成水の記憶-2-

 冷蔵庫の扉に貼ってあるレシピのメモ、籐製の籠に入れられた片袖の無いセーター、母の匂いの残るクローゼット、洗面台に陳列された化粧品――全てのものが在りし日の母の姿を滲ませていた。しばらくは父も、愛生も、成水も、笑うことを忘れてしまったように、ただ過ぎ行く季節を見送っていた。

 母が他界してから約一年の歳月を経て、家族三人はようやく、ぽつりぽつりと母との思い出を語りだした。それから僅か二年後に、成水も母と同じ場所に逝ってしまうなどと、思いも寄らず――。


 愛生、高校二年生。成水、小学校六年生。

 愛生と新は、学校帰りに小さなドブ川に掛かる橋の袂に腰かけ、新任の体育教師の胸が大きかったとか、C組の何某が女を孕ませたとか、そんな取るに足らない会話を交わしながら、二人で煙草をふかしていた。

 夕陽が、辺り一面を橙色に染め上げている。普段、淀んでいるドブ川の水面がキラキラとさざなみ立つ様は、どこか現実味に欠ける美しさがあった。

 ――お兄ちゃぁーん

 耳慣れた弟の呼び声に、愛生は辺りを見回した。
 川の反対側から、成水がぶんぶんと手を振りながら、小走りに走っていた。

「これから塾かぁ? あんまり走るなよぉ!」

 愛生は笑みを返し、軽く手を振った。成水は、反対側の堤防から身を乗り出し、折りたたんであった小さな紙片を両手で広げて、愛生に掲げて見せた。

 ――あのねぇー、今日ねぇー……

「なにー?」
 成水の声は、橋上の道路に行き交う、車の騒音に掻き消された。
 愛生が、聞こえないよ、と言いたげに首を傾げて、手のひらを耳に当てると、成水は焦れたように紙片をくしゃりと握り締め、再び駆け出した。
 橋へと続く細い階段を登る直前で、成水は今一度、愛生に向かって大きく手を振った。

 突如、断末魔の悲鳴のようなブレーキ音が轟いた。

 恐ろしい戦慄が、愛生の身体を突き抜け、激しい耳鳴りと同時に一切の聴覚を失った。
 鮮やかな橙から紫黒色へと、グラデーションに彩られた薄暮れの空に、成水の小さな体が、高く、大きな弧を描いた。

 ――何が起こった? 一体何が……

 
 新は、俊敏に堤防から飛び降りると、真っ先に駆け出した。
 橋の方角に体をひねった無理な体勢で放心している愛生を振り返り、新が叫ぶ。
「なにやってんだ、愛生! 早く来いッ!」
 愛生の耳に、その声は届かない。頭の中に、繰り返し木霊のように母の声が響いていた。

 ――愛生は……お兄ちゃんなんだから、成水をお願いね――

 周囲の雑音が、緩やかに溶明した。愛生はズルリと堤防から降りると、機械仕掛けの人形のように、ぎくしゃくと歩き出した。少しずつ歩速ははやまり、気付かぬうちに全速力で走っていた。

 成水は、耳と鼻から深紅の血を流し、アスファルトの上に横たわっていた。血溜まりが、成水の頭を中心に四方へと広がっていく。
 半分開かれた瞼から覗く双瞳は、夕陽の方角に向いていた。成水の眼差しは一切の情動を捨ててしまったように、空虚だった。

 音を聞き集まってきた見物人や、救急車の赤い閃光が愛生の眼前で錯雑とする。
 愛生のがらんどうの頭の中に、誕生日に母の作ったケーキを前に幸せそうに微笑む成水が、初めて買ってもらった自転車を上手に乗りこなせず泣いていた成水が、そして、つい数分前に、元気に手を振っていた成水が、次々と映し出された。
 成水を轢いて走り去ってしまった車のことなど、考えに一片もなく。

 愛生は、がくりと両膝をアスファルトに付いた。母がかつてそうしたように、成水の頬に震える手を伸ばし、優しく撫でた。

「……なる…み……? こんなところで…寝ちゃだめだ……」

 成水の手には、ピンク色のペンで『大変良くかけています』と走り書きされた原稿用紙がしっかりと握られていた。夏休みに一生懸命書いていた、読書感想文だった。


 成水は『脳死』と診断された。植物状態とは異なる、脳死は『死』と同じ意味を持っていた。事故から十六日間、成水の心臓は律動の音を刻み続け――十七日目に、止まった。

 ――愛生は……お兄ちゃんなんだから、成水をお願いね―― 


 四角い木の箱に収められた成水を、母と同じ場所へ送り出してから二ヶ月。
 愛生は、登校し始めてからも変わらず、毎日昼食後に、屋上の給水タンクの裏で煙草に火を点けた。新は何も言わずに傍にいた。
 群青に暗灰色のヴェールをかけたような冬空に浮かぶ小さな雲をぼんやりと見上げながら、ポツリと愛生が呟いた。

「俺、医者になる」

 その一言は、まるで宣誓のように聞こえた。
 新は、母や成水の墓前に告げるより、父親に告げるも先に、自分に告げたのだろうと確信した。

「――うん」

 煙草の先から立ち昇る白く歪曲した線が、やがて淡く薄く、空の雲へと滲んで消えていった。
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