成水の記憶-1-

  『あの日』から、愛生は重い十字架を背負っている。
 成水の小さな体が夕暮れの空に舞った、十四年前の『あの日』から――。

 成水は、愛生より五年遅れて、この世に生を受けた。
 乳幼児の頃に《小児喘息》と診断されたその瞬間から、家族の生活は一変し、成水を中心に回り始めた。家の床は全てフローリングに改装され、父は煙草を止め、飼っていた白い子犬は親戚の家に貰われていった。

 可愛がっていた子犬が、車の後部座席から悲しげな鳴声を上げたとき、六歳だった愛生は「シロを連れて行かないで」と、大声で泣きながら母に縋った。
「愛生はお兄ちゃんなんだから、我慢してね……ごめんね」
 母は、そう言って愛生をきつく抱きしめた。そのときの母の悲痛に歪む顔と、子犬の黒い瞳の残像は、今でも愛生の瞼に鮮明に焼きついている。

 成水は、アトピーと酷い食物アレルギーを合併していた。
 成水が入院すると、母はほとんど付き切りで看病に追われる。愛生は、祖母の家や託児所に預けられる度に、成水に母親を取られてしまったような、たまらなく淋しい気持ちに苛まれた。

 やがて、ハイハイを始めた成水は、何故だか愛生のあとばかりを追って家中を這いずり回った。まるで、まだ眼の開かない子犬が、母犬の臭いだけを頼りにその姿を捜し求めるような一途さで。
 成水は可愛い――しかし、愛生を追い回して、登れない階段の前で泣いたり、テーブルの足に頭をぶつけたりして、いちいち手を煩わせる幼い弟を、遊びたい盛りの愛生は半ば鬱陶しく思っていた。
 母は、拙い二人の追いかけっこを、幸せそうに見つめていたが。

 ある日のこと、新と公園で遊ぶ約束をしていた愛生は、居間にいる母に成水を預けようと、その身体を抱き上げた。途端に、成水は眼を見開いてはしゃぎ、満面の笑みを顔中に広げて、愛生の頬を小さな手で撫でた。
 何かに漂白されたような、邪心の欠片も無い笑顔だった。
 愛生が抱き上げるたびに成水は笑った。いつもの笑顔、何気ない仕草――だがその瞬間に、愛生の奥深くに凝り固まっていた母への執着と、弟への嫉妬心は跡形もなく溶解した。胸一杯に愛おしさが込み上げてきて、愛生は考えるより先に、成水を力いっぱい抱きしめていた。


 成水の症状が比較的安定していた四歳のとき、事件は起こった。
 母が二人を家に残し、近所の商店街に買い物に出かけているほんの僅かな間に、成水が重度の発作を起こしたのだ。

 留守番をしながら居間でテレビを見ていた時、成水が、突如激しく咳き込んだ。
 成水の発作は幾度も目の当たりにしてきた。母はいない。すぐにでも気管を広げなければ、成水は窒息死してしまう。
 愛生は、母親に教えられていたように、柱のフックから紐でぶら下げられているL字型のケースを取った。いつも成水が使うケースとは色が違う、薄いピンクのケースを二、三度振り、成水の口に含ませた。しかし、酷い喘鳴で呼吸すらできない成水に薬を吸入する力はなく、見る見るうちに唇は暗藍色に変わっていった。苦しげに喘ぐ成水を前に、愛生は、為す術も無く佇んだ。ついに成水は、ヒュウ、と咽から細い息を吐いて、ぐったりと意識を失った。

 成水が死んでしまう。
 途轍もない絶望感が、全身を慄かせた。
 咄嗟に、裸足のまま玄関から飛び出すと、愛生は悲鳴にも近い叫び声を上げた。

 ――誰かッ! 誰か助けてッ! 成水が……成水が死んじゃうッ――!


 愛生は、健康な己に比べ、酷く弱い命を与えられた成水を守るのを、使命のように感じていた。

 偶然通りかかった女性が、幸いにも近所で開業している小さな医院に勤務する看護師で、応急処置から救急車の手配までテキパキとこなし、成水は辛くも死を免れることができた。

 病院にかけつけた母は、幼い息子の蒼白な顔を一目見るなり恐慌状態に陥り、自らを責め立てるような言葉を叫び連ねた。見兼ねた医師が、母に鎮静剤を処方したが効果は薄く、二時間ほど遅れて父が病院に訪れるまで、母の自責の言葉は続いた。
 錯乱した母の言葉ひとつひとつが、尖った氷の塊となって愛生の身体を刺し貫いた。


 この事件以降、愛生は、喧嘩に明け暮れる日々を送るようになる。
 『強い男にならなければ』という強迫観念に追い立てられ、いつも愛生は苛立っていた。目があったとか、肩がぶつかったとか――そんな、ほんの些細なことで相手に飛びかかっていった。
 ひとつ切っ掛けがあれば、次から次へと相手が現れる。
 相手が集団で愛生の形勢が不利と見ると、新が加勢した。新は、この勘違いともいえる愛生の豹変ぶりに呆れながらも、「俺も付き合ってやるよ」と笑って、片時も離れず傍にいた。

 近所の子供たちと楽しく遊ぶことも無く、入退院を繰り返し幼稚園にもほとんど通園できなかった成水は、酷く引っ込み思案で、どこに行くにも愛生の後ろに隠れるように歩いていた。そんな成水を愛生は溺愛し、また新も、まるで自分の弟のように可愛がった。

 成水が小学校にあがる頃には、普通に学校生活が送れる程度まで病状は改善されていたが、体育も休みがちで、たまに咳き込んでは薬を吸入している成水を教師は特別に扱い、クラスメイトたちは遠巻きに見ていた。
 休み時間に楽しく校庭で遊ぶことが許されなかった成水は、いつも教室の片隅でひっそりと本を広げていた。
 母親似のどこか少女めいた顔立ちと、声をかけると俯き照れながらもクシャリと顔を歪ませる愛嬌のある成水の笑顔は、クラスメイトたちの眼に魅力的に映っていた。やがて数人の女子生徒や読書好きな男子生徒が、成水の席を訪れるようになり、成水は少しずつクラスに溶け込んでいった。


 愛生が中学校二年生の時、母親が他界した。

 発見されたときはすでに、手の施しようが無いほどがん細胞が母の全身を蝕んでいた。余命二ヶ月――父にとっては、この上なく残酷な医師からの宣告だったが、母は己の死期を知っていたかの如く冷静に受け止め、一切の延命治療を拒んだ。
 まだ幼い成水には、母の病状は知らされなかった。愛生は、母と共に過ごせる時間が残り少ないことを父から聞いていた。

 成水と手を繋ぎ、母の入院先の総合病院に通う日々。 特別な治療を施すわけでもなく、薬で激痛を散らしながら死を待つだけの母は、二人が訪れるたびに、およそ病人らしくない、とても綺麗な笑顔で迎えてくれた。
 病院のすぐ傍に、よく整備された大きな公園があった。
 三人は芝生を踏みしめ、ゆっくりと歩き、時に顔を見合わせては笑顔を交わし、噴水をぼんやり眺めたり、池の鯉にえさをあげたりして過ごした。母の死期が近いことを愛生に忘れさせるほど、優しく時間は流れた。

 母が入院して、二ヶ月半が経過したある日、授業中の愛生に教師から声が掛かった。無言で学生カバンを手にした愛生の背後から「俺も行きます」と、新が声を上げた。
 覚悟は充分にしていた。だが、いざ『その時』が訪れると、足が竦んで思うように歩くことができない。新は、鼓舞するように愛生の肩を力強く抱き、タクシーの待つ学生玄関へと導いた。

 病室の様子は、一変していた。中央に置かれたベッドから何本ものチューブやコードがのび、看護師が慌しく出入りする。ベッドサイトの暗いモニターは、硬質な機械音とともに母の弱い心臓の音を投影していた。
 母は青白い顔をしていたが、その表情は安らかだった。傍には、両手でしっかりと母の手を握り締めている父と、不安そうにその顔を窺い見ている成水。
 看護師が小さな丸椅子を用意してくれた。新に軽く背中を押され、愛生は丸椅子に腰掛けた。気配に気付いたのか、薄っすら眼を開けた母はゆっくりと愛生に顔を振り向け、儚げに微笑んだ。

 「愛生は……お兄ちゃんなんだから、成水をお願いね」

 眉を引き締め、愛生は力強く頷いた。
 母は、ベッドに縋りつくようにしてじっとしている成水に手を伸ばし、眼を細めて愛おしげに、その頬を幾度も、幾度も撫でた。やがて、糸が切れたように母の腕はだらりと垂れ、そのまま昏睡状態に陥った。

 はっきりと死を告げる医師の言葉を聞いた途端に、成水は大声で泣き出した。愛生も、こみ上げてくる涙をこらえることができなかった。
 父の頬にも、ほんの一筋、光るものが伝った。
PAGETOP