獰猛な牙

 埠頭から吹く風は、辺りの彩りと対極を為す厳しい冬色を孕んでいた。東京湾に昇る朝日からこうこうと放たれる暁光が、臨海にたち並ぶ建築群から濃紫色の長い影を映し出していた。
 腕時計の針は六時を疾うに過ぎている。
 真新しいビルのすぐ横に設けられた駐車場には、すでにそれらしき車が数台見て取れた。
 老松はベントレーから降り立つと、コートの襟を立て、東の空を仰ぎ、溜息混じりに白い息を吐いた。剛毅な男は、珍しく疲弊しきったような表情を浮かべ、暫くその場に佇んだ。つい先ほどまで、本家の幹部連と事態をどう収束するか、夜を徹して討議していたのだ。
「――老松さん?」
 運転席から降りてきた山岸が、窺うように声を掛けた。
「なんでもない」
 視線を落とし、三階の窓を見据える老松の眼光は、既に鋭利な勇を湛えていた。


 中央の応接テーブルを囲うように置かれたソファに、一様に険しい皺を眉間に刻んだ成竜会の面々が顔をつき合わせて座っていた。
 老松が姿を現すと同時に、一同は揃って立ち上がり頭を深く垂れた。老松は集まっていた五人それぞれに舐めるような視線を投げながら歩き、最奥の席に悠然と腰を降ろした。
 誰もが遠慮がちに顔を伏せ、畏怖の眼差しで老松を覗き見ていたが、新実匡次だけは違っていた。ひとり気だるそうに壁に凭れ、緩りと煙草を燻らながら、喜色満面で双眼を爛々と輝かせていた。

「タツ、説明して差し上げろ」
 上座に一番近い席に居を構えていた成竜会の長、門田が、隅で小さくなっていた若者にそう命じた。血まみれの三角布を肩から垂らしたその若者が、現場に居合わせた三下なのは一目瞭然だった。若者は、本家の幹部を前にしてすっかり萎縮していたが、やがてしどろもどろに語りはじめた。
「……はい、あの……ウチがエンソ代わりに緑を納めていたクラブが、支払いを二ヶ月も遅らせまして……散々俺が追い込みかけてたんですがダメで、兄貴が手伝ってやるって……。そんで昨日、<花舞>に乗り込んだんです。そこで、たまたま呑みに来てた黒部の連中とバッタリ会っちまって……」
 要領を得ない説明に老松は苛立った。テーブルの上に置かれていた木製の小箱を開けドライシガーを一本取り出すと、専用のカッターでその先端を切り落とした。
 ガスライターの着火音に、タツと呼ばれた若者はビクリと肩を弾ませて、そのまま黙り込んでしまった。
 重苦しい沈黙が続く中、老松の底暗い怒気と反して、葉巻から絶え間なく立ち上るバニラの甘い芳香が部屋中を満たしていった。

「要は……」
 新実が口火を切った。
「ウチが面倒を看てた店が仁斗系列の黒部組に鞍替えしやがった。シメに行ったら現場で見事に鉢合わせ。……で、撃ち合った結果、舎弟頭が四発食らって、即死って訳です――それから……」
 壁から身を剥し、壁沿いにゆったりとした足取りで老松に近寄ると、ソファの背凭れに片手をつき、
「つい一時間程前、アチラさんもあの世に」
 そう言って、新実は不遜な薄笑いを浮かべた。
 新実が言った程度の情報は疾うに老松の耳に届いていた。老松は、新実をチラと見遣り、そして意図的に無視するように視線を流した。
「ケツ持ちのバッティングなんて、あの辺じゃぁ珍しくないだろうが……。門田さんよ、アンタは組員にどういう教育をしてんだ?」
「どうやら黒部の奴等、かなり酔っ払ってたらしいんです」
 一家の当代を担う男にしては、あまりにも頼りない口調だった。葉巻の煙に顔を燻され、必死に眼をしばたたかせている様は滑稽にすら映る。新実の兄貴分だったというだけで、つい二年前に跡目を継いだばかりの門田は、傀儡でしかなかった。しかし、この場で新実をでしゃばらせては、老松の思惑を遂行するのに手間取る破目に陥るのだ。

「先に発砲したのは向こうとはいえ、威嚇だったそうじゃねぇか。えぇ? いくらアンタんとこが武闘派を気取ってたって、チャカの抜き所ぐれぇは教えてんだろ?」
 はぁ、と気の抜けた返事をし、門田は新実に助けを求めるように目線を泳がせた。
「老松さん……この際、どっちが先に抜いたなんて、どうでもいいじゃないですか。ヤクザが喧嘩で負けたらお終いですよ。きっちり、落とし前つけさせて頂きます」
 先ほどまでおどけた調子で話していた新実が、敵意ともとれる闘志を剥き出しに、老松に詰め寄った。
「戦争ですよ、戦争。何年仁斗会と小競り合いを続ける気なんです? ウチが派手に花火打上げて、この際、新宿ごとプレゼントしますよ――。幸い、金には困ってない。二、三ヶ月組員を潜伏させるくらいの余裕は……アッ!」

 空気が突如凍りつき、重く圧し掛かった。その場に居た一同は、悪鬼の如く豹変した老松の形相に釘付けになっていた。
 ソファに置かれた新実の手の甲には、焼けた葉巻の先が押し付けられていた。
「……クッ!」
「ガキが、くちばし挟むんじゃねぇよ」
 新実の手首を鷲掴みにし、強引に捩じ上げる。老松は、葉巻の先を潰すほどの勢いで、更に強く火元を押し付けた。
「まさか……手討ちなんて……言うんじゃないでしょうね……」
 皮膚が焼ける激痛に身を震わせながらも、新実は狂気を孕んだ眼差しで老松を睨み据えている。
「そのまさか、だ」
 静かな物言いには、威迫と、恐ろしいほどの凶暴さが含まれていた。葉巻の火が完全に消え、白煙が上ったのを合図に、老松はようやくと新実を解放した。新実は、震える手で襟を正すと、ギリ、と歯の軋む音を唇から漏らし、老松を視界の端に捉えながら、灼けた手の甲を労わるように舌で舐めた。

「老松さん、いつから穏健派に成り下がったんです? 十年前の抗争で大暴れして今の地位を手に入れた貴方が」
 新実は、噴き上がる怒火を必死に押し殺していた。
「前の小せぇ抗争とは訳が違う。今、宇田川と仁斗なんて巨大組織が正面からぶつかってみろ。数億の金が飛ぶ。両方弱体化して、新宿どころか東京ごと外国勢に……」

 バンッ、という轟音が老松の言葉を遮った。
 新実が、思い切り拳で壁を打ち据えていた。壁紙は放射状に裂け、石膏板と断熱材の綿がぱっくりと開いた穴から顔を覗かせいた。

「アンタはッ……! あんとき先頭切って綺麗に踊ってみせたじゃねぇかッ! 俺は……アンタと一緒に暴れたいんだよッ!!」
 普段の怜悧な仮面を脱ぎ捨て、惜しげもなく醜態を晒す新実に、老松を含む全員が眼を見張った。
「勘違いするんじゃねぇぞ。匡次、所詮お前は『枝』の一人に過ぎん……。だが、お前はこの世界に向いてるよ。戦争なんかしなくても、上を狙える」
「俺は……俺は、アンタに頭を取って欲しいンだよッ! そのためにヤクザやってんだッ! 身体張って、歌舞伎町を取ってみせる。なぁ、俺にやらせてくれよッ……!」
 新実は、それが己が未来の全てだと言わんばかりに、咽奥から哀願に近い悲痛な声を迸らせた。

 しかし、新実の抗弁は空しいものに終わった。老松は、時間の無駄とばかりに顔を叛けた。
「門田さん。今回の『間違い』は本家が正す。異例なことだが、場所が歌舞伎町で相手が仁斗となれば……致し方ねぇよなあ? 騒ぎが収まるまで、組員の首根っこしっかり押さえてとけ。特にコイツを、な」
 老松はそう言い放つと、真っ二つに折れた葉巻を新実の胸元に投げつけてから、部屋を後にした。新実は、血の滲む両拳を握り締め、暫くその場に立ち尽くしていたが――。


「待ちなよ」
 山岸を伴い、ベントレーに乗り込もうとしている老松に、新実が背後から歩み寄り、静かに声をかけた。 振り返った老松は、新実の姿を見て取るなり、わざとらしく肩を落とした。
「前当代のよしみで、部屋住みンときからお前を可愛がってきたが……。匡次、破門状貰いたくねぇなら、今は大人しくしてろ」
 理解を超越した怒りが、新実をかえって無表情にさせているようだった。感情の読み取れない不気味さが、爬虫類を彷彿とさせた。
「あの、代打ちだな……? アンタを腑抜けにしたのは」
「お前なぁ……」
 心底呆れた声音が、自然と老松の口から漏れた。

「アイツはな、金髪のガキが好みだってよ……。わざわざここまで見物にきたくらいだからな」
 新実のその言葉に、老松は思い当たる節を見つけ、片眉を跳ね上げた。しかし、新と己の関係に執拗な拘りをみせる新実に、これ以上関わりたくないのが本音だった。
「付き合いきれねぇよ」
 と吐き捨てると、老松は、くるりと新実に背を向け、ベントレーの後部座席へと身を屈めた。

「――殺してやる」
 老松は、再びゆっくりと振り返り、新実を見た。一体誰を殺したいのか、その対象は曖昧だったが。
「やってみな……てめぇのはらわた引きずり出して、犬に食わせてやる」
 眦を吊り上げた、老松の凄まじい殺気を迸らせる二つの目が、真直ぐに新実を睨み据えていた。
「男狂いが」
「てめぇほど、狂ってねぇよ」
 名状しがたい驚異が、新実を捉える。
 この、獰猛な牙を剥き出しにした老松の姿こそ、新実の求めていたものだった。
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