冬の落日

 レンガの外壁一面に蔦の絡まった、上野という街に似合いすぎている古びた喫茶店のドアを開くと、真鍮製の鐘が重々しい金属音を立てた。
 繁華街から道一つ外れているせいか客は疎らで、『その男』は容易に特定できた。奥まった陽の当たらない席でコーヒーを啜っている姿は、営業途中のサラリーマンや買い物に疲れ一休みしている客から甚だしく浮いている。
 迷い無く歩みを進め、男の背後に立つ。愛生は、テーブルの上に『目印』の雑誌が置かれていることを確認した。

「渡辺さんですか?」
 広げていたスポーツ新聞をバサリと下げ、男は、愛生の顔から足元まで、素早く視線を走らせた。
「あんたが穂海さん? ……まぁ、座ってください」

 きっちりと撫で付けられたオールバックの髪型と、チンピラ紛いの服装――男は、大手の興信事務所で愛生を出迎えた愛想の良いサラリーマンとは、天と地ほど印象が違った。依頼内容からして、この男のほうがむしろ適任ではないかとすら、愛生には思えた。

 所狭しと並べられたテーブルは小さく、また椅子との間隔が酷く狭い。背凭れの後ろはすぐ壁だ。身を捩って上半身を隙間にねじ込むが、膝がテーブルの下に収まらず、愛生は仕方なく足をフロアに投げ出した無理な体勢で腰を下ろした。
 サングラスを鼻頭までずり下ろし、値踏みするように愛生の様子を窺っていた渡辺が、
「厭味な人だね」
 と、皮肉を呟いた。
 愛生は、傍らでオーダーを待っているウェイトレスに「コーヒー」と一言告げて、渡辺と向き合った。

 渡辺は、挨拶も無く名刺と思しき紙片を愛生に突き出した。慌てて、自分の名刺を探して財布を漁るが、職業柄その使用頻度は極めて低い。カード用ポケットに、角の折れたみすぼらしい一枚を見つけて、愛生は躊躇いがちにテーブル上に滑らせた。
「……デカいからスポーツ選手かナンかだと思ったけど、お医者様でしたか。……でも勤務医じゃあねぇ。儲かンないでしょう?」
 不躾な渡辺の物言いに一瞬眉を寄せる。しかし、新の協力が得られない今となっては唯一の頼みの綱だ。愛生は、眼の前に置かれたコーヒーを一口啜り、小さく息を吐いた。

 渡辺は、テーブルから身を乗り出し、声を顰めていきなり核心に触れてきた。
「で、その少年ってのは、一体あんたのナンなんですか?」
 何だ、と訊かれても用意された答えはどこにもない。
「憶測に過ぎないのですが……彼は売春行為を強要されているんです。足を洗わせたい。そのために情報が欲しいんです」
「男なのに売春……は、今時珍しくもないか。親戚?」
「いえ、彼はアメリカ人です。十六歳前後の白人、髪は明るいブロンド、瞳は深いブルーで……名前は、知りません」
「はぁ――?」
 渡辺は素っ頓狂な声を上げ、不審げに愛生の双眸を覗き込んだ。
「今、東京にいるかどうかすら分かりません。ただ、成竜会の新実匡次と関わりがあるのだけは確かなんです」
「好きでやってンじゃないの? アメリカ、本場でしょ?」
「彼は精神遅滞か、若しくは解離性の精神障害を患っています。そんな人間が、好んで売春をするでしょうか?」
「へぇー……ヤクザから幼気な少年を助け出す正義の味方参上って訳ですか」
 医師らしい理詰めの話し方に気分を害したのか、渡辺は愛生の真剣さを受け流すように揶揄した。
「……そんなところです」
「外国人じゃ、意外に早く見つかるかもしれませんねぇ。言っておきますけど、調べるのは名前と所在、それだけですよ。俺は元々稼業人だったから、ヤツらの恐さ、良く知ってンです」
 そう言って渡辺はおもむろに袖を捲り上げた。中途半端に彩色が施された彫りかけの刺青をチラリと見て、
「充分です」
 と、何かを確信したように愛生は深々と頷いた。

 渡辺は紙ナプキンをテーブルに広げ、胸ポケットからボールペンを取り出すと、その上になにやら文字を書き始めた。
「これ、見積もり。こんだけ出せます? 調査が長引けば追加で貰うけど、俺だってこんな仕事はさっさと終わらたいからねぇ」
 紙ナプキンに殴り書きされた金額を見て、愛生は己の甘さを悔いた。
 前金と実費で初期費用二百五十万、成功報酬を足せば合計で四百万――。愛生のコートの内ポケットには、百万しか入っていなかった。
 相場を知らないだけなのか、足元を見られているのか。しかし、武闘派と名高い成竜会の内部を探るという、極めて危険な依頼内容だ。冷静に考えれば、安いとも思えてくるから不思議だった。

「今はこれだけしかありません」
 封筒に納めた百万円をテーブルに置くと、渡辺は目の色を変えて掴み取り、忙しく中身を確認した。
「名刺の裏に振込先書いときましたから、残りは二、三日中にお願いします。それから、俺だって命は惜しいですからね。ヤバいと思ったら、さっさと手を引きますよ」
 もう用は無いとばかりに立ち上がった渡辺は、ふと思い出したように『目印』の雑誌を手に取り、それをくるりと丸めて銃口を突きつけるように愛生の眉間に当てた。

「……付箋打ってある所、広告があるでしょ? ここから歩いてスグの、ビルの四階。客がいない時を狙って、スキンヘッドの店員に『ヤンクの8月号はありますか?』って訊いてみな。きっと、アンタの欲しいものが手に入るぜ」
 受け取った雑誌の表紙には、黒光りする二丁の短銃と、金色の実弾がばら撒かれた写真が大きく掲載されていた。ただのモデルガン専門誌だ。
 だが、愛生には渡辺の言う意味が即座に理解できた。間違いなく、その店で実銃が手に入るのだと。
 不意に現実の血生臭さを実感して、背筋に緊張が広がった。
 渡辺の後姿を見送り、胸に燻る不安を振り払うように、愛生は冷めたコーヒーを一気に飲み干した。


 そうして、七日間の休暇は終わった。
 通い慣れた道の風景を眺めながらのんびり歩き、大学病院の通用門を潜る。すれ違う看護師たちに普段より幾分か愛想良く挨拶を送りながら廊下を抜け、愛生は白衣に着替えることもなく真直ぐに橘の居る科長室へと向かった。

 ドアをノックすると、暫くしてから「入りなさい」と老人特有の荘重さを滲ませた声が返ってきた。
「やぁ、穂海君。休みは存分に羽を伸ばせたかな?」
「お陰様で」
 たっぷり嫌味を含んだ返事も、老獪な妖狸を前にしてはむなしい。橘は、「えぇっと、どこやったかなぁ」と、机の上の書類をひっくり返していた。
 さすがに、自分が手柄を掠め取ったその本人に、左遷を言い渡すのは気が引けると見える。惚け面を晒して白々しく書類を捜してみせる橘の頭の中は、どう切り出そうかと必死に考えていることだろう。愛生は、込み上げてくる嘲笑を堪えるのに一苦労だった。
 やがて橘は、コピー用紙の束を机の下段から引き出し、わざとらしい咳払いをひとつした。

「穂海君、君の活躍ぶりには医局の皆も驚いていたよ。そこでね……どうだろう? 新しい現場で、アメリカでの有意義な経験を活かしてみては。君を手放すのは医局にとって大変な痛手なんだけど、是非に、と言われてしまってはねぇ」
 くるぞ、と愛生は身構え、邪な笑みを口元に貼り付けた橘の顔を睨み据えた。

「それでね、F県の有賀第一病院なんだけど、待遇は悪くないよ。君の実績を買ってく……」
「ハッ……ハハッ!」
 突如声を上げて笑い出した愛生を、橘はぎょっと見た。腹腔に凝り固まっていた鬱屈が弾けたかのような哄笑が、白壁に反響した。
「F県の、有賀第一? そりゃ、医師が三人も過労死したっていう噂の、有名なところじゃないですか」
 唖然と眼を丸くしている橘の間抜け顔に、新たな可笑しさが込み上がる。自棄的なそれではない、愛生は腹の底から笑っていた。

「……過労死するくらい医道に献身できるなんて、それこそ本望ですがね……」
 笑い声をようやく押し殺し顔を上げた愛生の目前には、酷薄さを鮮烈に浮かべた橘の三白眼が待っていた。跳ね返すように瞳に力を漲らせ、
「でも教授」
 と、愛生は言葉を継いだ。
「俺は今日限り大学病院を辞めます。あんた等は最低だ。出世に目の色変えて本業忘れるバカも、製薬会社の営業と風俗に入り浸るバカも、権力にしがみついて狡っからい小細工を繰り返すバカも、もう見飽きましたよ。いい加減、反吐が出るッ……! あんたが脳腫瘍になったとき、自分に診察してもらいてぇかどうか、よぅく考えた方がいいんじゃねぇか? えぇ? 橘脳神経外科長殿」

 わなわなと震え出した橘を見下ろして、
「書類一式、後で送ります。荷物は今日中に片付けておきますから」
 と言い捨て、愛生はいささかの逡巡も見せず科長室を後にした。
 ドアを締めるなり、ガラスの塊が砕け散るような金属音が廊下に轟いた。大方、灰皿でもドアに投げつけたのだろう。橘の呆け顔を思い起こして、再び声高に笑い出した愛生を、通り縋る医局の研究員たちは不思議そうに見ていた。

 辞職したからといって医師免許を剥奪されるわけではない。根本的な間違いを犯さない限り、その資格は医師法によって守られている。だが、未だに学閥が人事に物言う封建社会だ。
 フリーになるか、スタッフ不足で満足な医療を施せない小さな医院に潜りこむか、転科して保険会社の社医に収まるか――日本で医療を続ける以上、その程度しか愛生に道は残されていなかった。
 しかし、今の愛生にとって、そんなことは道端の小石ほどどうでも良いことだった。

 羽が生えたような軽い足取りで医局のデスクへと向かう途中、末次が正面から歩いてきた。
「よぉっ! 末次」
 高く掲げた手を陽気に振りながら近付いてきた愛生を不審に思った末次は、立ち止って身構えた。
「俺、今日で辞めるけど、元気でな」
「……はぁ?」
「感謝してるよ。てめぇのお陰で踏ん切りがついたようなもんだからな。せいぜい、出世しろ」
 ぽかんと口を半開きにしたまま呆気に取られている末次の両肩に軽く手を置き、愛生は「じゃぁな」と清々とした笑顔を向けた。

 鼻歌混じりにデスクの書類を乱雑にダンボールへ押し込んでいく愛生を、同僚は遠巻きに見ていた。感傷的な挨拶も無く、「お世話になりました」とだけ軽く頭を下げて、愛生は開放された気分で病院を出た。

 ――足枷がひとつ無くなった。

 中庭の噴水から玉となって飛び散る水滴が、冬の夕日を反射してキラキラと金色に輝いていた。
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