ロボトミー

 正月明け早々の渡米。JFK空港からマンハッタン・エクスプレスに乗り西へ約二十四キロ、未だニュー・イヤーズ・デイの名残ある賑やかなミッド・タウンに降り立つと、一月の凍てついた風がビリビリと肌の露出した部位を撫でた。
「チェックインを済ませたら、すぐラボに行くが、いいか?」
 ホテルのエントランス前に立ったところで、ほぼ十五時間ぶりに愛生が口を開いた。
 会話などあろうはずも無い。愛生と末次は、成田空港で空々しい挨拶を一言二言交わしただけで、その後は終始無言でここまでたどり着いた。

 早々に手続きを済ませロビーで末次と落ち合うと、愛生はホテルを出てすぐにタクシーを拾った。タクシーは二七八号線を快適に飛ばし、ヴェラザノ橋を渡りスタッテン・アイランドにある巨大な大学病院に到着した。
 広大な敷地内のよく整備された並木道を五分ほど歩く。北棟のエントランスを潜るといきなり、コートニー・ケントが剣呑とした表情で愛生を出迎えた。

「メール、読んだわ。どういうことなの?」
 コートニーは、充分に怒気を孕んだ声色で愛生に詰め寄った。
「さあ」
 と、愛生は肩を竦めて苦笑を返した。末次がタイミングを見計らって、流暢な英語でこう答えた。
「とても残念なことですが、穂海は実績を買われて他の研究チームに引き抜かれたんです。それで、私が代わりに」
 愛生は、眼を見開いて末次の顔を見やった。
 そんな話は、まったくのでっち上げだ。愛生は、今後の進退など一切知らされていないし、丸二年プロジェクトに掛かりきりでメスもろくに握っていない医師を、快く受け入れる医局があるかどうかすら疑問だ。
 いよいよプロジェクトも大詰めという段階でのメンバーの入替えは、誰の目から見ても不自然だった。面の皮千枚張りのこの末次という男、自己保身のため引継ぎを円滑に運ぼうと、こともあろうに愛生の眼前で大嘘を吐いたのだ。

「――そう。とても残念だわ」
 コートニーは項垂れ、小さく溜息を吐いた。
「ヒトシ・スエツグです。よろしく」
 末次が右手を差し出すが、コートニーはやはり納得できない、と言いたげに末次の顔に冷たい一瞥を投げ、「まずは、症例の見学ね」と、くるりと背を向けた。

 ハイヒールの靴音を壁に反響させながら白衣の裾をなびかせ闊歩していくコートニーに追い従うように、二人は院内の廊下を歩いていく。
「お前は、出世できるよ」
「ありがとうございます」
 嫌味なのは百も承知と、末次は慇懃無礼な態度を崩さず、一言礼を返した。呆れるより先に、愛生は笑ってしまった。所詮、このクズのような小男が認められていく世界に俺は属しているのだ、と。

 このプロジェクト自体、胡散臭いものだった。
 研究対象となる病気が特定疾患に指定されたのは十年以上前に遡る。だが、百万人に一人という発症率では、その治療法確立のために大資本が投じられることはありえない。
 三年前に米国のさる高名な政治家がその難病に侵されたとなるや、一転して大手の製薬メーカーが名乗りを挙げ、この大掛かりな研究プロジェクトを発足させたのだ。有効な治療法が発見されると同時に夢の新薬でも開発できれば、株価が一気に跳ね上がる、という算段だ。
 切っ掛けはどうあれ、難病に苦しむ人々の助けとなることに違いはない――研究に邁往している間はそう納得することができたが、今、愛生の胸に去来する感情は、言いようも無い虚しさだけだった。

 コートニーからカルテのコピーを受け取り、簡単な経過報告を聞いた後、三人は研究対象の患者が収容されている病室を回った。抜け目無い末次は愛生の報告書を熟読してきたらしく、見識張った質問をコートニーにしきりに投げかけていたが、彼女は末次に対する冷ややかな態度を変えることはなかった。

 病室を一回りしたところで、東棟の一室に特設されたラボで、末次の紹介と引継ぎ後の作業分担について話し合おうということになった。東棟に続く渡り廊下を通り抜けてすぐ、大勢の患者たちが憩うロビーで愛生は一人の老人男性に眼を奪われ、歩みを止めた。

「――あの老人は、初期のALSですか? ……でも、それにしては……」
 背中がいびつに歪んだ老人は、車椅子の肘付きから両手をダラリと落として彫像のようにピクリとも動かない。半開きの口から涎を絶えず垂らし、死人の眼差しで壁の一点を見つめていた。

「彼は前世紀の杜撰な医療の犠牲者よ。ロボトミー手術、知っているでしょう?」
「前頭葉の一部を切除してしまう……あの?」
 大きく頷いて、コートニーは言葉を継いだ。
「かのケネディ家の長女、ローズマリーを廃人にしたのもロボトミー手術よ。全く、無茶苦茶よね。人間の、一番人間らしい思考を司る部分にメスを入れるなんて……。彼は、フィラデルフィアにある精神病院の改築で、一時的にここに転院してきたの」

 廃人。
 人為的に、ヒトから、ただ生きてるだけの肉塊に成り下がってしまった男。

 愛生は、茫然と佇んで、随分長いこと老人を凝視していた。焦れたコートニーは愛生の腕を掴んで、半ば引きずるように歩き出すと、「ラボに行ってメンバーを紹介するわ」と、末次に向かって吐き捨てるように言った。

 ――あの老人は、『殺される』前、どんな風に笑ったのだろう?

 俺は
 あの少年の
 笑顔が
 見たい。

 ただ漠然と、愛生はそう思った。
 残照の極彩色と、淡い金色――。脳裏にこびり付いて離れない『色』の答えが、雲間から射す光のように、愛生の心に降りかかってきた。

 その夜、クィーンズにある小さなパブで、極めてささやかな送別会が開かれた。苦労話や製薬会社の小煩い上層部の悪口に花を咲かせながら深夜まで陽気なひと時を過ごし、そして愛生は、誘われるままにコートニーのアパートメントに赴き、体を重ねた。

 翌朝、別れ際にコートニーは、
「ヤンキー女だって、結構シャイなのよ」
 と哀しげに微笑して見せた。
PAGETOP