予感

「山岸、今日はもう帰っていいぞ」
 そう声をかけられるまで、山岸は腰を折って深く頭を垂れていた。
 老松は、準構成員を含めれば優に二千人を超える指定暴力団、宇田川会の大幹部として暗黒街にその名を轟かせている男だ。斯界の末端にいる山岸にとっては、天上人に等しい。
 
「――新」
 老松は、新に向かって人差し指でクイクイと天井を指差してから、部屋を出て行った。

 外観は廃墟のような雑居ビルだが、五階の一室だけは異空間だった。
 美しくリフォームされた室内は、壁という壁が取り除かれ、八十坪ほどの広いパーティルームになっていた。
 天井からは豪華なシャンデリアが垂れ下り、壁沿いにぐるりと革張りのソファと大理石のテーブルが配され、チーク材に緻密な彫刻の施されたバーカウンターとビリヤード台、バカラ台まである。
 ほとんどの窓は防音のため塞がれていたが、換気は万全に為されていて、空気は澄んでいる。全体が涼感ある淡いグリーン系のインテリアに統一されているため、圧迫感も無い。
 この豪奢な部屋は、組織の幹部が催す秘密のパーティーのために用意されたものだった。

「番犬も連れずに登場か……珍しいな」
「お前に会うときは、大抵一人じゃねぇか」
 新は、唯一開くことの出来る小窓から、聳え立つ高層ビル群の明滅する灯りを眺めていた。
 老松は、背後から新の両脇下から手を差し入れ抱き寄せると、首筋に口付けた。肩口から耳朶まで、軽く歯を立てながら食み、新のシャツのボタンを外していく。
 心ここにあらずといった風情で、新は気怠げに老松の愛撫を受けていた。

 不意に顔を上げ、老松が新の横顔を窺い見た。
「どうした?――あのビデオ、興奮しなかったか?」
 情欲を煽り立てるように、新の耳元で囁く。
「……赤い髪の……戸田栄進(トダ エイシン)がいたな。新実ンとこの」
 そう言って向かい合うと、老松はすかさず新の顎をすくうようにして、唇を重ねた。首を振って逃れようとする新の顎を捕らえ、老松の舌は縦横無尽に新の口腔内を犯す。
 新は、されるがままにその舌を受け入れていたが、眼差しは冷めていた。腰に回されていた手が、脇腹をなぞって肌蹴た胸元に滑り込んだ刹那、強引に身を捩って老松の腕から逃れた。

「……やめろって……久々にデカいヤマがあるっつーから来てみれば……いきなりサカんなよ」
 どこかいつもと違う空気に、老松は詮索するような視線を向けた。シャツの袖で唇を拭い、凝視から逃げるように俯く新に、老松はやがて諦めたように溜息を吐いてから、バーカウンターに向かった。
 バーボンとグラスを取り、「まぁ、座れ」 と、ボトルの底でソファを指した。
「あの金髪……なンなんだよ?」
 新の声は低く、真剣さを含んでいた。老松は、ボトルのキャップを捻りながらソファにどっかりと座り、琥珀色の液体を二つのグラスになみなみと注いだ。
「アメリカってのは何でも売ってる国でな。買ったんだよ、アレは。有名な政治屋があの金髪に入れ揚げちまって、最初はそいつが欲しがる度に高い金払ってわざわざ呼び寄せてたんだが……」
 いくつものキーワードが合致した。新は、愛生の言っていた『金髪』は、間違いなくビデオの少年と同一人物だと確信する。
「……お偉い先生がイカれるほど、あのガキってすげぇの?」
「キッズポルノ・スターってやつだ。あっちじゃ巷でカリスマ、日本でもマニアにはそこそこって話だ。八歳ん時から無茶やられてアタマのネジはぶっ飛んでるらしいがな。十五で賞味期限切れだってから、安く買い上げたんだ。……つっても、億以上の金が飛んだんだぜ。すげぇだろ?」
 へぇ、と感心したように相槌を打ってから、一呼吸置いて、
「手土産は、ケツん中のヤクか?」
 新は、抉るように老松を見た。

 口元までグラスを運んでいた手が止まり、老松は途端に厳しい表情になった。しばらくは射るように新の眼を睨んでいたが、ふと、スイッチが切れたように緊張を緩め、老松はバーボンを一口、含んだ。
「……ありゃヤクじゃねぇよ、タダのゲームだ。その政治屋がちょっとS気味でなぁ、媚薬とサオの張子を後ろにぶっこんで、十三時間耐えさせたんだ。その様子を見張りにビデオを撮らせてさ、あとで鑑賞会って寸法よ。――えげつねぇよなぁ、もう七十過ぎのジジィだってのに」
 老松は、ほんの世間話と言いたげに、わざと冗談めかした口調を装った。切った張ったの斯界に於いて幹部まで登りつめた百戦錬磨の男だ。表情からは、その言葉が真実かどうかは判断できない。
「きっとあン中には、白髪の神藤(シンドウ)もいたんだろうな。新実の舎弟はコンビでホモかよ」
 そう吐き捨てた新に、人のこたぁ言えねぇよ、と笑いながら、
「奴等は新実がヤれっていや男でも掘るし、殺せって言えば殺す。死ねって言ったら喜んで死ぬ連中だ」
 と、何ほどのことでもない、と言った調子で老松は答えた。

 新はソファに身を投げ出して、無言で天井を仰いでいる。老松はそれとは悟られないように、新を盗み見ていた。
 考え込んでいる、というより追い詰められたような表情をしている、と老松は思った。少年と新実の部下に拘る理由を問いただしたい気持ちを抑えて、老松はバーボンを呷った。訊いたところで、何も答えは返ってこないだろうことは予測の範疇だ。

 テーブルの上のグラスをスッと取ると、新は、老松を見下ろすように正面を立ち塞いだ。
 右手でグラスを高く掲げ、にやりと挑戦的に笑った後、それを自身の咽元に当て、ゆっくり傾ける。溢れ出た液体は、淫靡な光を放ちながら新の胸元を伝わり、シャツを湿らせて股間まで届いた。
「……酒が飲みたいなら、あっちヘ行こうぜ。代走の話もそこで訊く」
 唐突に態度を豹変させて、冷笑を口辺に刻んで妖しく誘う新を、老松は唖然と見上げた。その顔は、すぐに苦々しい笑顔に変わる。
「相変わらず、お前は滅茶苦茶だ」
 独り言のように呟くと、老松はバーボンのボトルを肩に担ぎ、立ち上がった。
「俺はな、お前のそういうところに惚れてンだよ。十三年前からな」
 肩を抱き寄せ、別室に用意されているベッドへと、老松は新を誘った。

 ――あの金色を見たときから、嫌な予感がしていた。とても嫌な予感が。
 新は、不安に軋む心を無理矢理押さえつけるように、老松の腕に身を委ねた。
PAGETOP