「――くらーいッ! 暗い暗い暗いッ!! 暗いよ光彦ッ!!」
 嵐の部屋を出てから猛ダッシュで自宅まで帰った純生は、肩で大きく息を切りながらパソコンモニターの前で大声を張り上げた。
「これじゃぜんッぜん観れないッ! 光彦の嘘つきぃッ!!」
 と毒突きながら、必死の形相でソフトのあちこちを調節してみたり、モニターの照度を上げてみたりする純生は、ある意味、涙ぐましいほどの一途さであった。
 諦めきれずに、液晶モニターの縁を両手で掴んで激しく前後に揺さぶるが――それがどれだけ虚しい不毛な行為かは、パソコンオタク中のオタクとも言える純生には良く分かっていた。

 残された手は、嵐の部屋に舞い戻って電気を点けてくるしかない。しかしそんなことはできるはずも無く、不貞腐れた純生は、椅子の背もたれを倒し、お手上げとばかりに万歳をした姿勢で両足をデスクの下に投げ出した。
 この状況に於いて尚、暗闇にノイズの揺れるモニターから眼を離せないでいる。画面の左端には、コンポの液晶から放たれる仄明かりが揺らめき、確かに向こう側が嵐の部屋であることを皮肉にも証明していた。
 せめて集音機能があれば、まだ救われたものを。

 純生は、マウスパッドの脇に積み上げられていたフロッピーディスクの一枚を取り、モニターに向けて投げつけた。
「僕をノゾキ魔扱いした上、脅迫するなんて……酷いよ、光彦」
 そう――。嵐の部屋に置かれた純生のパソコンが常にアイドリング状態であることを、光彦は知っていたのだ。
 ビデオチャット用に設置されたWEBカメラは、予てより光彦にとって気になる存在であった。『自分なら絶対ノゾく』という確信のもと、光彦は、「このノゾキ魔め、嵐にバラすぞ。見えるようにシてやるから今日は身を引け」と、純生に鎌をかけたのである。それが見事図星だったという訳だ。
 嵐の脳内では、モニターが暗い、イコール、パソコンの電源が落ちている。そして嵐は、純生が部屋に居ないとき、決してパソコンに触ろうとしない。
 純生は、家主のPCオンチを良いことに、恋焦がれる人の私生活を知りたい一心で、密かにWEBカメラを介して嵐の部屋を覗き見ていたのだ。さすがに罪悪感から、週に一回、風呂上りの嵐を垣間見る程度の使用頻度ではあったが、
「ノゾキじゃないもん……観察だもん……」
 立派にノゾキである。
 一頻り暗い画面を眺めた後、重い溜息を吐いてから、純生は、椅子のキャスターを滑らせ別のパソコンの前に行き、なにやら猛烈な勢いでキーを叩き始めた。


 カーテンに滲む外灯の淡い乳白色とコンポの灯りで、部屋は、嵐にとっては充分過ぎるほど明るかった。とは言っても、互いの身体の稜線が、薄っすらと暗闇に浮かび上がる程度である。
 光彦は、いよいよと身を強張らせる嵐の横をすり抜け、手探りで折りたたみベッドから敷布団と毛布を剥がし、まるで巣作りする親鳥のように、丁寧にそれらを床に広げた。
 確かに、男二人が睦み合うのに、通販で買った組み立て式のパイプベッドでは頼りない。嵐は、言い知れぬ気恥ずかしさを感じながら、部屋の中央に居座っているガラステーブルを隅へとずらした。
 らしからぬ細やかな気配りに戸惑う嵐は、長身のシルエットを上目で追い、光彦はそんな嵐の不安を察した様子で、きまり悪そうに自嘲気味の笑い声を闇に響かせた。その心中は、純生にしてやったりと思う気持ち半分、やりすぎたかと思う懺悔の気持ち半分であった。

 暗闇に眼が慣れてくると、互いの表情もぼんやり判るようになってきた。
 光彦は、嵐の正面に胡坐を掻き、俯き加減の嵐の顔に視線を留めて感慨に浸るようにしみじみとしている。毛布の角に指を絡めて手遊びで間を持たせている嵐は、心臓の音が光彦に聴こえやしないかと気が気でない。
「俺の顔になんかついてるか……?」
 微妙な空気に耐えかねて、上擦ろうとする声を低く抑え、嵐が訊いた。
「怖いか?」
 囁いてから、光彦は不意に顔を寄せ嵐の下唇を軽く食んだ。無意識に身を引いてしまった嵐の腰を抱きとめ、そのおぼろげな顎の線を指先でなぞる。
 別に、と強がるつもりで口を開くが、もう意地を張る必要はないのだとすぐさま思い直し、
「強姦されたときよりはマシだ」
 勝ち誇ったように強い調子で答える、そう易々とは素直になれない嵐であった。

 光彦は、言外に仄めかされた非難を苦笑いで流して、嵐を抱き寄せた。眼を閉じて、微かに震える唇を薄く開き、キスが落ちてくるのを待つ。どこか勿体ぶるように、互いの鼻先を擦り合わせていた光彦の悪戯半分な仕草は、やがて啄ばむようなキスの雨に変わった。
 初めてのキスでいきなり舌を入れられた嵐にしてみれば、唇だけを軽く触れ合わせるこの繰り返しに何か思惑を感じて困惑したが、理由を尋ねるのは先を急かしているようで気恥ずかしい。
 せめて極度の緊張を悟られぬようにと、嵐は、十六ビートを刻む心臓のあたりに握り拳を作って、身動ぎもせずじっとしていた。

 長引く風邪のせいか、光彦の唇は荒れて、乾いていた。触れ合うたび妙なくすぐったさを感じて、嵐は、唇が離れた一瞬を縫ってぺろりと光彦の口許を舐めた。
 すると、嵐の頬にゆるい風が走って、キスの雨はぱたりと止んだ。気配に促され眼を開けると、顎を引き、胸を反らせた光彦が、狐につままれたような顔でこちらを見下ろしている。
「なんだよ。……俺、ヘンなことしたか?」
「舐めただろ、今」
「え……?」
 詰問するように言われて、不安になる。何か掟のようなものがあって、その禁忌を犯してしまったのだろうか。
「お前の唇、カサカサでくすぐったかったんだ……けど……」
「――そうか」
 言うが早いか、光彦は、嵐の顎を乱暴にすくい上げ、唇を重ねた。
「んッ……」
 性急に差し入れられた舌は口腔を乱暴に探り、逃げようとする嵐の舌をあっという間に捕らえてしまう。先刻のキスなどほんの遊びだと思い知らされる程の熱が、堰を切ったように嵐の中へと流れ込んできた。

 下肢を疼かせる刺激の密度に変化こそないが、罪悪感や屈辱に塗れた今までのキスとは表と裏ほども違う。
 風邪のせいなのだろうか? 熱い。今までに交わしたどのキスよりも。
 ふと嵐は、この熱を求めていいのだ、と思った。恋人なのだから――。
 これ以上の接近を避けるように、二人の身体の僅かな隙間に作っていた握り拳を解いて、嵐は、おずおずと光彦の首へと腕を回した。刹那、光彦の身体に緊張が走ったのが手のひらの感触から伝わってきて、その反応を不思議に思いながら更に力を込めると、キスは、より深いものに変わった。

 嵐の腰を抱く光彦の腕にも、次第に力が漲っていった。光彦の唇は、飢えを満たす勢いで嵐を貪り、舌は、我が物顔で暴れ、嵐を翻弄する。混濁していく意識とは反比例して神経は研ぎ澄まされていくようで、互いの荒い吐息と、湿度を含んだ音色がやけにくっきりと聴こえる。その音を酷く卑猥に感じて、CDをかけておけばよかった、どの曲にしようかと、場にそぐわぬ思考の断片が、嵐の脳裏を過ぎっては消えていった。

「はッ……ぁ……」
 気の遠くなるような長い口付けから開放されたとき――気付けば嵐は、光彦にすっかり組み敷かれていた。真っ直ぐに降りてくる慈しむような視線が、嵐には、何故だか腹立たしかった。
 キス如きで意識まで飛ばしそうになった己の不甲斐なさへの怒りと、また光彦にいいようにされてしまったという八つ当たりにも近い感情が錯迷して、暴力的な衝動に変わる。
 嵐は、もう一度大きく息を吐いてから、きゅっと眉間を狭めて光彦を睨み上げた。しかし、熱に浮かされ焦点の定まらない眼では、今ひとつ迫力に欠ける。
「ナニ怒ってンだよ?」
「お前を殴りたい」
「はぁ? ……なんで?」
「なんとなく、だ」
 光彦の右の眉尻が、ピクンと跳ね上がった。
 なんとなくで殴られては、堪ったものではない。まだ決闘の傷は癒えていないのだ。
「メチャクチャ言うな」
「……う、わ……ッ……」
 吐息とともに耳朶を掃くようなキス。同時に、Tシャツの裾から滑り込んできた手に脇腹をなぞられ、嵐は、小さく仰け反った。


 光彦は、首筋からへ肩口と唇を這わせながら、当て所なく指先を肌の上に彷徨わせている。光彦の触れていく箇所が、そこだけ違う熱を持つ。その熱が、チリチリと火花を散らしながら腰の辺りに集まり、何かと化学反応を起こし、増幅して下肢へと落ちていく――。嵐は、陶然とその感覚に酔っていた。
 肌の感触を愉しみ尽くしたのか、光彦は、Tシャツをたくし上げながら、ゆっくりと、脇腹から胸元へと両手を滑らせていった。ほの暗い室内に浮かび上がった、絖白く息衝く嵐の肌を眼の当たりにして、光彦は、思わず喉を鳴らした。

「うわ、わ、……光ひ……ッ!」
 覚えのある快感が鋭く嵐の背筋を走った。咄嗟に、両肘を布団に突き立てて上半身を浮かせると、胸元に顔を伏せ、色付いた乳首に滑らかに舌を走らせている光彦の姿が視界に飛び込んできた。舌先で転がすように弄い、歯を立て、吸い上げては唇を離し、また同じことを繰り返す。
 これまでのまだるい陶酔と明らかに異質な、鋭利な刺激がそこから突き上げてきて、嵐は、ぼんやりとしていた下半身の温みが、紛う方無い熱源に変化したのが判った。
「くそ……ッ」
 キスの先も当然あるものと頭では理解していたし、受け止められると思っていた。その覚悟もすっかり出来ていると思っていた。だが、不意に蘇った自我をも蕩かす愉悦の記憶が、嵐に新たな恐怖心を呼び起こす。純生も通った道なのだと懸命に己に言い聞かせるが、反射的に逃れようとする身体を抑制できない。
 胸を反り返しもがく嵐の肩を容赦ない力で刺し止めると、光彦は、堪りかねた様子でくつくつと忍び笑いを漏らした。
「”うわ”とか”クソ”とか……もうちょっとさ、可愛く喘げねぇか?」
「そんな、AVみたいな、声……あッ……、く」
 素早くスウェットへと潜り込んできた指に、軽く性器を扱かれ、体内の血液が一度にその場所に流れ込んだような錯覚を起して、嵐は狼狽した。
「へぇ……。嵐、AV観たことあンのか」
「うぅー――……」
 激しい羞恥と快感が支離滅裂に交錯し、嵐は、威嚇する獣のような唸り声を上げるのが精一杯だった。

「嵐のここ、凄ぇことになってンぞ。――溢れてる」
 親指の腹で、蜜を塗りたくるように先端を刺激され、生暖かい射精感が全身を駆け抜ける。その波をやり過ごそうと気を尽くしている嵐を奇襲するように、光彦は、嵐のスウェットを下着ごと剥ぎ取った。
「嫌だ……見るなよ……ッ」
 一点に注がれた視線。しばらく、淡く柔らかい繊毛に埋めた指先を遊ばせていた光彦が、ふっと顔を上げた。嵐の金髪と見比べ、
「下は日本人だなぁ……」
 と、関心したような声音で呟きかけた。
「あッ……当たり前だッ! そんなとこ、脱色できるかッ!!」 
 想像するだけで、魂までブリーチされてしまいそうである。嵐は、本格的に光彦を殴り飛ばすつもりで、右手を固く握り締め、
「いちいち煩いぞ、光彦――ッ!!」
 と悲鳴に近い怒声を迸らせた。
 どうやら嵐の怒りは本物だと気付いた光彦は、驚いたように眼を見開いた。嵐は、光彦にからかわれているのだと決め込んで、怒りに顔を硬化させ真っ赤にしている。

 所詮、戯れ口で羞恥心を煽り、互いの興奮度を高めるセックスの高等テクニックなど通用しない相手なのだ。光彦は、拳を震わせる嵐の手首を取って、有無を言わせぬ力で引き寄せた。
「なに、す……」
「いいから、触ってみろって」
 向けられた切なげな眼差しに意表を突かれ、暴発寸前だった嵐の怒りも忽ち萎んでいく。ふっと力の緩んだ嵐の手を、光彦は、強引に自らの下腹部に押し当てた。
 布地越しに手の甲が触れただけで、光彦の昂りが痛いほどに伝わってきた。嵐は、これを体内に受け入れるのかと慄然として、すぐさま手首を引き抜いた。

 突然、スイッチが切れたように四肢を完全に脱力させた光彦の全体重が、嵐に圧し掛かる。嵐は、今にも押しつぶされそうな肺にようやく送り込んだ酸素を、抗議の声に変えた。
「……お、重いぞ。光彦……」
「あのなぁ、俺だってプレッシャーがあンだぞ? 嵐を、気持ち良くさせてやんなきゃ、とか色々……。触ってみて判ったろ? 余裕ねぇよなぁ、俺……。これでも今日、二回ヌいてきてんだぜ?」
 一体、光彦は何が言いたいのか?
 拗ねた子供のような口調から推察すると、愚痴や弱音の類であることはだけは間違いない。思いもよらぬ展開に、嵐は、返す言葉も見つからないまま身を竦めていた。
 光彦が、吶々と先を続ける。
「お前さ、さっきから……ナニ怒ってンだよ。嫌なら……そう言えよ」
 よしんば嫌だと言われたところで、無理矢理にでも事を進めるつもりの光彦だが、やはり和姦が望ましい。光彦は、嵐の額に手のひらを当てて、心底落ち込んでいると言いたげな深い溜息を吐いてみせた。

「……俺を馬鹿にするようなことばっかり……お前が言うから、腹が立つんだ」
 と、言葉では光彦を責めてはみたものの、素直になりきれない己を省みて罪悪感が頭をもたげ始める。
「俺がいつ嵐を馬鹿にしたってンだよ?」
「してるだろ、最初からずっと」
「してねぇよ」「したよ」「してねぇって」「しただろ!」「馬鹿になんかしてねぇよ」「絶対してるッ!!」。
「わかった全面的に俺が悪い。俺が悪かった」
 永遠に続くかと思われた不毛な押し問答は、あっさり切り返した光彦の一言で終わった。
「つまり、しゃべんなきゃいいんだな? 嫌じゃないんだな?」
「う。……」
 咽を詰まらせ、フイと外方を向いた嵐の頬を強引に引き戻し、光彦が畳み掛ける。
「嫌じゃないんだよな? ……嵐、どうなんだよ」
 睫毛を伏せて強い視線から逃れた嵐は、心の暗号を解読しようと必死に頭を巡らせる。
 下肢に灯った興奮の種は、鎮まることを知らずに疼き続けている。早く癒したくて、こうしている間ももどかしい。
「嫌じゃ……ないと思う。……多分……」
「……と思う? 多分?」
 煮え切らない嵐の言葉尻を、光彦が捕らえる。
 キッと眦を吊り上げた嵐に、光彦は、降参とばかりに両手を掲げて見せた。
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