リトル・イタリー
自由の女神像を見上げながら、コートニーは「ね、来てよかったでしょう?」と、愛生に言った。凍てついた風の吹く十一月の初旬、ニューヨークでサークル・ライン(観光フェリー)に乗ろうというのは、物好きな観光客くらいだ。
南には自由の女神像、北には高層ビル群が眼前にそびえ立ち、確かに壮観な景色だが、そもそも愛生は、観光を楽しむような性質ではない。
今年最期の定例報告会、いよいよ大詰めかと、愛生は不測の事態に備えて余裕を持ったスケジュールを組んでいた。報告会は、予想に反して順調に日程を消化し、ある日ぽっかり、丸一日暇になってしまったのだ。
研究チームのドクター、コートニー・ケントが、
「ホミは何度もNYに来ているけど、観光したことないでしょう?」
と、唐突にマンハッタン観光を提案してきた。
グリニッジ・ヴィレッジあたりで本場のジャズを聴きながら、昼間からバーボンのグラスを傾けるのもいいかと、ぼんやり考えていた愛生だったが――プロジェクトに参加してから一年、親睦という親睦をしたことがない。これも良い機会だと、コートニーの誘いを受けることにした。
マンハッタン島をぐるりと一周し、三時間のクルーズですっかり凍えている愛生の様子を見て、
「この程度で寒がってたらニューヨークでは生きていけないわよ」
と、コートニーが笑った。
彼女は、きっちりとショートボブに切りそろえられたストレートの赤毛が印象的な背の高い美人で、サバサバとした性格の割りに、所々でさり気無い気遣いを見せる大人の女性だ。
絶対見ていかなきゃ駄目、とグラウンドゼロに案内された後、次はどこに行きたいのかと尋ねられ、間髪入れずに「うまいものが食いたい」と、愛生は答えた。
肌を刺し貫くような冬風の吹き荒ぶ中、これ以上歩き回ることは、すでに苦痛でしかなかった。
「リトル・イタリーでとても美味しいロブスターが食べられるの。バワリーを通るからイエロー・キャブを拾うわね」
そう言って、コートニーは足早に歩き出した。コンチネンタルに辟易としていた愛生に、イタリアンはありがたかった。日本人の舌に合う上、八割の確率で当たりだ。
タクシーは、渋滞気味の道路をノロノロと進んでいた。突然、クスクスとコートニーが思い出し笑いを漏らした。
「ホミって不思議な人ね。ディベート中、殆ど発言しないクセに、一段落するのを見計らったように、皆が考えてなかったような意見を言うの。最初、皆は大声で反論するんだけど、それを器用に受け流して……あの時のベンの顔ったら……可笑しいわ」
「そうですか? 日本人だから……苦手なんですよ、ディベートって」
「ねぇ、私より背の高い東洋人って初めてなの。一月の報告会でも時間を作ってデートしましょうよ」
愛生は、これはデートだったのかと内心驚きながらも、是非、と極上の笑みをコートニーに返した。
マルベリー・ストリートにぶつかったところで、二人は歩いた方が早いと判断し、タクシーを降りた。
道の両側にズラリと並んだイタリアン・レストランからは舗道までテーブルが溢れ、雑然とした賑わいを見せている。路地を曲がり、ソーホーに向かって五分ほど歩いたところで、ここよ、とコートニーは足を止めた。
庶民的なパスタ屋を想像していた愛生は、門前に立って唖然とする。コートニーが、オフでもスーツを着てくるよう言った訳を、今更ながらに理解した。星三っつと言われても納得してしまうだろう、重厚な雰囲気をかもし出す店構えだ。
天井は高く、オフホワイトの壁には中世アンティークのタペストリー、アールデコ調の調度品と間接照明で彩られたシックな店内の中央には大きなフラワーアレンジメントがあり、生のピアノ演奏がしっとりと流れていた。
「せっかくだから本当に美味しいものを食べなくちゃね。ワインには煩いほう?」
「ワインも料理も、おまかせしますよ」
格好をつけて知ったかぶりをするより、常連に注文してもらったほうが間違いなく美味いものが食べられる。今日一日、コートニーに主導権を握られっぱなしで、男として情けなく感じていたが、愛生に分かるのは日本酒と焼酎の銘柄くらいだった。料亭より小料理屋、居酒屋よりそば屋で、とりわさをつつきながら辛口の冷酒をチビチビやるのが好きな庶民派なのだ。
所在無さげにしている愛生を横目に、コートニーは、メニューをめくりながら機関銃のように早口な英語で、次々とオーダーしていった。
テイスティング用のグラスを傾けたコートニーは満足げな微笑を浮かべた。それを合図に、ソムリエが二つのグラスに白ワインを注ぐ。乾杯すると、音叉を弾いたような金属音が、心地よく響いた。
気の利いたアメリカ風のジョークを交えながら、小気味良く会話を進めるコートニーに、愛生は、笑顔で相槌を返しながら静かにグラスを傾けていた。テーブルには、美しく盛り付けられた極上のシーフードが次々と並べられていった。
「味はイタリアンだけど、店は高級フレンチみたいですね。美味しいです」
「シェフはフレンチ出身だから、どちらかというと創作イタリアンかしら」
へぇ、と曖昧な返事を返したところで、愛生のシルバーを持つ手がピタリと止まった。
店の最奥、一段高くなった床の上に置かれたテーブルには、その周りを囲むようにしてフレンジを縫い付けた濃茶のドレープカーテンが垂らされていた。
ピアノの音とコートニーの声が次第に遠退いていく。愛生は、カーテンの奥から覗いた金色の影に目を奪われていた。
忘れられない映画のワンシーンのように、幾度も頭の中で繰り返し再生されたスローモーションの映像がフラッシュバックした。成田での出来事から三ヶ月間、日を追う毎により鮮明に映し出される、陶器製の人形の蒼い瞳が妖しくゆらめく、あの、映像。
「――ねぇ、聞いてる?」
「……えっ? あ……」
ガタリと音を立てて席を立ち、愛生は落ち着きなく周囲を見回した。食事中、ありえないマナー違反に、唖然と己を見上げるコートニーに、愛生は気遣う余裕すらない。
「し、失礼。急用を思い出して――電話してきていいかな?」
「ハリウッド・スターでもいた?」
気にしていないわ、と言いたげに艶然と笑って、コートニーは「いってらっしゃい」と、手のひらを蝶のように泳がせた。
拳をきつく握り締め、エントランス近くにあるガラス張りの電話ブースを目指して足早に歩く――あそこなら、カーテンの奥が良く見える位置に立つことができるはずだ。
ブースに入るなり、ポケットを漁ってコインを探してみたが、クロークに預けたコートの中だった。どの道、かける先は無い。
愛生は、コートニーを気にしながらコインを入れる素振りだけをして、適当な番号をプッシュした。
そして、カーテンの向こうに目を凝らす。
――間違いない、あの少年だ。
煩そうだった前髪を後ろに流し、遠目にもオーダーと分かるスーツに身を包んでいたが、確かに、飛行機で乗り合わせた少年だった。
少年は、両の手足をだらりと投げ出して、あの時と変わらず生気のない眼差しで、ぼんやりと虚空を仰いでいた。時折、思い出したようにフォークを持ち料理を突付いているが、口に運ぶ気配は無い。
傍らには、少年の細い肩に手を回すように、長椅子の背凭れに腕を掛けるイタリア人らしき恰幅の良い男。もう一人は、見覚えのある東洋人だ。サングラスこそ掛けていないが、そのシルエットは空港で愛生の腕から少年を奪っていったベンツの男――新実匡次のものに間違いはなかった。
愛生が電話ブースに入ってから数分と経たずに、三人は席を立った。
こっちに来る。
新実を気にして、愛生は顔を伏せた。だが、少年の一挙一動を見逃すまいと、眼は見開いたままだ。彼らがクロークでコートを受け取る間、少年と愛生との距離は五メートルに満たなかった。
突如、激しい衝動が、愛生の内側から沸き起こった。
すぐさま彼を呼び止めて、語りかけ、ほんの一言でもその口から言葉を聞きたい――声は? 表情は?どんな風に笑う――?
しかし、伏せられた瞳は、あの時と同じ――まるで感情の無い人形だった。
愛生は、この衝動が何を意味するのか理解した。
少年の瞳は、脳死状態に陥った成水と同じだった。心臓は脈打ち、肌は暖かい。ともすれば眼球も動くが、瞳に輝きは無く情動の欠片も示そうとしない――突然の交通事故で逝ってしまった、未だ愛して止まない弟、成水の、死の直前の眼差しと。
成水の記憶と、目前の少年が錯綜し、愛生の意識は霞がかかったようになる。遠ざかっていく少年をその双眸に映しながら、愛生は微動だにできず立ち竦んでいた。
彼が完全に視界から消えたのを待ちわびたように、スーツの合わせ目を固く握り締めていた拳の上に、ポタリと何かが落ちた。
愛生は、泣いていた。