埠頭にて

 突如静まり返った部屋に、甲虫の羽音のようなエアコンの音が低く鳴り響いていた。
 暖房が効きすぎているせいか、室内は優に三十度を超える暑さだ。神藤と戸田の額に噴き出した汗が玉となり、次々にベッドへ、少年の身体へと滴り落ちた。
 二人の身体が、少年から離れた。バスタオルを頭から被り、神藤がバスルームへと消えた。残された戸田は、体液に塗れた少年の身体を丁寧に拭っている。
 口元の微笑は最早跡形も無く消え去り、少年は、死体のようにベッドに痩身を投げ出していた。
 新の焦点は少年を通り越し、遠くに結ばれている。意識は、すでに別のところにあった。

 愛生の懇願を無下にしたにも関わらず、少年に会いに来た。己を突き動かした衝動は何か。何故、これほどまでに愛生の存在が思考を支配するのか、新は考えていた。
 幼少期に受けた傷の深さから、虚無に取り憑かれた自我を深淵から救い出してくれたのは愛生ではなかったか。
 あの小さな公園で、微笑みかけてくれたのは――。


 二十五年前のある日、保護施設から抜け出した新は、一人公園の砂場にいた。
 山やダムを作るでもなく、日に当てられ焼けた白砂をえぐっては、あらわれた黒い砂を手のひらでまさぐった。ひんやりとした砂の感触が、心地良かったのだ。
 砂が乾けば、また違う場所を掘る。何をも成さない、新は、ただ砂場のあちこちを穴だらけにしただけだったが――いつの間にか目の前には小さな山が、出来ていた。

 視界が不意に陰り、顔を上げた新の前に、同い年くらいの子供が立っていた。
 愛生だった。
 手には水で満たされた玩具のバケツ。眼が合うなり顔中に笑顔を広げた愛生は無言で、砂山を挟むように新と向き合って座った。
 砂山の周囲にぐるりと水を撒き、濡れた砂を固めては山の頂きに次々乗せていく。小さな手のひらを必死に打ち付け、山を高くしていく愛生の表情は輝いていた。
 愛生は頻りに新に笑いかけた。その笑顔に釣られるように愛生の真似をして、新も、手のひらを山肌に打ち付けた。

 砂山はいつしか二人の腰の高さまで成長した。そびえ立つ砂山に、二人は感嘆の息を漏らした。しばらく陶然と眺めた後、お互いの顔を見合いコクリと頷くと、二人は砂場に這いつくばって、トンネルを掘り始めた。山の片側から愛生が、もう片側から新が。

 腕を付け根までをも砂山に突っ込み、顔中砂に塗れることなど一向に気にせず、互いに負けまいとして懸命に掘り進めていく。二人は、時が経つのも忘れてトンネル掘りに没頭した。

 まず人差し指が触れ合い、興奮してさらに奥へと腕を伸ばした。頭上から乾いた砂が止め処なく降りかかる。やがて愛生の手が、新の手をがしりと掴み――細いトンネルが完成した。
 新の右手を強く握り締めた愛生の手は、冷たい砂山の中心で、ただひたすら暖かかった。
 立ち上がり、くしゃくしゃに顔を歪めて笑う愛生。新の口元にも、微かな笑みが浮かんだ。


 (俺はあの時から、奴にいかれてんのかな……)
 記憶の奥底をさらい、新は、ふとそう思った。

 親友への特別な感情を自覚してから、懊悩に身悶えしながらも、死に物狂いで友人関係を維持してきた。失うことを恐れる余り、一切の情動や欲望は胸に封じ込め気安い悪友を演じてきた。愛生が幾たび女性と関係を持っても、己を見失うほど崩れることは無かったのに、何故、今。

 思わず、自虐的な笑いが漏れた。幼少時から性行為を強要され、一切の精神的活動を停止してしまった少年に欠片も同情心を覚えないのは、愛生の眼が彼に向いているからではない。
 人として壊れている――その一点に関して、意識の奥深いところで少年に同調している己を感じ取ったからだ。

 嘲笑を口辺に刻んで佇む新に、新実が声をかけた。
「さて……ショーは終わりです。本告さん、お送りしますよ」
 慌てて床に散らばった服を拾い上げた戸田に、この場に残るよう伝え、新実は、新の背を軽く押した。

「どちらへお送りしましょうか?」
 ベンツの隣に駐車してあったアルファロメオにリモコンキーを向け、新実はドアロックを解いた。
「新宿界隈で適当に降ろしてくれ」
「宜しければ、笹塚までお送りしますけど」
 台詞を用意してあったかのように、新実は、あからさまな皮肉を返した。
 笹塚にあるマンションは、老松の数ある住居のうちの一つだった。新は、新実の物言いにいい加減うんざりしていたが、いちいち反応をすればそれこそ新実の思う壺だろう。聞こえていない素振りで無表情を決め込み、助手席に乗り込んだ。

 運転席で煙草に火を点けた新実は、細く紫煙を吐き出しながらイグニッション・キーを捻った。
「高レートと言ってもねぇ……儲けの薄い素人麻雀に紛れ込んでまでどうして、あの少年を見たかったんです? 本告さんのご趣味は背の高い年上の男性でしょう?」
 沈黙で答える新に、
「まぁ、いいでしょう」
 と呟き、新実はゆっくりサイドブレーキを下ろした。悠然とした態度に相反して、車は、タイヤとアスファルトの擦れる甲高い音を轟かせて荒々しく発進した。

 明らかに来た道と違う方角に進んでいた。埠頭へと、暗闇に急かされるようにスピードを上げていく。
 何処へ連れて行こうというのか――やがて辿り付く場所で、己に対する人も無げな態度の理由も知れるだろうと、新は漠然と考えていた。


 倉庫街の良く整備された直線道路を猛然と走り抜け、海に飛び込む勢いで暗い埠頭へと突き進んでいく。新実は、眼前に迫る水面を物ともせず、目にも止まらぬ速さでハンドルを捌き、後輪を派手にスライドさせて縁石寸前で鮮やかに車を停止させた。

 一転して、辺りは静寂に包まれた。明け方近い埠頭には人影も無く、凪いだ東京湾の静かな波音だけが聞こえてくる。
「聞いてやるよ」
「……何をですか?」
 新実を苛立たせている原因に、思い当たる節はない。白を切る新実の横顔に尖った視線を送り、新は語気を荒げた。
「なんだってんだよ、一体。――こんなところに連れて来やがって」
 パワーウィンドウを開き、新実は吸い差しの煙草を車外へ弾き飛ばした。凍て付いた夜気が車内に流れ込み、二人の息が乳白に変わる。
「金髪に興奮しませんでしたか? 俺で良かったらお相手しようと」
「下らねぇ冗談言って……ッ!」

 突然、新実は強い力で新の上腕を掴み、勢いをつけて助手席側のドアへと新の身体を押し付けた。アームレストに背を抉られ、一瞬、新の呼吸が止まる。新実は、底冷えする眼差しでギラリと新を睨め付け、肘で喉元を圧迫しながら噛み付くように唇を重ねた。
 予測もしなかった事態の激変に新は抗う術も無く、良いように口腔内を侵された。右手は新実にしっかりと縫い止められ、唯一自由になる左手で脆弱な抵抗を試みるが――それも馬鹿馬鹿しくなってすぐに止めた。
 少年を見てからというもの、麻痺したように頭の芯は冷え切っていた。

 強張っていた新の身体から力が抜けると、程なく新実は顔を離した。新の冷めた表情を窺うように見つめている。
「……てめぇ相手じゃ乗らねぇよ」
 聞くなり、新を小馬鹿にしたような態度を崩さなかった新実が初めて感情を剥き出しにした。眦を吊り上げ眉間に凄まじい怒気を走らせて、新実は新のシャツを襟元から左右に引き裂いた。
 弾け飛んだボタンの一つがフロントガラスに跳ね返り、ひゅっと新の頬を掠めた。

 外灯のほの灯りに浮かび上がった新の胸元を検分するように、新実は視線を這わせた。
「へぇ。此れ見よがしに飾り立ててますね。一体、どうやって老松さんをたらし込んだのか……俺に教えてくださいよ」
 老松と過ごした夜の証しである、鬱血した箇所を舌で辿る。
「ひとつくらい増えてもばれせんよねぇ? 本告さん」
「……あッ!」
 微かな苦鳴は、新実が食い千切らんばかりに喉元に歯を立てたからだ。新の身体に、再び緊張が走った。続けて新実は、新の首筋を執拗に吸い立てた。

 喉仏のすぐ下、衣服では隠しようもない場所に派手に刻んだ印を見て、新実は満足げに眼を細めた。
「俺はね、本告さん。あんたのこと恨んでンですよ。それこそ、このまま絞め殺しちまいたいくらいに。――てめぇは、老松さんの牙を抜いた元凶だ」
 新実の瞳の奥で不気味に燃える青白いもの――その色を見て取るなり、新は乾いた笑いを漏らした。
「ハハ……老松を? てめぇがか?」
 新をシートへ突き飛ばし、新実は何事も無かったようにハンドルに向き直った。
「そんなんじゃねぇ。俺は老松さんに宇田川の頭を取ってもらいてぇだけだ」
「……笑えるな」
 ライトの先に、靄が性急に垂れ込めてきた。新実はエンジンを二度吹かして、滑らかに車を発進させた。

 引き裂かれた衣服も、新実の殺意も。今の新にとっては、どうでも良いことだった。
 頭の中に巣食う確信めいた予感。
 首都高を流れる反対車線のライトをぼんやり眺めながら、新は呟いた。
「そのうち、俺から頼みに行くかもな。……絞め殺してくれってさ」
 クラクションに掻き消され、ぽつりと呟いた新の独白は、新実の耳に届かなかった。
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