新の事情

 十三年前――。

 新宿二丁目の小さな公園で、植え込みを囲む柵の上に腰掛け、新はじっと通りを行き交う人々を眺めていた。
 入れ替わり立ち代り新に声をかける男が現れるが、チラと見てすぐまた通りに眼を向けるか、あるいはまったく視界に入っていないように反応すらしないかのどちらかだった。
 新は、ある探し物を見つけに、夜の帳が下りたこの新宿二丁目の公園に通い詰めていた。

 新は、いわゆる被虐待児童だった。餓死寸前の状態で近所の主婦に通報され、愛生の家の近くにある保護施設に入所したのは、新が四歳の時だ。
 父親は、新が保護された直後に精神病院に入院し、母親は育児を放棄した。
 新の身体には暴行の痕跡は無かった。ただ、徹底的に両親から無視されたのだ。発見された時、義眼のように沈んだ眼をして、庭の植え込みの間に放心して痩躯を横たえていたという。

 引き取られた先は、一般的な住宅に毛が生えた程度の、ごく小規模な施設だった。猫の額ほどの庭には、砂場も、遊具すら無かった。子供達は、近くの公共公園で遊ぶことが許可されていた。
 新は、その公園で愛生と出逢った。
 幼児期に親から与えられるはずの一切を知らずに四歳まで育った新は、形骸と化していた。その空洞の自我に、愛生の無邪気な笑顔は優しく浸透し、新は初めて、己が『人』として存在していることを意識することができた。そのせいか、物心ついた頃には、愛生が己の世界の中心だということを、新は自覚していた。

 あの日――母を失った悲しみに耐える愛生の涙を見たとき、新の全身を、ある衝動が貫いた。
 抱きしめて、優しく愛生の唇を吸い、慰めたい。
 その瞬間新は、同性の親友に猛烈に恋しているのだと、気付いた。

 愛生は医学の道を志し、勉強に明け暮れる毎日を送っていた。幼少の頃から十七歳の今まで、片時も離れず時間を共有してきた親友と、ある日突然分かれた道。まるで半身を鋭利な刃物で切り裂かれたような苦痛を伴う強烈な喪失感が、新を自棄にさせていた。
 親友と同じ道を目指すことを幾度も考えた。
 母親の行方は知れず、父親は変わらず入院中で、祖父の残した僅かばかりの遺産でようやく高校に入れた新には金が無かった。何より、弟を眼前で失った贖罪を、その一生を架けて医に殉じることで果たそうとしている親友の悲壮な決意に、自身の穢れた欲望を抱いたまま追い従うことは罪だと思えた。

 新は、『愛生』を探しに、新宿に通い続けた。
 そして、二十二日目に『男』を見つける。

 通り向こうに、背の高い男の影を見つけて、新は眼を見張った。三週間の間、定位置となっていた柵の上から飛び降り、しばらくは微動だにせずその影を注視していた。
 ――見つけた。
 そう直感して、腹の底から湧き上がる歓喜の波動を捻じ伏せるように、両拳を握り締める。新は目標に向かって走り出していた。
 新に一抹の冷静さが残っていれば、その足を止めたかもしれない。男は、チンピラを絵に描いたような柄の悪い連中をぞろぞろと引き連れ、颯爽と肩で風を切っていた。通行人は、一団を見て取るや顔を伏せ足早に通り過ぎていく。逃げこそすれ、近付いていく者は一人としていない。

 一団を一気に追い越し、男の正面に立つと、四人の下っ端らしき男達が「なんだ、テメェは?」と身構えた。
「おっさん――男が好きなら、俺を抱いてみねぇ?」
 中心で偉容を誇る男は、眼を丸くして新を見た。
 場所柄からいって、威勢の良い客取りと判断するのが筋だ。しかし、男娼の類には見えない高校生であろう新を、男は頭の天辺から足の先まで舐めるように見た。衣服を通り越し生皮まで剥ぐような男の視線に射竦められそうになり、新は両足に力を込めた。首筋に冷たい汗が滲み出る。

 間近で見た男は、『おっさん』と呼ぶほどの歳ではなく、十七歳の新より一回り上、といった印象だった。いきなりの失態に、心中で畜生、と悪態を吐く。だが、ようやく探し当てた男だ。逃すわけにはいかなかった。
 取り巻きの罵声が飛び交う中、新はシャツのボタンを外し胸元を肌蹴させると、然して長くもない髪の毛を両手で掻きあげ、顎を引いて首筋を男に披露した。およそベッドへ誘っているとは思えない、挑戦的な笑みを口辺に刻んで男を上目で睨む。
「金はいらねぇし、初めてだから病気もねぇよ。おトクだろ?」
 男は目を細め、悠然と胸ポケットからダンヒルを取り出し一本咥えた。取り巻きの一人が、すかさずライターに火を点し、男の口元に運ぶ。

「……なぁ、ダメか?」
 気焔を吐いていた新の表情に、哀願の色が滲んだ。
「老松さん、コイツちょっとおかしいですよ」
 こめかみのすぐ横で、くるくると人差し指を回しながら取り巻きの一人が言った。それが合図かとでも言うように、老松と呼ばれた男は高らかに笑い出した。舎弟たちはぽかん、と口を開けてその様子を眺めていた。
 自ら初めてだと豪語し、上辺だけの威勢で誘惑する様は甚だ滑稽に映っただろう。増して、夜の相手に不自由したことなど無い、と顔に書いてあるような精強な男だ。高じる不安に、新の表情はさらに情けないものに変化していた。
 老松は、顔の造形こそ愛生とは似ても似つかない。野生の肉食動物さながらに、剥き身の刀のような鋭い空気を鎧の如く全身に纏っていた。だが切れ長の目元は涼やかで、そのアンバランスさが底知れない奥深さを新に感じさせた。

 老松は一頻り笑った後、真顔に戻ると新の顎を軽く掴み上げ、右に向かせたり上に向かせたりして品定めを始めた。羞恥に染まった頬は、暗がりに辛うじて隠されていた。
「ふうん、キレーな顔してんな。この辺りじゃ引く手数多だろう? 何で俺なんだよ?」
 顎に掛けられた手を払い落とし、
「アンタの立端と体付きに惚れたんだよ。テクはねぇけど、教えてくれれば……女になれる」
 言いながら改めてその行為に対する実感が湧いてきた。新の語勢はみるみる弱まり、語尾は聞き取れないほどだった。
 例え刹那の快楽であったとしても、求めて止まない親友の影を、なんとしても手に入れたかった。そうでもしなければ精神の均衡がとれないほど、新は追い詰められていた。
「――いいぜ。俺は別に男好きじゃねぇけど、お前は気に入ったよ」
 老松は、幼児に投げかけるような笑顔を作って見せた。

 初めての行為は、友を汚しているような計り知れない罪悪感と壮絶な肉体の痛みが、絶え間なく新を苦しめた。間中きつく目を閉じ、新は全身で愛生の影を追った。

 その後、甚く新を気にいった様子の老松は、放課後を持て余す新をあちこちに連れ歩いた。
 老松は間もなく新の博才を見出し、麻雀を教えた。一流の裏プロを講師に招き、ルール、役(ヤク)から始まり、置きサイ、すり替え、がん牌といったイカサマのやり方までも教え込んだ。新は、僅か二ヶ月半で、組織専属の《代打ち》へと成長する。
 半身を失い、生きているとも死んでいるとも実感できなかった新は、手のひらにすっぽり納まる小さな麻雀稗に命を賭けることに、何の抵抗も示さなかった。

 老松の期待を裏切ることなく、新は勝ち続けた。
 その連勝の記録と老松との関係は、十三年経った今も変わらず続いている。
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