老狸と、その犬

 飛行機で三回、リトル・イタリーで一回――四回にも及ぶ『偶然』は、愛生に五回目を期待させていた。手にした航空券は、朝一番のJFK空港から成田への直行便。愛生はそのチケットを払い戻し、最終便までキャンセル待ちをしながら、終日、微動だにせずチェックインカウンターを流れゆく人々の群れを眺めていた。
 新実が少年と行動を共にしている限り、少年が再び日本に訪れる可能性は極めて高い。しかし、それが今日なのか、明日なのか、また同じ航空会社を利用するのか――ニューアーク空港から成田へ向かうかもしれない。
 妄動も甚だしいと、愛生自身呆れていた。だが、咽元を締め上げられるような焦燥感に煽られ、今日一日少年の姿を探さずにいられなかったのだ。

 結局、少年は現れなかった。
 愛生は後ろ髪を引かれる思いで最終便へと続くゲートを潜り、何度目かの溜息を盛大に吐いてシートに腰を下ろした。やがて離陸を告げるキャビンアテンダントのアナウンスが流れ、機体はゆっくりと滑走を始めた。加速度を増す機体は、少しずつ愛生の身体をシートに押し付け、そして、突然その質量を開放した。
 キャンセル待ちで手に入れた席は通路側だったが、機体が大きく旋回した際に、連なる小さな窓からマンハッタンのパノラマが覗いた。
 あの光の中に、まだ彼はいるのだろうか?
 飛散した思考の断片に、金色の光が瞬く。
 
「ちょっと、その貧乏ゆすり、やめてくれませんか?」
 隣席の女子大生らしき若い日本人女性が、あからさまに不機嫌な顔をして愛生を睨んでいた。その一言でハッと我に返り、すみません、と小さく謝る。
 リトル・イタリーで少年に再会してから、愛生は完全に錯迷していた。遠ざかるニューヨークの夜景をぼんやりと網膜に写しながら、決して答えの出ない自問自答を繰り返している。
 彼を探して、俺は一体どうするつもりなんだ?――と。

 年が明け一月四日、外来の受付が再開した大学病院に活気が戻ってきた。愛生は、去年の暮れから病院の東側に併設されている医学部の研究室に篭り切りで、昨年の研究成果をまとめた報告書の作成に追われていた。
 今日、やっとのこと報告書が完成し、憔悴しきった顔で、脳神経外科のあるB棟七階の廊下を歩いていたその時、科長である橘教授に「穂海君、ちょっと」と呼び止められた。
「紹介したい人がいるから、午後一番に私の部屋へきなさい」
 昨年の夏頃から、橘がしきりに愛生の手がける研究の成果を人伝に探っていたことは、周囲の噂からなんとなく知っていた。呼び止められた理由は、ある程度想像がつく。
 無言で一礼だけ返して背を向けた愛生の背後から、
「無精髭、剃ってきなさいね」と、橘は声を掛けた。

 米国の大手製薬会社研究員と医師チームとの共同研究プロジェクトは、医局にとっても初めての試みであり、愛生がその代表に抜擢されたときは誰もが栄誉として称えたが、派閥に属さず庇護者のいない愛生が、結果を出せなければ無能と呼ばれ、その反対であれば全て教授の手柄となるということは当初から周知の事実だった。
 尤も、愛生は出世や栄誉にこだわる人間ではない。医大卒業後は「国境無き医師団」として発展途上の国に赴くつもりでいたが、父親の強堅な反対に合い諦めたという経緯があった。父は、派遣地で猛威を振るう数多の感染症によって愛生まで失うことを恐れたのだ。

 この研究に携わるようになってから、担当患者を持たない愛生は臨床医として実に中途半端な立場にあった。医局にも医学部研究室にもデスクは置かれていたものの、そのどちらも居心地の良い場所ではなかった。
 愛生は、熾烈を極める派閥争いや出世競争に辟易とし、己の目指した道がなんであったのか見失いかけていた。救いは、この二年間、研究そのものに没頭できたことぐらいだった。

「失礼します」
 科長室のドアを開けると、黒い革張りの椅子にゆったりと腰掛けた橘が、くるりと椅子を回転させて愛生に身体を向けた。木目調の重厚感あるデスクの傍らには男が一人立っていた。
「やぁ、わざわざすまんね」
「……いえ」
 橘はかぎ鼻の先に辛うじてひっかかっている銀縁の眼鏡から覗き込むように愛生を見ると、胸元で両手の指を組み合わせた。
「例のプロジェクト、大分良い結果が出てきているらしいね」

 ――狸め。
 愛生は、その表情にこそ出さなかったが、体よく派閥の波を乗り切って今の地位を手に入れた志無き医師の老体に向けて、心中で唾棄していた。
「今年から彼がプロジェクトを引き継ぐことになったから、ひとつ、よろしく頼むよ」
 橘から紹介された男は、慇懃無礼な態度で愛生に向かって一礼すると、「末次です」と名乗った。研修医に毛が生えた程度の若い男だったが、上手く教授に取り入ったのだろう。すでにその右腕には、愛生が丸二年かけて作成した報告書の、分厚いコピーの束が抱えられていた。

「それでねぇ、今月の報告会の前に、今週あたり一度渡米して、彼の面通しと症例の説明だけ先に終わらせておいてくれないかなぁ」
「……分かりました」
 要するに橘は、末次と名乗った男と、愛生の首を挿げ替えたいのだ。プロジェクトの前途に光明を見いだすと同時に、己の息がかかった人間を送り込みその手柄だけを根こそぎ頂戴しよう、というわけだ。
 何れはこんなこともあるだろう、と思ってはいたものの、いざ老狸の狡猾さを目前に突きつけられると、あまりの愚かしさに笑いさえこみ上げてくる。

「末次君、といったね。渡米は今週木曜でいいかな?」
「はい。よろしくお願いします」
 鉄面皮を決め込み、一片も心情を窺わせずに深く頭を垂れる若き医師は、どうやら己の立場をわきまえているらしい。これも野心ある男には必要な世渡術なのだろう、と愛生は納得した。

 プロジェクトに愛着が無かったといえば嘘になる。しかし、こんな馬鹿げたことはさっさと済ませてしまいたかった。『成果は上げた』という自負だけが、二年に及ぶ愛生の努力に報いるものだった。
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