DDR -DON'T DILLYDALLY, RAN-

「嵐は、真面目すぎるんだよ」
 昼休み――。三人の定位置と化した屋上の一角に並んで腰を降ろした時、唐突に純生はそう切り出した。純生の言わんとしている先をそれとなく解した嵐は、鼻先をつつかれた仔亀のように首を竦めて俯いた。
 嵐は、紙パックの牛乳に差し込んだストローの先をかじりながら、コンクリートを睨んですっかり消沈している。
「ねぇ、嵐?」
  純生の声にフイと顔を逸らす嵐。その逃げるような仕草に、純生の口から密かに溜め息が漏れた。
「……そんなところも好きなんだけど、さ」
 もはや追い討ちとしか言いようのない一言に、嵐はますます小さく身体を縮めた。
 その様子を窺っていた光彦が、「どうした?」と純生に尋ねた。どこか胡散臭い真面目顔は、二人の不和をそれとなく嗅ぎ取っているようであった。
「うん……」
  先を続けてよいものか純生は口ごもって、瞳で問いかけるように隣で項垂れている恋人を見やるが、金のカーテンは下ろされたままだ。折りしも時は昼休み、生徒達が弁当やパンを頬張りながら勉強や部活、あるいは恋愛について楽しげに会話を交わしている屋上に於いて、いささか相応しくない話題である。
 純生は、光彦の耳元に唇を寄せて、声を顰めた。
「昨日、僕の番だったでしょ? 嵐が一生懸命、僕を喜ばせようとしてるのは分かるんだけど、なんだか痛々しくて。僕、思わず『修行僧みたいな顔してるけど、大丈夫?』って嵐に訊いちゃったんだ。そしたら落ち込んじゃって……」
 『修行僧』の一言に、その時の嵐の様子がありありと脳裏に浮かんだ光彦は思わず噴出したが、すぐに難しい顔に戻った。

 セックスの最中に『大丈夫?』などと抱いている相手から心配されてしまうとは、雄にとって不名誉極まりない、ゆゆしき事態である。『ヘタクソ』と言われたほうがまだ救いようがあったかもしれない。
 光彦は、力に任せて純生の耳朶をこちらへと引き寄せた。
「い、痛いよ、光彦ッ」
「お前そんなひでぇこと言いやがって、嵐が勃たなくなったらどーしてくれンだ。俺が困るじゃねぇかッ!」
 光彦の半身を押し返し、睨み上げた純生の瞳には、うっすら涙が浮かんでいた。
「だって嵐はなんだかいっつも必死で、僕とそうしてても全然嬉しそうじゃないんだ。恋人として辛いよッ!」
「そらお前、互いに初心者なんだからいきなり上手くはいかねぇだろ? 嵐の成長を見守ってやるぐれぇの優しさはねぇのかよ?」
「光彦に『優しさ』について説かれたくないッ!」
 むっと唇を歪めた光彦は、ああそうかよ、と切って捨て、尚も畳み掛けた。
「つまり、お前らはカラダの相性が合ってねぇんだな? そういうことだろ? 別れろ、今すぐ俺の嵐から離れろ」
「馬鹿なこと言わないで。相性とか嵐のテクニックとか、そういう単純な問題じゃないんだから」

 光彦も純生も、感情のボルテージとともに声の音量まで上昇していることに全く気が付いていない。初心者だのテクニックだの、二人の会話の切れ端が、氷の刃となって嵐の背中にグサグサと突き刺さっていた。耐えかねた嵐は、巾着状のランチバッグに開けてもいない弁当箱を押し込んで、勢いよく立ち上がった。
「俺、ちょっと疲れてるのかも……。悪いけど、しばらく俺を放っておいてくれないか?」
「――え?」
「またかよッ!?」
 光彦と純生は、愕然と嵐を見上げた。校庭から吹き上げる風に煽られた長い金髪から覗いた嵐の顔は、悲痛を滲ませていた。引きとめなければと口を開くが、結局言葉は見つからず、二人は去り行く嵐の背中を無言のまま見送ることとなってしまった。

 その日の下校時、純生と光彦は、校門を出てから塩田家の門前まで、嵐を必死に説得し続けたが、全ては徒労に終わった。当然のように部屋に上がりこもうとする二人の前を立ち塞いで、嵐が暗く言う。
「ごめん……、今日は帰ってくれ」
 光彦と純生の目前で閉ざされた扉の金属音は、この上なく冷たく鼓膜に響いた。
 いよいよ事態は深刻である。
「俺なんか――俺なんかなぁ、まだたったの四回だぞ? 嵐は二発目とかヤらせてくんねぇんだぞ? っくそー、俺らなんだかんだでメチャメチャ嵐に振り回されてねぇ?」
「ぼ……僕だって三回だもん……。嵐のこと大好きなのに、なんで……?」
  しゃくり上げる純生を煩そうに見下ろし、
「うぜぇから泣くな。――こいよ、お前ン家で作戦会議だ」
  光彦は、佇む純生の背中を押して、猛然と歩きだした。



 めでたく光彦と嵐が結ばれたあの日から。
 塩田家の住民が寝静まった草木も眠る丑三つ時に、光彦と純生のどちらかが、嵐の部屋の扉を叩く。 それは隔週土曜日の夜――つまりほぼ一ヶ月に一回ずつ――と決められていた。精力盛りの男子高校生には全くもって物足りない回数であるが、生来晩生な嵐には、これが精一杯の譲歩であった。そもそも、部屋を提供するのは他ならぬ嵐なのだ。深夜とはいえ、家族の突然の来訪が無いとも限らず、また、無事行為を終えた後にはこっそり母屋に忍び込み、シャワーを浴びたりしなければならないのであるからして、なかなか危険な逢引である。
 身体を重ねるごとに、嵐は不器用なりに二人への愛情を確かめ、そして徐々に高めていった。皮肉なことに、その高まりが嵐の混乱を招いた内因であった。純生の『修行僧』発言は、単なる契機に過ぎなかったのだ。

「うまくいかないもんだな……」
  天井の蛍光灯にぼんやり視線を留めて、嵐はぽつりと呟いた。壁に気だるげに寄りかかり両脚は投げ出し、腕には抱き枕のようにフライングVをかかえている。
 光彦に対しては、ライバル心や虚栄心を捨て切れず未だ素直になれないでいるが、心ではその傲慢ともいえる愛情を受け止め、身体を開き応えることで少なからず幸福感を感じている。純生に対しては――可愛い、と思う。抱くたび、愛しさは増していく。かつて弟のような存在であった純生に、紛う方無き恋の感情を抱いているのだと、ここ最近、嵐はようやく自覚することができた。だからこそ身体も慈しみたいと思うのだが、いつも気持ちだけが上滑りしてしまう上、感じているか、痛くはないかと、純生の顔色ばかりを窺ってしまい没頭することができない。それもこれも、恋人がもう一人いるせいだ。
 二人の気持ちを嬉しく思うと同時に、嵐は、見えない糸で縛られていくような不安と窒息感を感じていた。

 光彦には受動的な立場である嵐は、光彦から貰うだけの快感を、純生へも与えたい――否、与えなければならない、という強迫観念に近い焦燥があった。しかし、光彦に抱かれている間はその愛撫と激しさに翻弄され、いつも自我ごと押し流されてしまう。技を盗む余裕など、針の先ほども残っていないのだ。
 純生を満足させたい一心で、慣れないパソコンに触れ、参考になりそうなホームページを巡ってみたりもしたが、学習したのは、パソコンも風邪と引く、ということぐらいであった。ウィルスに感染し起動しなくなったパソコンの修理を純生に頼んだ際、「ヤバいサイト見たでしょ?」と責められた挙句、光彦からは「夜のオカズに困ってンなら俺を呼べ」と言われる始末であった。それ以来、嵐は部屋のパソコンに触れていない。

「光彦のときは……」
 俺は、どんな風に抱かれてるのだろう?
 光彦の手は、唇は、どう動いて、あんなにも俺を――?

 幾度も冷静に思い出そうとしたが、その度に失敗してきた。最中の記憶は、暗闇にフラッシュを焚いたとき眼窩に焼きつく残像のようなものでしかない。それは、光彦の眉間に寄せられた皺であったり、首筋に貼り付いた髪の毛の一筋であったり、ほの灯りに浮かび上がった肩のラインであったり――実際、恥ずかしさのあまりほとんど眼を開けていられない状況なのだからそれも当然のことなのだが。
 瞬間、難しく顰められていた嵐の表情は一変し、たちまち真っ赤になった。ついでに己が晒したであろう痴態まで連想されてしまったのだ。快感を貪って喘ぐ己の姿に純生の影が重なって、妄想はあらぬ方向へと際限なく増幅していく。嵐は、身体の芯から湧き上がった羞恥の熱に悶絶しそうになるのを、唇を噛締めて耐えた。だがその熱は、下肢に及ぶほど熱いもので――。
  邪念を払うように首を一振りして、ギターをぎゅっと抱き寄せる。
「お前も……俺の恋人だよな」
 フライングVのボディを愛しげに撫でながら自嘲的に笑いかけるが、その笑みは張り付いたようなものに変わり、すぐに消えた。嵐は、ゆっくりとした仕草で、フライングVを壁へと立て掛けた。



 敵情を知らずしては作戦の立てようもない、という大義名分のもと、WEBカメラを介して嵐の様子を窺っていた光彦と純生は、思わぬ展開に息を飲んだ。しばらくは我をも忘れて食い入るようにモニターに魅入っていた純生だが――嵐の指が躊躇いがちにジーンズのボタンにかけられたのを合図に、発作的にマウスを取った。
「あ、バカ野郎ッ! なんで画面閉じンだッ!!」
 背後に立っていた光彦が、椅子に座っている純生の上半身を押しつぶすように覆いかぶさり、でたらめにキーボードを叩く。
「だ、駄目だよッ! だってこれじゃ本当のノゾキになっちゃう……ッ!」
 自分でどうにかすることを諦めた光彦は、椅子の背もたれを引いて純生の身体を半回転させ、額が触れ合うほどに顔を寄せると、その肩を揺さぶった。
「ノゾキにホントもウソもあるかよ、観たくねぇのかッ!?」
 純生の問い返すような瞳は罪悪感に揺れていたが、まもなく眉を引き締めた。
「観たいに決まってる……」
 純生は、震える手で慎重にマウスを操作し再びソフトを立ち上げると、モニタの右端に現れた小さなウィンドウを画面一杯に拡大し、音量を最大限まで上げた。
「集音マイク、つけたのか?」
「うん、この間の修理のときに。……光彦のせいだよ?」
 ノゾキ魔呼ばわりされ、追い出されたことを根に持っているのだろう純生は、意地悪く言った。
 パンとズームを数回繰り返し、ようやく画面の中央に横たわる嵐の姿を捉えることに成功する。画質の悪さは、この際問題ではなかった。

 衣擦れの音と、僅かに開いた嵐の唇から漏れる甘やかな吐息が、ノイズに混じって届く。Tシャツの裾に隠れてよく見えないが、嵐の右手が下腹部の辺りで規則的に上下しているのが判った。
「クソ……、当然ネタは俺なンだろうなぁ?」
「シ、黙ってッ!」
 光彦の苦い呟きを、純生がピシャリと遮ったそのとき、胎児のように背を丸めていた嵐が、苦しげに身を捩った。金髪がサラリと床へ流れ落ちる。二人に見せる何かに耐えるような表情とは違う、素直に快楽へ滑り落ちていこうとする嵐の顔が、酷く淫靡に映った。硬く閉じられた瞼の向こうに何を見て、身を震わせているのか――純生と光彦はそれぞれに想像を巡らせ、無意識に拳を握り締めた。脇腹の辺りで遊んでいた嵐の左手が、堪りかねたようにTシャツの中に滑り込んだ。
『……ン……ッ、……は、ぁ……ッ』
 はっきりと二人の耳に届くほど声を発したのは、嵐の左手が胸元を弄ったときだった。Tシャツの下――嵐の指がどう動いての嬌声であったのか、見えないもどかしさが、余計に二人の想像を掻き立て、興奮を高める。
  立てた膝頭が痙攣したように震え、嵐の白い咽喉が幾度も上下する。Tシャツが捲れ上がったせいで、くつろげたジーンズの合わせ目から手の動きが垣間見えるようになり、光彦と純生は誰かに押し出されるように上半身をモニターへと倒した。幹を擦り上げる細い指の動きはゆっくりしたものであったが、的確に性感を突いていることが嵐の反応から明らかだ。
「エロいなぁー……」
 溜め息混じりに漏らした光彦の言葉に、コクリと咽喉を鳴らして純生が応える。奇妙な緊張感が、部屋の空気を重くしていた。今すぐ嵐の部屋へ飛んで行きたいという気持ち半分、このまま、自慰に耽る恋人の艶かしい姿を覗き見ていたいという倒錯的な気持ち半分――純生と光彦は、激しいジレンマと闘いながらも、やはりモニターから眼を離せないでいた。
『あッ……』
  思いのほか大きな声が零れたのに自制心が働いたのか、嵐の嬌声は仔犬の甘え声のような掠れた呻きに変わった。光彦の腰が、もぞりと動く。
「……今なら俺、二秒でイけるぞ」
「さっきからうるさい、光彦」
「すましてンじゃねぇよ、勃ってンだろ?」
「わ、ば馬鹿ッ!」
 背後から伸びてきた大きな手に股間を撫で上げられ、純生は、反射的に光彦の鳩尾に右ひじをねじ込んだ。光彦にとっては蚊に刺されたようなものなのか痛がりもせず、「ほらな?」と勝ち誇ったように純生の耳元で囁く。図星を突かれた恥ずかしさに耳まで赤く染めた純生だが、「人のこと言えないでしょ?」と、反撃を忘れなかった。
 そんなやり取りの中、純生も、光彦も、一瞬たりともモニターから眼を離していない。
 嵐の手の動きは速まり、細い腰は揺れ始め、規則的な衣擦れの音に湿り気が混じる。紅潮した顔が苦しそうに歪み、左手が仰臥した嵐の薄い腹の上を滑る。嵐は、胸元までTシャツを捲り上げた。露わになった乳首を摘むように弄いながら、性器を一気に扱き上げる。こめかみに光るのは汗なのか涙なのか判別できない程の画質であったが、嵐の限界が近いことは充分に伝わってきていた。
『……ク、……ンン……ッ――』
 嵐は顎を高く引き上げ、胸を弓なりに反らせた。きゅっと噛締めた唇で呼吸さえも殺してしまっているのだろう、達する時の声は無い。先端を押さえた指の隙間から溢れた液体が、ビクンと全身に震えを走らせるごとに、一筋、また一筋と、嵐の鳩尾に白線を描いていった。

 乱れた息を整えるためか、モニターの向こうの嵐が大きく深呼吸した。あるいは溜め息だったかもしれないが、どちらにしても、ピンと張り詰めていた純生の部屋の空気が弛緩する切っ掛けとなった。光彦は、モニターから引き剥がすように視線を外すと、辺りをきょろきょろと見回した。
「純生。……ティッシュ」
「え……えぇ? やだ、家に帰ってからにしてよ」
「我慢できるか。ティッシュだ、ティッシュ。今の俺に絶対必要なアイテムだ」
 他人事では片付けられない事情もあり、諦めた純生は、少し離れたところにある勉強机へと目線で光彦を導いた。目的のものを手にした光彦は、部屋の中心に敷かれたパイル地のラグまで取って返し、どっかり胡坐を掻いた。ジッパーを降ろしながら顔だけを純生に向けて、にんまり笑う。
「一緒にやっとくか? このままじゃ作戦もねぇだろ」
 お茶にでも誘うかのような口ぶりに露骨な不愉快さを見せながらも、純生はモニターの電源を落として立ち上がり、
「……こっち見ないでよ」
 そう言って、光彦に背中を合わせるようにして座った。



「……うー……なにやってんだ、俺……」
 余韻より先に虚しさがこみ上げてきた嵐の独り言は、自棄的に吐き出されたものだった。嵐は、頭だけを起こして下半身を見た。へその辺りに溜まった精液の向こう側には、萎え始めた愚息。最早、呆けた溜め息しか出てこない。自慰の事後処理ほど間抜けなものはないのだ。ガラステーブルの上のティッシュボックスに一瞥を投げ、また脱力して床に頭を落とした嵐は、僅か一メートル先のティッシュに手を伸ばす気力も出ないほどの虚無感に襲われていた。
 嵐とて人並みに性欲はあるが、今となってはいっそ自慰のほうが楽だとすら思えてしまうのだから重症である。羞恥も焦燥も劣等感も無く、なによりあれこれ考えなくて済む。だが、光彦と純生の狭間で揺れ動いている嵐の心の深奥に、一つだけ、鋼でできたような塊りがあった。
 二人を――光彦と純生を、失いたくない。
 プラトニックな関係でいられるのかどうか、自問するまでもないことであった。

 嵐の頭のなかに、ある単語がぽっかりと浮かび上がった。あの日の朝、純生が言っていた言葉。それは、嵐が性質の悪い冗談だと一蹴した言葉であった。
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