DEADLINE

 まるで断続する非常ベルのような呼出音に、覚醒を促される。
 部屋の中央にポツリと置かれた今時珍しいダイヤル式の黒電話が、けたたましくその存在を訴えていた。
 明け方までにウィスキーのボトルを二本近く空けた身体は、未だ血管の隅々までアルコールに支配されていて、起きようとすると脳天を貫くような酷い頭痛に襲われた。
 俺は布団から腕だけを伸ばし、手探りで騒音の元凶を探し出した。

『新か?』
 受話器の向こうからは、予想通りの声。
『やっと試験終わったんだよ。二日寝てねぇんだけど、なんか飲みたくなっちゃってさ』
「――どこで?」
 枯れきった咽から掠れた音を搾り出すと、愛生は少し興奮気味の声で悪怯れもせず、
『俺、飲んだら寝ちまいそうだから、ウチの近くでいいか?』
「……あぁ」
 ズキズキと疼く頭を抱え、芋虫の脱皮みたいに布団から這い出す。半裸に毛布を巻きつけ、やっとのことで電話の前に胡座を掻いた。
『六時頃、適当に来いよ。駅に着いたら電話しろ』
「……分かった」

 窓の外にはもう薄暮れの色が広がっていた。
 二月初旬の平日、午後五時過ぎ。
 テストが終わったから飲もう、と言う愛生――。

 ここから愛生の住む街までは、地下鉄を複雑に乗り継いで優に一時間はかかる。つまり、今すぐ来い、ということだ。

 自分の輪郭が定められない。五感が麻痺していて、身体中が透明な膜に覆われてるような気分だ。無理も無い、もう一ヶ月近く酒浸りの生活をしているのだから。
 一週間前に買ったミネラルウォーターの残りを一息に飲み干して、どうにか咽と胃を繋げると、嗅覚だけがぼんやりと戻ってきた。
 酒臭い。自分の吐く息が臭うのか、部屋にこもった空気がそうなのかまでは判別がつかなかった。
 洗面台の前に立つと、いやでも自分の顔が目に入る。慢性化した目の下の隈と、痩けた頬。青白い顔に唇だけが異様に赤くて。
 吐き気がした。

 最後に愛生と合ってから、随分痩せた――と思う。奴のことだから、ありがたくも余計な詮索をするだろう。身体の線を隠すようにだぶだぶのボーダーニットを被り、黒のロングコートをその上から羽織った。
 床に散乱している、買っただけで一向に進まない問題集を足で蹴散らしながら玄関まで行き、鍵も掛けずに部屋を出た。

「よぉ! 待ったか?」
 待った。この寒い中、十五分も待たせるんじゃねぇよ。
 そんな愚痴も、愛生の笑顔に押し流されてしまう。いつもそうだ。
「……試験終わったって? お疲れ」
 並んで歩き出した拍子に、愛生は「んー?」と締まりの無い声を上げ、俺の口元に顔を寄せると、クン、と鼻を鳴らした。唇が触れ合いそうな距離にうろたえて、思わず身体を引く。
「なんだよ」
「お前、酒臭ぇぞ」
「あ、やっぱりか? 昨日ちょっと、な」
 どうにか口の端を引き上げるが――上手く笑えたかどうか自信が無い。

 暖簾を潜った途端、聞き覚えの無い専門用語が群を成して耳に飛び込んできた。S大医学部御用達の居酒屋らしい。テーブル席の間を縫ってカウンターまでの間、何人かが「よぉ」と愛生に手を上げた。
 見回せば、いかにも医学生然とした高級そうな衣服に身を包んだ学生が殆どだ。着てきた安物のコートが酷くみすぼらしいもの思えたが、それも三流大学を目指す浪人生らしくて良いだろうと、俺は自嘲的な笑いを漏らした。

 店主が大学のOBとやらで、メニューにまで医学用語が氾濫している。俺にとっては言いようも無く居心地の悪い店だ。そんなことは露ほども気付いていない様子で、愛生は椅子に腰を降ろすなり、
「剣菱、一升瓶ごとね」
 と、店主に告げた。

「三ヶ月ぶりぐらいか?」
「あぁ、そンくらいだな……。大学、どうよ?」
 コップの縁を合わせ控えめに乾杯すると、愛生は一気に酒を呷った。
「……なんとかやってるよ。まだ一年が終わったばっかりだからなぁ。大変なのは二年からだ」
 言いながら、すぐさま手酌で杯を満たす。試験のストレスから開放された愛生の身体は、一途に酒を欲しているようだった。俺も続いて、半ば無理矢理酒を咽に流し込んだ。食事すらまともに摂ってない疲労した胃に、アルコールは鈍痛を伴いながら染みていった。
「色気のある話はねぇのかよ? 花の医学生じゃぁ、誘いも後を絶たねぇんじゃねぇか?」
「そんな余裕があるのは開業医の御曹司だけ。俺みたいな奨学生は、遊んでるヒマなんてねぇよ」
 興味無さげな愛生の横顔を盗み見て、ほんの少し安堵する。
「ストイックだねぇ。高校二年ンときからは想像もできねぇ豹変ぶりだな」
「この調子であと五年だよ。棘の道と書いて医道と読む……好きでやってンだけどさ」
「ハハ……まぁ、頑張れや」
 乾いた笑いと、適当な返事。狭いカウンター席で触れ合いそうな肩に気もそぞろだった。

 不意に、愛生が俺の顔を覗き込むように見た。
「お前、なんか疲れてねぇ? 裏稼業が忙しいのか?……あッ」
「……ンだよ」
「そういや新、今年も受験するって言ってたよなぁ? 試験、いつだよ?」
「ろくに勉強なんかしてねぇんだから、今更関係ねぇよ」
「もしかして呼び出してマズかったか? お前、なんにも言わねぇから……なぁ、試験が近いんじゃないか?」
 ショートホープに火を点け、惚け顔で視線を宙に彷徨わせるが、いつだよ、としつこく食い下がる愛生に俺はついに根負けした。
「明日だよ。K工業大のA日程」
 愛生は眼を見開いて、唖然と俺を見た。やがて心底申し訳無さそうに大きな溜息をつき、「わりぃ」と呟いた。
「どうせ受かりゃしねぇんだから。昨日だって飲んでたって言っただろうが」
 がっくり肩を落とし表情を曇らせている愛生に、何ほどのことではないと言い捨てる。
「……本当、わりぃな。俺、自分の試験が終わったもんだから。新、すぐ帰れよ。せめてゆっくり休んでくれ」
「しつけぇな。わざわざ来たンだから、俺の気が済むまで飲ませろっての」
 受験なんか本当にどうでもいい。大学は、愛生と同じ立場でいたい、という俺の未練だ。あるいは大学に行けば、愛生以外のことに眼が行くかも知れない――そんな淡い期待も抱いていたが、こうやって本人を眼の前にすると、そんなことは有り得ないと痛感させられる。

 いきなり、勢い良く顔を上げた愛生は、
「お前――そうか……うん」
 なにやら一人で納得したように頷いて、
「よし、飲もうぜ。新」
 と、俺の肩を抱き寄せ、これ以上無い笑顔を広げた。



「新! オイ、新! 大丈夫か?」
「……うるせぇなぁ……耳元でがなるんじゃねぇよ……」
 聞こえてるよ、はっきりとな。さすがに足にきてるけど。
 お前の肩に顔を埋めて体重を預けている、この状態が心地良過ぎて。

 愛生は、すっかり酔い潰れて足元の覚束なくなった俺の肩を担いで、居酒屋からすぐだというアパートに向かって歩いていた。
「ナニ馬鹿飲みしてンだよ。俺が散々止めても言うこと聞かねぇしッ! ホラ、階段ッ!」
「わ……ってるよ」
 一歩一歩足元を確かめ、アパートの階段を登る。如何にも侘び住まいの、ベニヤ合板で出来たドアを開けると同時に、互いの足が縺れ合い、折り重なるようにして玄関に倒れこんだ。
 愛生は、俺の腰に手を回し上半身を抱き起こすと、押し殺した声で言った。
「……お前ッ! 新! まだ寝るンじゃねぇぞッ! 明日、何時に起こせばいいんだよ?」
 愛生の息が頬にかかる。その首筋に噛み付いてやろうか。
 ゾクゾクと背中を突き抜けた狂乱に、一瞬翻弄されそうになる。だが、なけなし理性で、俺は愛生の首に回した腕を引き剥がした。

「……水」
「その前に部屋まで行くぞ、いいか?」
 靴とコートを脱がし、愛生は背後から俺の両脇を掴み一気に部屋まで引き摺り上げた。パイプベッドから掛け布団を剥ぎ取り、横たわる俺の身体に丁寧に被せると、冷蔵庫からペットボトルを持ってきて、甲斐甲斐しくも口元まで運んでくれた。

「サンキュー……」
「ベッドで寝るか? ……ッつってもパイプベッドに煎餅布団で床と変わりねぇぞ」
「ここでいい……ヘタしたら吐きそうだからな」
「ザルのお前が、一体どうしたんだよ? 勉強疲れか? オイ。明日、何時?」
「めんどくせぇ……行かねぇ」
「馬鹿言うな。いいか、絶対始発に乗せて、なんだったら付いていくからなッ! 精々、爆睡してろ」
 険のある声でそう言い放ち、愛生は目覚し時計をセットした。時計の針を何度も確認した後、慌しく服を脱ぎスウェットのズボンだけ履くと、愛生は毛布だけの心許無いベッドに潜りこんだ。
 二夜連続で不眠を通した愛生は限界を疾うに過ぎていた様子で、数分も経たないうちに安らかな寝息を立てはじめた。
 俺は、規則的に繰り返される呼吸の弱音を聞いているうち、急速に酔いが覚めていくのを感じた。

 半身を起こし、パイプベッドの端に頬杖を付いて、窓から差し込む月明かりで仄かに稜線を描く愛生の横顔をまんじりと見る。
 まるでガキだ。子供の頃と少しも変わっていない、無防備な寝顔。
 体勢を変え、組んだ両腕に顎を乗せて、愛生を見る。飽きもせず、瞬きも忘れて。

 やがて、瞼に覆われた愛生の瞳が、忙しなく動き出した。愛生の眠りが、より深くなったことを示していた。

 そろそろと両膝を立て、ベッドの上に身を乗り出す。
 僅かに開いた愛生の唇に、ゆっくりと、顔を近付ける。
 そして、口の端に触れるだけの、キス。

 アルコールの残滓と急激に湧き上がった情動が、俺の理性を失墜させた。
「許せよ、愛生」
 慎重に、筋肉の隆起を確かめるように愛生の鳩尾まで手のひらを這わせ、腰に纏わりつく二重に堰き止められた箇所に、指を滑り込ませた。
 寝顔を窺いながらも、指先に神経を集中し茂みを弄り、目的の部位を探り当てた。途端に、俺は逆上に近い興奮を覚え、思わず咽を鳴らした。
 寝息のリズムに合せて息衝く脹らみをできるだけ優しく握り、快感を促す。
 どれだけ危険なことをしているのか――愛生が目覚めれば、今日まで築いてきた友情は瞬く間に崩壊するだろう。だが、抗しがたい、強烈な誘惑だ。
 尖端の敏感な場所を指の腹で擦り上げると、微かな反応が返ってきた。
 すでに尖ったように屹立した俺の性器は、ジーンズの合わせ目を持ち上げて痛いほどだった。片手でジッパーを下ろし、俺は、欲望を躊躇い無く引き出した。
 
 両手の律動をシンクロさせる。怒張した先端からは透明な液が止め処なく溢れ出し、幹を伝い俺の手を湿らせた。愛生も、俺の乱れた息遣いに呼応するように少しずつ昂ぶり、硬度を増していった。

 幾度も、愛生に抱かれることを夢想した。
 今、俺の手の中で愛生が息衝いている。そう思うだけで、眼の眩むような快感が、背筋に噴き上がるのが分かった。

「――ッ…」
 程なく快感の津波が押し寄せ、耐え切れず低い呻き声を漏らした。
 咄嗟に両足を窄め、先端を手のひらで覆ったが――断続的に放出される穢れた粘液は片手に余り、床にポタポタと滴り落ちた。
 俺は、身体を小さく屈めて逆巻く怒涛が通り過ぎるのをひたすら待った。

 汚液に塗れた左手のひらを、呆然と眺めていた。
 俺は、何をした――?
 突然、身を貫くような焦燥に突き動かされ、肘で足元の汚れを乱雑に拭うと、俺は洗面台へと走った。蛇口を限界まで捻り、勢い良く流れ出した水柱に両手を翳す。手の甲に薄っすらと血が滲むほど、爪を立てながら激しく両手を擦り合わた。
 快感の波が引いた後、残ったのは、虚無と絶望――身悶えるほどの罪悪感だった。

「新……? 吐いてるのか?」
 愛生の寝ぼけた声と、パイプベッドの軋む音が響く。
「来るなッ!」
 俺は絶叫に近い怒声を上げた。

 床に放られていたコートを取り、慌しく靴を突っかける。俺は、呼び止める愛生の声から逃げるように玄関から飛び出した。

 夜明け前の街を闇雲に走り、電話ボックスのほの灯りを見つけて、ようやく足を止めた。同時に、眩暈とともに激しい嘔吐感に襲われ、俺は身を二つに折り、水のように粘り気の無い液体を大量にアスファルトへ吐き出した。
「クソッ……!」
 湧き上がる嫌悪に耐え切れず、その場にしゃがみ込んだ。

 きっと、また同じことをしてしまう。
 押さえ切れなくて。
 俺はいつか、愛生を失う。
 刻まなければ――。

 どれだけの時間を過ごしたのか。東の空は、闇色から紫色へと、美しいグラデーションを描いていた。
 電話ボックスに入り、受話器を取る。記憶を辿り、思い出した番号から順にダイヤルしていく。四回目で、やっと目的の人物に繋がった。

「老松か? ……俺。わりぃな、起こしちまって。――なぁ、腕の良い彫り師、紹介してくれよ」
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