結果――。三人は、仲良く風邪を引いた。
 嵐と純生は二日学校を休み、光彦は今日、三日目の休みとなる。それももっともなことで、風邪に加えて、光彦は数えて三十発以上もの嵐の攻撃を受け、身体中に青タンの花を咲かせているのだ。
 額には濡れタオルを、口には体温計を、両の頬には冷感湿布を。顔の中心は、鼻のかみすぎで真っ赤に染まり、光彦はなかなか痛々しい姿で、丸まったティッシュの散乱する四畳半に満身創痍の巨体を横たえていた。

「サボリ以外で光彦が学校三日も休むなんて――僕、ちょっと見直しちゃった。光彦のこと」
「何が言いてぇんだよ……」
 枕元で顔を覗き込んでいる純生に、情けない鼻声とともに冷めた流し眼を光彦が返す。
 小鼻を膨らませてフフンと哂ってから、純生は、光彦の口から体温計を抜き取り、
「だって、馬鹿は風邪引かないって言うじゃない?……八度九分。あと十年くらい、大人しく学校休んでたら?」
 そんな憎まれ口を叩きながらも、体温計をケースに戻すと、純生は、濡れタオルを取って氷水の入った洗面器に浸した。
「……お前、どんどん憎たらしくなるな」
 『馬鹿』の一言に、妙に気合の入ったアクセントをつけて言う純生に、光彦は反論する気力も起きない。
 ピシャリと音を立てて、絞ったタオルを光彦の額に戻し、
「僕ら恋のライバルだもん。仲良くしてるほうがおかしいでしょ」
 純生は、平手打ちを放つような語気で言い、実際、そうしたいと思っていた。
 嵐からの自発的なキス――果し合いの結末は、純生にとって羨ましすぎるものであった。底暗い嫉妬に胸を疼かせ、光彦が弱っている今なら、非力な己でも一発くらい殴れるのではないかと息巻いて来たのだ。しかし、光彦のかつて見たことも無い弱りように、さすがに同情心が頭をもたげて、純生は結局、皮肉を言うに留まった。

「どうせ見舞いにくンなら、嵐もつれてこいよ……」
「違う、冷やかしにきたの」
 純生を一睨みして、ああそうかよ、と吐き捨てると、
「らーん……会いてぇ。くそ、嵐つれてこーい……」
 光彦は、視線を天井に戻して、うわ言のように嵐の名を繰り返した。
 嵐をオカズに、その本来の目的を遂げる事無く死んでいった数千億の精子たちの無念を思えば九度の熱などなんのその、嵐が眼の前に現れれば、光彦はまさに精子――否、生死をかけてもその場に押し倒す意気込みであった。

「一生うなされてれば?」
 冷たく言って立ち上がった純生を、光彦が呼び止める。
「一応言っとくけどなぁ……熱下がンなくっても俺は金曜に夜這いをかけるぞ。こないだはサポートに徹してやったんだから……純生、邪魔すんなよ」
 純生は、横たわる光彦を見下ろして、
「二人っきりでだなんて絶対許せない。僕のこと忘れちゃうくらい気持ちよかったら、光彦に嵐を取られちゃうじゃない」
「嵐がセックスに溺れる奴かどうか、果たし状で証明済みだろうが」
「そうだけど……」
 言い掛けて純生は、思いなおしたように眼を三角にして声を張り上げた。
「でも分かんないッ! とにかく、絶対許さないからッ!!」
 階段を降りていく殺気を帯びた足音を遠くに聞きながら、光彦は、鼻水をズッと啜って、
「……純生め」
 と、一人ごちた。


 何故、あんなことをしてしまったのか。
 部屋を執拗に掃除してみたり、普段は殆ど観ることもないテレビの前に座り込んでみたり、もう必要も無い筋トレをしてみたり。嵐は、同じ疑問が頭に浮かぶたび、答えを探して暗く思考の海に沈もうとする己を奮い立たせた。
 考え込んだところで、答えなど出るわけがないという諦念の悟りとも言える心境であったし、それに、あの時の己の行動に、言い訳めいた説明を付け足したくなかったのだ。

 そして今も、同じ疑問に苦しめられている。八時に風呂を済ませてからもう二時間、嵐は、髪を振り乱して、フライングVを最大音量でかき鳴らし続けている。
 ギターの教則ビデオで観るような嵐の華麗なピック捌きも、今日に限っては滅茶苦茶である。内向する心に反して沸々と湧き上がる、どこか二人を待つような期待感が、アンプから見事な不協和音となって放出され、部屋中を満たしていた。
 やがて、嵐の心を代弁するかのような悲鳴を張り上げて、フライングVの三弦が切れた。途端に嵐は動作を凍らせ、しばらくそのままの姿勢で佇んだ。
 これでは、フライングVに八つ当たりしたようなものだ。
 嵐は、床に腰を降ろすと、切れた弦をブリッジから引き抜き、クロスで丹念にボディを磨きはじめた。
「ごめん……」
 やるせなさが胸に詰まって、嵐は、訳も無く謝罪の言葉を呟いていた。

 コンポから流れていたCDの演奏が終わるのを待ちわびたように、ガラス窓を叩く小さな音がした。無意識のうちにドアに背を向けて座っていた嵐は、驚いて、鞭で打たれたかのようにビクリと全身を弾ませた。

「――僕じゃ、不満みたいだね」
 嵐の顔を見上げて、純生は悲しげに微笑んだ。嵐は、力なく首を振って見せ、「コーヒー飲むか?」と訊くだけ訊いて、その返答も待たずにサンダルを引っ掛け、純生の視線を背に受けながら母屋へと足早に消えていった。
 ドア向こうにいたのが光彦で無かったことに、嵐は、ほっとしていた。覚悟はできていた筈なのに――意図せず心に広がった安堵の念が、嵐を情けない気持ちにさせていた。

「つい……淹れちゃったんだ」
 申し訳無さそうに言って、嵐は、三つのコーヒーカップをガラステーブルに並べた。
「多分、無駄にならないと思うよ」
 嵐は、はっと顔を上げた。雨の日の光景が脳裏に展開して、嵐の眉を曇らせる。
「そう、なのか?」
 光彦が夜這い宣言をしていた金曜日、純生は、光彦が這ってでもくるであろう確信があった。不安を隠しきれずにこちらを窺う嵐にコクリと頷きかけると、そうか、と抑揚の無い声が返ってきた。

 純生は、ブラックのコーヒーを意味無くスプーンでくるくるとかき回し、嵐は、その液体の表面に描かれる軌跡をぼんやり眺めていた。空気が、酷く重い。三人でいる時も会話が弾むことなど稀だが、しかし会話などなくとも、互いがそれぞれ好き勝手に過ごす時間はいつも穏やかで、そして和やかに流れていった。
 誰か一人欠けた時、こういった重苦しさがまま訪れる。この現象は、嵐が二人から愛の告白を受けるずっと前からのことであった。
 嵐は、重い沈黙が、純生か、あるいは光彦によって破られるのを恐れながら、その反対に、言いようもないじれったさを感じていた。

 沈黙を破ったのは、前者の方であった。
「光彦に……嵐からキスしたね。嵐は、僕より光彦の方が好きなの?」
「どっちが好きかなんて考えたこと無いし、考えたくも無いよ」
 嵐は、即答した。その答えが純生には満足な内容であったらしいことを、表情が物語っている。
「ね、嵐。キスして」
「……え、何?」
 防音の効いた部屋の中、凛とした純生の声はくっきり聞き取れたが、嵐はたちまち狼狽して反射的に訊きかえしてしまった。
「自分からするのと、してもらうのとじゃ、全然違うよ。光彦にキスしたってことは、僕も受け入れてくれるってことなんだよね? なら……僕にも、して」
 純生は、ガラステーブルに両手のひらを突いて、身を乗り出した。
 純生の気迫に圧されて、何か突拍子もないことを言い出しそうな口にコーヒーを流し込んで、嵐は、真顔を作って頷いた。

 ――その代わり、恋人ができたじゃねぇか。同時に、二人も。

 光彦の言った言葉、果し合いの結末、二人を好きだという正直な気持ち。純生は、嵐にとってもう『恋人』なのである。キスは、恋人同士のむしろ自然な行為だ。
 ましてや純生とのキスは初めてではない、どちらから唇を寄せるかだけのことだ。頭ではそうと分かってはいても、真っ直ぐに向けられた真剣な瞳の前に、心が萎縮してしまう。
 純生は焦れた様子で、膝立ちでガラステーブルを半周して嵐の傍に来た。揃えた膝の上に両手を重ね合わせ妙に畏まった姿勢で、嵐の双眸をじっと覗き込み、決して自分から動こうとしない。
 嵐はもう一度頷いて、紅潮した純生の頬にそっと手を添えた。瞼を閉じた純生に顔を寄せ、軽く、キス。
 ……の筈が。

 意表外な展開に、嘘だろ、と嵐は眼を見開いた。
 確かに、唇を触れ合わせたのは嵐から、であった。しかし触れ合った矢先、純生が、嵐の首に勢い良く双腕を回して、深く唇を重ねてきたのだ。
 咄嗟に純生の脇腹を掴んで身を引いた嵐は、その加重を支えきれず、結局二人で抱き合ったまま絨毯の上に倒れこむ形となってしまった。
 虚に乗じて純生は、床に背を打って息を呑んだ嵐の歯列を割り、舌を差し入れてきた。嵐は、また、嘘だろ、と頭の中で繰り返した。
「……ん……」
 光彦の、明らかな意図を持って動くそれとは違う、甘い吐息をつきながら戸惑いがちに口内を彷徨う純生の舌先は光彦と同じ温度を持っていて、嵐が忘れようとしていた感触を次々肌に蘇らせた。
 一瞬、熱風のような情動に煽られ、嵐の手は純生の脇腹から離れ、その細い腰へと回されたが――辛うじて働いた自制心が、純生を抱きすくめてしまうことを嵐に留まらせた。

「嵐、抱いてくれないの?」
 唇を離して、眼を伏せたまま純生は言った。睫毛の先端が重なって純生の頬に長い影を落とし、焦りと、強い恥じらいを嵐へと伝える。
「……できないよ」
 まだ、という一言を付け足すのが、一拍遅れた。何れは純生を抱くだろう。でも、まだ、できない。
 あの時垣間見た、純生の苦痛に歪んだ顔が瞼に焼きついて離れない。一度、欲望の箍が外れてしまえば、情痴に狂って純生を傷つけてまで求めてしまうだろう恐怖が、嵐にはあった。それほどまでに、純生の中は、嵐に過分な快美感をもたらしたのだ。それに、光彦がいない今、嵐は心のどこかでやましさを感じていた。
「どうして!? 光彦がいないとダメなの?」
 光彦への反発をはっきり声音に表して、純生は弾むように上半身を起こした。
 蛍光灯の白光を背に受けた純生の影に、突然現れた巨大な影が重なって、嵐の視界は一気に暗転した。

「コラ、抜け駆けすンな。つーか、邪魔すンなっつったろうが」
「やッ……何す……ッ!!」
 光彦は、まるで猫の仔でも摘み上げるようにして、純生のシャツの襟を背後から引き上げた。手足をばたつかせて暴れる純生を馬鹿力に物を言わせてドアの前まで運び、そして光彦は、その耳元でなにやらボソボソと囁いた。途端に純生はぱったり抵抗を止め、次に、顔を真っ赤にして光彦を睨み据えた。
「な?」と押し込む光彦に、
「大ッ嫌いだ、光彦なんか」
 あらん限りの憎悪を込めた捨て台詞を残して、純生は、肩を怒りに震わせつつも自らドアを開き、嵐の部屋から出て行ってしまった。

 嵐は呆然と、その光景を眺めていた。
 ドアに鍵をかけ振り返った光彦は、すっかり面食らってぽかんと口を開けたままにしている嵐を見て、頬を緩めた。
「こ……今晩は」
 自分がどれだけ間抜けな言葉を口走ったか、嵐は気付いていない。
「今晩は」
 光彦も、嵐に付き合って慇懃に挨拶を返した。
「随分、準備がいいな」
 嵐のすぐ傍らに胡坐を掻き、テーブルに並んだ三つのコーヒーカップに視線を落として、光彦が言った。はっと我に返った嵐は、ドアと光彦の顔を交互に二回ずつ見遣ってから、奇妙に上擦った声で答えた。
「もう冷めてる……。淹れなおしてくるよ」
 嵐は、明らかに動揺していた。カップをトレーに戻そうとする指が震えて、振動がカチャカチャと耳障りな音となって白い壁に跳ね返る。
「いらねぇよ」
 光彦はその雑音を聞きかねた様子で、嵐の手首を取った。
 異様に熱い光彦の手。嵐は、ようやく光彦の鼻声に気付いて、顔を上げた。
「風邪、治らないんだな。……まだ熱があるのか?」
「風邪なんてカワイイもんじゃねぇ、五日も布団から出られねぇなんてこと、生まれて初めてだよ」
 苦笑いを浮かべる光彦の顔を正視できずに、嵐は悄然と項垂れた。
 果し合いの残痕が、半袖から覗いた腕のあちこちに見て取れた。嵐は、罪悪感に苛まれたが、ここで謝るのは筋違いもいいところだ。一方的に望んだ決闘行為で光彦に傷を負わせたのは、他ならぬ嵐である。

 視線を再びドアに移して、嵐は、光彦に届くか届かないかの細い声で言った。
「なんか……助かった、かも……」
「純生を追い出したことか?」
 嵐は、弱々しく顎を引いた。
 教室では長らく純生を庇護する立場にあった嵐は、純生の対して、兄のような存在でいたいという願望があった。強姦事件を想起すれば今更という気もしているが、やはりその拘りは捨てきれないでいる。光彦に抱かれ、自分がどう乱れるか予想もつかない嵐は、純生の前でとんだ醜態を晒すのを恐れ、初めて受け入れるその時だけは二人きりがいいと、漠然と思っていた。

 掴んだ手首から、ありありと嵐の緊張が伝わってきて、光彦は眉を顰めた。いつまでも右手首を預けたまま微動だにしない嵐は、光彦が口を開くのを待っている風である。

「嵐――。あンとき、なんで俺にキ」
「あんなのッ!」
 散々、己を逃避行動に走らせた問いを不意に投げかけられ、嵐は、大声を上げてその先を遮った。
「……あんなの、納得できるかよ。最後の最後で、中途半端なことしやがって……」
 言い終わらないうちに、嵐は、光彦の手から乱暴に腕を引き抜いて、左右に激しく首を振った。
 やってしまった。光彦に責任転嫁するなんて、最悪だ。
 嵐は、違う、と小声で呟いて、光彦の肩にコツンと額を当てた。
「身体が、勝手に動いちゃったんだよ。……いいだろ? もう、そんなこと」
 返事の代わりに、大きな手が嵐の後頭部を優しく撫でた。

「嵐を、抱きにきた」
「……うん」
「じゃあ、いいんだな?」
「……うん」
「本当に?」
「……しつこいぞ」
 
 顔を上げた嵐の、頬の辺りで遊んでいた金髪の一束を指で絡め取って後ろへと流し、覗いた首筋に唇を落とすと、光彦は立ち上がってドアまで行き、照明のスイッチを落とした。
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