『サポセン日』。
  思い出した一言は、これである。嵐が破砕した、あの『予定表』に純生が記した言葉だ。ノウハウを伝授してもらうべく江坂コーチ監視下にて純生とセックスをし、至らない点をビシビシご指南いただく日――嵐の解釈が間違っていなければ、『サポセン日』とはそういう意である。
 歯に衣着せぬ物言いが売りとも言える光彦のこと、へたれだの早漏だの、言われそうな言葉は大方予想がつく。光彦にアレコレ指図を受けながら純生と事に及ぶなどと、想像するだけで気持ちの悪い汗が額から噴出してくる。そうでなくとも、光彦とのセックスの後は、毎回たっぷり敗北感を味わうのだから、是か非かは苦渋の選択であった。
 だが、嵐は決断した。
 やはり『親友』の枠に押し留めておいたほうが良かったと後悔したがる己を説得するのは、実に骨が折れた。しかしセックス無くしての関係など、二人――こと光彦は納得するはずがない。純生と光彦が、自身のどこに性的な魅力を見出しているのか未だ疑問は拭えないが、求められることに、嵐は心底で素直に喜んでいた。
 決闘までをも経て、バラバラだった三つの点をようやく繋いだのだ。できあがった三角形はひどくいびつなものであったが、受け入れることはできた。嵐自身、今更に『清く正しい交際』などできようも無いこと、そしてかつての清い関係に戻ったところで、そこに物足りなさや不安を感じてしまうだろうことを確信していた。

 「放っておいてくれ」と言った己の一方的な願望のまま、あれから登下校こそ一緒にするものの、光彦も純生も無理に部屋へ上がりこもうともせず、一定の距離を置いてくれている。そんな二人の優しさが、ありがたいと思う。感謝する気持ちと比例して、罪悪感は嵐の中で日に日に膨れ上がっていった。
 支点のずれた天秤のようにとりとめなく悩み続けてしまう性分はどうしようもない。この件について深く考えることに、嵐は疲れてしまっていた。
 嵐は、控えめに息を吐くと、折りたたみ式の携帯を開いて液晶画面のカレンダーを確認した。次に、光彦が深夜に自室のドアを叩く予定日までには十日近くあった。
「……よし」
 思い立ったがなんとやら。嵐は、深く頷いてから着信履歴の一番上にある番号を選択し、通話ボタンを押した。


「悪いな、明日も学校なのにこんな夜中に呼び出して」
 純生は、ふるふると首をふって居すくまった。嵐の重い声音から滲み出ている危うげな空気を感じ取ってか、その視線の行方を上目で追っている。光彦は憮然とした表情で、煙草のフィルターの先で忙しなくテーブルを突付いていた。
 嵐は、母屋が寝静まる前にコーヒーを用意しておけば良かったと後悔した。いざ二人を前にして逃げ場が無くなると、途端に決意が揺らぎ始める。飲み物くらいあれば、茶飲み話で間を持たせながらもう一度考えなおす時間を稼げたのにと、またも弱気が頭をもだげだしたのだ。胸の奥に押し詰まっている台詞を吐き出そうと何度も口を開くが、それらは嵐の思惑に反して石のように動こうとしない。
「まさか、別れを切り出そうってんじゃねぇだろうな?」
 思いも寄らなかった光彦の一言に、嵐は、ハッとして顔を上げた。確かに、今までの過程と、何かを言い渋る己の態度から推察できる展開で、むしろそう考えるほうが自然である。
「そんなわけないだろッ!」
 焦りを含んだ口調に嵐の本音を垣間見た光彦はニッと笑い、純生に一瞥を投げてから。
「俺らも、今夜お前の部屋に行こうと思ってたんだぜ」
「俺の部屋に?」
 嵐は、光彦が軽い調子で語りかけてくれたことに少しほっとして、怒らせていた肩を落とした。
「こっちだって色々考えてンだよ。――な、純生」
 光彦に同意を求められ一瞬眉を顰めた純生だが、すぐに決然とした頷きを返した。知らぬうちに交わされた光彦と純生の黙契が何かを想像して、ふと嵐の心に不安が過ぎる。長いつきあいだけに、察してくれているのだろうか――などと都合の良い考えを巡らせているうちに、光彦がやおら立ち上がり、電灯のスイッチに手をかけた。
「……え?」
 カチリという音とともに、外灯の薄明かりが仄白く嵐の部屋を染める。電気を消すのは『始まり』の儀式のようなものだ。意外な展開に、嵐は狼狽した。
「ちょ、ちょっと待てよ。まだ俺の話が」
  言い終わらないうちに、嵐の両頬は温かい手にふわりと挟みこまれ、唇にしっとりとした感触を受けた。光彦の荒々しいそれとは違う、純生からのキス。
「嵐、ごめんね。――怒らないでね」
「なに……?」
 唇が離れていくのを惜しむように純生の肩に手を掛けるが、やんわり解かれて、不安に拍車がかかる。嵐は、のしかかる闇と静寂の圧壁に、ただ困惑していた。
 数分間の沈黙――ようやく眼が暗闇に慣れてきたころ。
 二人の気配がふっと消えたように錯覚して、嵐の意識が集中したとき。
「光彦」と、興奮を隠すような純生の冷たい囁き声が、薄暗闇にぼんやりとした線を描いた。



 今、この時。
 惑乱状態にある嵐は、驚愕のあまり言葉を失い一切の表情筋が情けなく弛んでいる。身体は、血管を流れる血という血が凝固してしまったようだ。まともな思考力は一縷も残っておらず、頭の中は、意味を持たない日本語の断片が、空中にぶちまけられたパズルピースのように散乱していた。
「どうして……?」
  ピースの一つが無意識に嵐の唇から零れた。光彦が振り向き何か言ったようだが、その声は瞬く間に混濁した意識の中に埋没していく。
 光彦に教えを請おうという第一命題を口にするタイミングさえ与えられず、一言、純生に「怒らないで」と告げられ、そうして嵐は、今、自室の隅で茫然と目前の光景を網膜に映している。
 妖しい水音、不規則な呼吸音、衣の摩擦音――聞き覚えのある音が耳鳴りの向こう側から聴こえてくる。嵐は、自分の身体がまるで石のような物体と化していて、ただそこに存在しているだけのように感じていた。
「……ン、……ちょっと、キツい……」
「これでか? ちっと我慢しろ」
 薄明かりの中、胸を反らせた純生の額の産毛が淡い銀色の光りを放つ。大きな手が巻き毛を梳いて肩のなだらかなラインをなぞり、背中へと流れる。純生は引き寄せられるままに光彦の膝へと腰を滑らせ、何度目かのキスを受け入れた。重ねた唇を甘く吸い合い、舌を絡め合わせる二人。光彦の指が、純生のさらに奥へと忍び入ったのだろう。舌と唇の隙間から、切なげな喘ぎが漏れた。
「痛ぇか?」
「……大、丈夫……――アッ」
 微かな悲鳴のあと、純生は違和感をやり過ごすように、浅い呼吸を繰り返している。前からの攻めも加わり、その直接的な刺激に思わず腰を弾ませた純生は、双腕に一層の力を込めて光彦の首を掻き抱いた。そして、とろりと潤んだ瞳を嵐へと向け、何か言いたげに薄く唇を開く。嵐は、純生の濡れた瞳に、はっきりとした歓喜を読み取った。

 ――そうか。そういうことか。
 嵐の顔から失せていった血の気が、突然、逆流となって頭へと押し寄せてきた。強烈な光りに眼球を射抜かれたように視界は白くぼやけ、動悸で胸が詰まる。この衝撃の正体を暴いてしまうことへの恐怖に慄き、全身に霜が降りたような錯覚を覚える。一瞬でも気を逸らせば、轟々とうねりだした感情の渦に呑みこまれ、大声を上げて泣き出してしまいそうだった。
 そうと判ってしまえば、なにがなんでもこの場から逃げ出したい。一秒でも余計にとどまれば、頭が爆発してしまいそうであった。
 だが、嵐は動けなかった。身じろぎひとつすれば、声を発すれば、親友であり恋人である二人を同時に失う口火を切ることとなるのだ。眼下に広がっている底暗い絶望の深淵に、自ら足を踏み出して堕ちていく勇気など出ようはずも無い。
 嵐は、最も理解しやすい形で眉間に突き立てられた事実に、どうしようもないほど動揺していた。

  ――ようやく気付いたのに。
 散々勿体を付けて、待たせて、わがままを言って。挙句、この状況を招いてしまった。
 嵐は、最後まで見届けるのが義務であり、罰であると悟った。そのためにきっと、光彦と純生はこうしているのだ、と。



 光彦が純生の身体を仰向けに横たえ、脚を左右に開く。純生は先を促すように腰を浮かせ、情熱的ともいえる仕草で、光彦の指に自分の指を絡ませ、その手を引き寄せた。
「僕、嵐と同じように感じたい。嵐を抱くみたいに、僕を抱いて」
 光彦の先端が純生の中に埋められようという刹那、純生は言った。息を呑む呼吸音は、嵐の発したものだった。すっかり二人の世界なのだと絶望に暮れていたそのとき、嵐は、自身の名が呼ばれたことに驚愕したのだ。
「分かった」
 光彦の答えに、純生は満足そうに顔を綻ばせた。一度は仰臥させた純生の身体を易々と引き起こし、くるりと反対に返して膝の上に乗せ、光彦は純生を後ろから抱きかかえる形をとった。光彦の手のひらが半円を描くよう背中から脇腹を掠めて白い胸元へと達した時、純生は、「あ」、と感じ入ったような高い声を上げた。
「こうして――」
「……――ん、」
 再び忍び込んできた光彦の指に促され、それまでは僅かに苦痛の色を刷いていた純生の表情が一変する。肩から首筋へと幾度となく上下する光彦の舌と胸元を弄る指は、的確に純生の性感を突いていた。嵐が見たことも無いような猥らに染まった顔で、純生は、光彦の愛撫に悶えた。
 ふと顔を上げた光彦は、嵐のほうへと鋭い視線を送った。一瞬のことで眼が合ったのかは判らなかったが、光彦が策士的に含み笑ったように感じて、嵐の胸に痛みを伴う冷気が駆け抜けた。反射的に顔を背ける。
「ここ、と――後ろを弄られると、嵐はもうダメなんだよ。辛抱できねぇって感じで腰揺らして、自分で扱き出すンだ」
 嵐は、全身の血が沸き立つような感覚に強襲された。
「最初に後ろ弄ってやったときはパニクってたな。挿れるまでが大騒ぎで……途中でやめてやったってのに、嵐に殴られて散々だったぜ」
 やや高揚した光彦の声は、純生ではなく、嵐に語りかけているようだった。まるで面白半分に嵐の痴態を暴いていく――突き立てた刃を力任せに抉るような光彦の言動に、嵐は慄然とした。

 純生は、双脚を折りたたんで細い指を自身のそれに絡め、手の動きとともに息を荒ぶらせた。薄桃に色付いた耳朶を食みながら、光彦が尚も囁きかける。
「まだイクんじゃねぇぞ。――嵐の気持ちいいとこ、もっと教えて欲しいんだろ?」
 目前まで迫ってきた頂の誘惑に負けて、一度は力なく首を横に振った純生だが、すぐに背をぐったりと光彦に預けた。光彦が、だらりと落とした純生の腕を取り、開いた脇腹に舌を這わせる。
「……ッ、……光、……ッ!」
 光彦は、あばらの溝をなぞりながら丁寧に舐め上げていき、腋窩まで到達したところでその敏感な場所に軽く歯を立てた。右手は、純生の奥深くを犯し続けている。濃密な淫戯にビクビクと痙攣を走らせ、腰を浮き上がらせた純生の反応にクッと満足気な笑いを漏らして、光彦は意地悪く言った。
「嵐はな――舌で擽るように脇を舐めてやると、全身にトリハダ立てンだよ。……それが可愛くって、たまンねぇの」
 唐突に指を引きぬかれ、純生は、顎を突き上げて短い悲鳴を迸らせた。すぐさま、光彦の先端が埋め込まれる。圧迫から逃げるように半身を前へと倒しこみ、四つ這いになった純生の腰を力強く持ち上げ、光彦は、繋いだ箇所を確認しながらゆっくりと下肢を前へと押し進めた。
「や……ッ、あぁ――く、」
「嵐も最初は辛がって逃げる」
 嵐、と名を聞くたび、純生の肩は大きく上下した。中を探るように慎重な抜き挿しを数回繰り返し、光彦は、純生の腰元にあった手を脇腹から肩へと妖しげに滑らせて、深く身を重ねた。そして、緩々と押し込んでいく。全身に震えを刻みながら間欠的に声を漏らしていた純生は、やがて全てを受け入れ光彦が腰を揺すりたてた時、裸体を弓なりに仰け反り返した。
「感じるか? ――嵐みたいに」
「……んん、――あぁッ!」
 緩やかだった光彦の動きに熱と速度が加わり、純生は、赤い舌を翻し髪を振り乱して応えた。否が応でも、規則的に繰り返される淫猥な音が嵐の鼓膜を貫く。

 ――もう沢山だ……ッ!
 嵐は、声にならない悲鳴を上げて、両耳を塞いだ。
 何故、こんな仕打ちを受けねばならないのか。
 それほどまでに、犯した罪は重かったのだろうか。
 二人の心変わりを責める気は無い。ただ言葉で伝えればいいだけのことなのに。

「――ダメ……、僕、も……」
 限界を告げる一声に、光彦は、純生の身体を返して片脚を担ぎ上げた。腰を低く落として、狙い定めたように純生の一点を攻め立てる。形の良い唇から吐き出されるあられもない嬌声が塞いだ両耳から忍び込み、まるで熱鉄を注ぐように嵐の頭を焼き焦がす。
 光彦の突き上げに呼応し、乱れていく純生の姿が自身のそれと重なって、居た堪れなくなる。
 嵐は、気付いていた。心はこの上なく打ちのめされていると言うのに、下腹に充溢してしまった本能のことを。嵐は、純生の中がどれほどに熱くうごめき華美な官能を与えるか、光彦が激しく甘い動きで如何に己を狂わせるのか、知っているのだ。
 ――だのに。
 もう純生を抱くことも、光彦に抱かれることもない。
 指の隙間から零れ落ちていく愛しい何かを惜しむように、嵐は両拳を強く握り締めた。
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