歌舞伎町・エーゲ海

 JR新宿駅の東口を出て人込みを縫い、靖国通りの大河を渡ってG街へと赴く。
 疾うに五十を過ぎたと見受けられる女性達が、次々に愛生を今夜の客にしようと声をかけるが、眼もくれずに曲りくねった細い路地を足早に抜けた。

 ウィスキーを一人で楽しむなら最高の環境であろう、バー『SNAFU』の軋むドアを開けると、ドリス・デイの『ティーチャーズ・ペット』が愛生を出迎えた。奥行き二間ほどの狭い店内には、丸いスツールが六つだけ並べられた短いカウンターがあり、薄暗い電球が、まるで昭和の時代へと誘うように、なにもかも古びた調度品をぼんやりと照らしている。
 愛生はコートも脱がず、入り口に一番近いスツールにどっかり腰を下ろした。

「めずらしいね。今日は一人?」
 マスターは、旧友に久しぶりに再会したかのように、くしゃりと顔中に笑顔を広げてから、棚に手を伸ばしグレンフィディックのボトルを取り出した。
 氷塊をアイスピックで砕きながら、「新はどうした?」と訊ねるマスターに、愛生は忌々しげに首を一振りして見せた。

 布製のコースターの上に置かれた背の低いカットグラスに大きめの氷塊を入れ、その頂点から淡い琥珀色の液体を注ぎいれる。三分の一程度注がれたところで、カラリと耳心地の良い音を立てて氷塊はグラスの中で半回転した。
 コースターごとカウンターの上を滑らせて、愛生の目前でピタリと止める。マスターの一連の動作は実に流麗で、長年の経験を物語っていた。

 大きな溜息をひとつ吐いてから、愛生はシングルモルトウィスキーの麦芽とピートの香りを確かめるように、ゆっくりと一口、酒を含んだ。
「新に連絡が取れねぇ……。きっとあいつ、また携帯無くしやがった」
 苛立ちを露わにする愛生の態度を軽く受け流すように、マスターはおどけた笑顔を作った。
「あいつはいっつも所在不明だからねぇ」
「最近、ここに来た? なるべく早く連絡取りたいんだけど」
「二ヶ月くらい前だけど、若い女と来たよ。……えぇと、確か名刺を貰ったんだよね」
 たっぷりと蓄えた顎髭を片手で撫でながら、マスターはしばらくカウンターの下を弄っていた。やがて、「あったあった」と一枚の紙片を愛生に差し出す。
 角の丸まった品の無いピンク色の紙片は、愛生にとって見慣れぬものだった。戸惑いがちに手を伸ばし、検分するように小さな紙片をまじまじと見る。
 名刺には、丸文字で『個室サウナ・エーゲ海 ハルカ』と記されていた。
 裏面に電話番号を見て取るなり、愛生は慌しく尻ポケットから携帯電話を取り出し、番号をプッシュした。

 携帯を耳に押し当ててから数秒と待たずに、愛生はがっくりと肩を落として通話切った。
「……もう使われてないって」
「違法営業だろうねぇ。そういう店、歌舞伎町じゃ多いよ。三、四ヶ月で店の名前が変わるから」
 思案顔で名刺を睨んでいる愛生を見て、マスターは「そんなに急いでるの?」と問い掛けた。愛生はグラスを一気に呷り、コートのポケットから乱雑に折り曲げられた札の束を取り出し三千円を抜き取った。
「ああ、一刻も早く連絡取りたいんだ。――俺、今からここに行ってみる。もし新が店に来たら、すぐ俺に連絡するように伝えてくれねぇかな?」
「オーケー。その代わり、今度はボトル空けてってよ」
 半分以上残っているグレンフィディックのボトルを、マスターがこれ見よがしにぶらぶらと振って見せる。
「了解。悪いね」
 チャージをカウンターに置いて「じゃあ、また」と、愛生は軽く手を上げた。

 愛生は、区役所通りを抜けて歌舞伎町の中心地へ向かった。
 極彩色のネオンが毒々しく瞬く繁華街を、名刺片手に落ち着き無く周囲を見回しながら目的の店を探す。
 客引きの男達が、甘言を投げかけながら愛生にしつこく付きまとい行く手を阻んだ。途中、幾度も鬱陶しい輩を怒鳴り付けながら歩き、愛生はやっとのことで大通りから外れた雑居ビルの入り口に、安っぽい電球に彩られたプラスチック製の看板を見つけた。

 半裸の女性の写真がベタベタと壁一面に貼られた細い階段を潜り、地下一階に降りつくと、タキシードを来た怪しげな男が「いらっしゃいませ」と、一礼して愛生を迎えた。
「ご指名ございますか?」
「……ハルカさんを」
「十五分ほどお待ちになりますが、よろしいですか?」
 愛生は、無言で頷いた。
「入浴料、サービス料含めまして九十分三万五千円になります」
 フロントで会計を済ませ、番号札のようなものを受け取った。案内された待合室で愛生はハイライトに火を点け、ひたすら時間が過ぎるのを待った。

 漆喰を塗り込められた真白な建物が並ぶ丘と、エメラルドブルーの海が大きく印刷された壁紙が一面に配された室内には、所々に白木製のブラインドが掛けられていた。エーゲ海をイメージしているのであろうこの内装も、スポットライトがピンクでは、ただただ安っぽく、品が無い。
「お待たせいたしました、こちらへどうぞ」
 立て続けに四本、煙草を吸い終えたところで声が掛かった。

 案内された先は八畳ほどの個室で、整えられたシングルベットとソファ、ガラス張りの引き戸を挟んだ先の浴場にはバスタブがあり、タイルの床には大きな花柄のビニールマットが敷かれていた。
 居心地の悪さを覚え、立ち尽くす愛生の背後から、
「あれ? お客さん、初めてだよね」
 いつの間にか、後ろ手に両手を組み愛生の顔を怪訝そうに見る少女が立っていた。

「君が、ハルカちゃん?」
「……そうだけど……お客さん、私の顔見ても驚かないのね」
 彼女には、右頬から鎖骨にかけて大きな火傷の跡があった。引きつり盛り上がった皮膚が痛々しい。
 しかし愛生は、必要と在らば人間の頭蓋の中まで覗く医者だ。表面上の創傷でいちいち顔を顰めていては仕事にならない。
 ハルカは、小首を傾げるようにして顔を右に振ると、
「こっちからだけ見れば、結構カワイイでしょう? このお店で働いてるのも、整形費用のためなんだよね」
 と、にっこり微笑んだ。
 確かに、幼い顔立ちに漆黒のロングヘアが良く似合い、風俗店にはおよそ相応しくない清楚な印象を受ける色白の美少女だった。

「お客さんカッコいいね。風俗なんてこなくっても相手が沢山いそうなのに」
 事務的な褒め言葉を並べバスタブの蛇口を捻るハルカの肩に、愛生は優しく手を掛けた。
「ごめんね、俺は客じゃないんだ」
 ハルカが驚いた顔を愛生に振り向けた。
「でも、お金払ったんでしょう? ……なら、お客様よ」
「違う。新に会いたくてここに来たんだ。全然、連絡取れなくて」
 ハルカの眼は、さらに大きく見開かれた。
「お兄ちゃんに? でも私、携帯知らないの」
「一緒に住んでるんだろう?」
「三日に一回くらいしか、ウチにこないよ」
「……今日はどうかな?」
 左手のひらを広げ、親指からゆっくり一本づつ折り曲げ、薬指まで数えたところでハルカは答えた。
「もう四日来てないから、今日あたりいるかも」
「図々しいお願いなんだけど、新を捕まえたいんだ。君の上がる時間まで待っててもいい?」
「……お客さん、ヤバい人じゃないよね?」
 ハルカは、眉を寄せて探るような眼差しで愛生をじっと見つめた。
「俺はヤツと五歳のときからの付き合いなんだ。信頼して欲しい」
 屈託の無い晴朗さを滲ませる愛生の表情に気を許したのか、こくりと頷いて、
「色んなお客さん見てるから、お兄さんが悪い人じゃないの、なんとなくわかる。あと二時間で終わるから、靖国通り沿いの喫茶店で待っててくれる?」
 ハルカはそう言って、名刺に喫茶店の名前を走り書きして愛生に渡した。

 あと二時間――。飲み直すにも、仕事帰りのサラリーマンで雑然と賑わう居酒屋に紛れる気になれず、愛生の足先はなんとなく花園神社へと向いた。
 境内で缶ビールを飲みながら、ぼんやりと金髪の少年のことを考える。

 プロジェクトから開放されてすぐ、愛生は一週間の特別休暇を与えられた。その間に、愛生の今後の処遇を医局同士で話し合い、押し付けあうことは判っている。
 愛生に猜疑の眼を向けていた同僚達は、哀れな奴と、影で嘲笑っていることだろう。親しかった数人は、研究室の資料をダンボールに押し込む愛生に、慰撫の言葉を投げかけた。
 だが、今の愛生にとって全ては雑音でしかなかった。

 どうせ暇ならと、愛生は休暇の間、少年を連れ去った『新実匡次』の所属する成竜会について調べることにした。宇田川の系列であることは新から聞いている。また新が宇田川専属の《代打ち》であることも知っていた。
 少年のを知るための一番の近道は新だと、愛生は確信していた。

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