彦にファースト・キスを強奪さる。

 光彦の剛腕から逃れると、エビのバックステップさながら、嵐は一気に壁際にまで後退った。 唇を奪われた事実に対する動揺と、なにより相手が光彦であったという衝撃がうねりとなって脳へ伝播し、嵐は興奮の極みに達したのである。

「お、お、俺の……俺のファースト・キス返せッ!」

 声が震えるのを懸命に制御し、嵐はたっぷりと怒気を孕ませた語勢で光彦に云い放った。だが、口を衝いて出た台詞は――少女漫画のそれである。
「返せと云われてもな。覆水盆に返らずってことわざ、知らんか?」
 光彦は、苦笑とも嘲笑ともいえる笑みを口元に刻み、肩を竦ませた。用法こそ間違っていないが、これから想い人を攻め落とそうとする甘い空気には、明らかにそぐわない言葉である。

「嵐、ヤらせろ」

 カーブでもシュートでもナックルでもシンカーでもない。ミットを構える閑も無く、豪速のストレートが光彦から嵐へと投げ放たれた瞬間であった。

 経験皆無の嵐には、光彦の云う『ヤる』が果たしてどんな行為を指すのか、直には実感として伝わってこなかった。必死に思案を巡らし、やっとのことで答えを導き出した――と、同時に、嵐は驚愕に打ち震えた。
「おおお……俺を、お前の慰み者にしようってのか?」
「ばぁーか。慰みモンなら、中二の時点で犯してるよ――愛だよ、愛。わかんねぇかなぁ?」
「あ、い?」
 然も在りなんと深く頷く光彦を見て、嵐は、軽い眩暈に襲われた。
 光彦は、獲物を狙う猛獣が如く四つ這いの体勢でジリジリと距離を詰め、嵐を部屋の隅へと追い込んでいく。

「な、なんで俺なんだよッ! 普通は純生だろッ!」
 純生ならいいのか、という話しはさておき。
 嵐は、後方の壁に背中を擦り上げるように立ち上がった。間合いを計り、光彦も勢い良く立ち上がると、嵐の両耳を塞ぐように手のひらを壁に押し当てた。僅か六センチの身長差が、何メートルにも感ぜられるほどの威圧感であった。
「純生もなぁ……可愛いんだが。恋愛対象というより、ありゃペットだ」
 頭の隅で、端的に言い得て妙に納得しつつも、迫り来る光彦の恐怖に、嵐の表情は凍りつく。

 摂氏三十四℃、湿度九十%の空間において冷や汗を掻き、怯臆の色を全身から迸らせる嵐の痛々しさに、光彦の同情心が頭をもたげてきた。
「優しくしてやるから、な?」
「そういう問題じゃないだろッ!」
「よし分かった。先っちょだけで我慢してやる」
「ほ、ほざくなッ!」
 既に光彦は、嵐と鼻先が触れ合う距離にまで押し迫っていた。
「じゃ、舐めさせろ。それならいいだろ?」
 何処を? と、光彦に尋ねるのは恐ろしすぎた。

 光彦に、これ以上譲歩する気はなかった。この機を逃せば、二度と嵐の体に触れることができないやもしれぬ、という焦燥があったからである。
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