ハートのA

「噛むんじゃねぇよ――跡がつくだろ」
「黙ってな」
「オンナが……うる、せぇんだよ」
 逃げるように老松の胸に肘を突き立てる新の腰をすくい、易々とその身体を深くベッドに沈めた。
「うるせぇのはお前だ」
 老松は新の細い顎を乱暴に掴み上げて頬を軽く平手で叩いた。
 新がキスを拒むのは、もう儀式のようなものだ。
 抵抗を断念したのか、新が薄く唇を開く。熱を帯びた赤い筋肉の塊は、歯なみの隙間を強引に押し開いて、新の舌を絡め取った。片手で両頬を強く圧迫しながら、さらに奥を探る舌先を、新は従順に受け入れた。だが、自ら老松の熱を求めようとはしない。
 窒息感に悩ましく息づく薄い胸にそれとなく指先を歩かせ、老松は小さな突起を探り当てた。充分に色付き硬度を示すまで、指の腹で敏感な先端を交互に嬲る。

 肩口からあばらの畝をなぞるように脇腹まで舌を這わせ、性感を突いたときに強張る内腿を撫でさすって、老松は新の反応を存分に楽しんだ。やがて中心に伸ばされた手が、攻める箇所を熟知した動きで分身を追いたて始め、新は肩を震わせて短い息を漏らした。昂りを下腹部に押し付けると、老松の首に回した腕に一層の力を込めて、誘うように腰を浮かせる。

 老松は、唐突に新の両肩を引き上げて、上半身を起こさせた。
「新、俺を見ろ」
「……なんだよ」 
 煩そうに前髪を掻きあげて、新は潤んだ瞳を老松に向けた。老松はにやりと不敵に笑い、
「誰に抱かれてるか――分かってるか?」
 言いながら老松は、新の背に鋭く爪を立て、そのまま腰の辺りまで一気に手を引いて皮膚を抉った。
「――ッ!」
 眉間に深く皺を刻んで苦痛に耐える新の顔をまるで楽しんでいるように、老松は嗜虐の色に満ちた目許を綻ばせた。

 老松は、決して新を後ろから犯そうとはしない。
 新の右の肩甲骨を覆う皮膚には、ハートのAと、その影に隠れるようにしてスペードのジャックの、二枚のカードが彫りこまれている。
 いばらの蔓で巻き取られた心臓は夥しく血を流し、滴る先には、こう記されていた。

 ――I LIVE IN SIN――

 私は罪に生きている、と英語で刻まれた短い一文に隠されたもうひとつの意味を、老松は少なからず知っていた。
 『愛、生、……新』
 新は二十歳の時、このタトゥーを背中に刻んだ。

 サイドテーブルに無造作に投げ出された新の携帯が規則的な震動を始め、老松はその切れ長な眼を吊り上げて不愉快そうに舌を打ち鳴らした。
「いい加減、電源切りやがれ。何回目だと思ってンだ?」
「ほっときゃいいんだよ」
 着信は確認するまでもないと、新はテーブルの上を這い回る携帯に一瞥をくれただけだった。

 老松は、気怠そうに上半身を起こしダンヒルに火を点けた。煙を吐き出すのか、溜息なのか――微妙な速度で息を吐くと、
「グラスとウォッカやりながら俺とセックスしたの覚えてるか?」
 記憶を反芻するようにぼんやりと宙の一点に視線を留めた。
「……大昔だろ? 覚えてねぇよ」
 新は、うつ伏せに寝返りを打ち、おもむろに携帯のすぐ横にあるビールの注がれたグラスに手を伸ばした。半身を仰け反らせ、ゴクリと咽を鳴らす。
「お前はブッ飛んでて記憶ねぇだろうけどなぁ、あんときゃすげぇ鳴き声だったんだぜ。アイセー、もっとー……ってな。普段アンアン喘いだりしねぇから、俺は興奮しちまってさぁ――」
 新の横顔をチラと盗み見て、予想通りその表情にまったく変化が無いのを見て取ると、老松はもう一度肺深く煙を送り込んだ。
「気分わりぃから、電源切りな」

 疾うの昔に震動を止めている携帯を手に取り、新はためらい無くそれをグラスの中に沈めた。小さな精密部品の集合体に泡立つ液体はあっという間に浸透し、やがて液晶から『着信あり』の文字がプツリ、と消えた。

「……来いよ」
 灰皿に煙草の先端を押し付け、老松は新を抱き寄せた。

 新の携帯番号を知っている人間は、三人しかいない。
 父親の入院する病院の担当医と老松、そして愛生。
 二日前、新の携帯の留守電には、帰国した愛生の切羽詰った声が録音されていた。

『新、今すぐ会えねぇか? アメリカでまた、金髪に会った。俺はどうしてもアイツのことが知りたい』
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