慟哭

 肩が疼くように痛い。指先も、心なしかまだ震えている。
 左脇に挟まれた鉄の異物が、愛生の全身の骨を軋ませていた。

 初弾を放ったときの衝撃は二の腕が肩に喰い込むかと思うほど凄まじいものだった。トリガーを引く度に銃は暴れ、振動し、照準を狂わせた。撃ち終えた頃には銃身が焼けつき、グリップを握る指は焦げていた。
 十メートルと離れていない距離からターゲットに向け、愛生は合計五十六発の弾丸を放った。人型のシルエットを辛うじて撃ち抜いたのは僅か十七発、出来の良い銃ではないから、とスキンヘッドの男は憫笑を浮かべながら慰撫の言葉を愛生に投げ掛けた。
 百万もの大金を叩いたのは、偉力と、自信を同時に手に入れられると思ったからだ。しかし今、愛生の心中を占めるのは不安と焦燥、自らの甘さに対する腹の底から湧きあがるような怒りだった。

 新と約束した時間までには、まだ三十分ある。一度、自宅へ戻ろうか――。『橋』へと続く道の曲がり角に立ったその時、愛生の心に一抹の迷いが生じた。
 未だ生々しく甦る忌まわしい死の記憶から、否応無く突きつけられるであろう現実から、新から逃げたい――それが愛生の本心だった。
「いや……」
 緩やかに首を左右に振った後、顔を上げ道の先を見据えると、愛生は力強く足を踏み出した。

 新興住宅地に於いて十三年とは、辺りの景色を一変させるに充分な年月だった。事故の日の、あの燃えるような黄昏の太陽は姿を潜め、暗澹たる雲がどんよりと空一面を覆っていた。すっかり様変わりした風景と暗い冬の空が、今の愛生には救いだった。

 橋が見えた。錆付いた欄干も、電柱の落書きも、まるでその周りだけ時の流れから取り残されたように、当時のままだった。
 柵の袂に、小さな花筒に生けられた数輪の冬バラを見つけ、愛生の顔が絶望的に歪んだ。咲き誇る冬バラは、漆黒の闇に朱墨を垂らしたような鮮烈さで、愛生の眼窩を、胸を痛打した。

 間違いない、月命日に、父が朝一番に温室で咲いた冬バラを、成水に捧げたのだ。
 長きに渡り繰り返されてきたあろう、父の追悼の祈り。
 自分は――何も無い。供物一つ、花一輪すら成水のために用意してこなかった。考えも及ばなかった。
 手にあるものといえば、どす黒い鉄塊だけだ。

 愛生の心に、冷たい大きな塊りが現れた。塊りはやがて細かい粒に砕け、神経を伝いゆっくりと体中に拡散した。言いようも無い悲しみが、愛生の全身を支配していく。
「……成水ッ……!」
 崩れ落ちるように、アスファルトに膝を付いた。記憶の中の成水が、儚げに微笑んでいる。静かで――とても穏やかな笑顔だった。
 愛生は身を震わせ、慟哭の涙に頬を濡らした。


「天下の往来で、三十男が泣いてンじゃねぇよ……。見っとも無ぇな」
 何時の間にか新が、愛生の傍らに立っていた。その横にはハルカが、カサブランカの花束を抱え新の影に隠れるようにひっそりとしていた。
「……俺、最低なんだ……何も、成水に何にも……」
 悲痛に擦れた愛生の声に特別反応も示さず、新は、無表情を繕っていた。ハルカは、欄干に花束を立てかけ、手を合わせている。
「てめぇの煙草、よこしな」
 コートの袖で涙を拭い、愛生は内ポケットからハイライトを取り出した。新は身を屈め、蝋マッチをアスファルトで擦りハイライトに火を点すと、そっと縁石の上に置いた。
「なに……すンだよ」
「線香代わりだ」
「成水が、煙たがるじゃねぇか。喘息だったんだぞ?」
「喘息も何も、もう死んでンだ。抹香臭ぇより、なんぼかマシだろ?」
 愛生はもう一度袖で頬を拭うと、「全く、お前らしいよ」と、 泣き笑いのような笑みを顔中に広げた。

 二人は欄干にもたれ、黒く淀んだ川面を無言で眺めた。
 ドブ河とはいえ、昔は川底に沈むゴミが薄っすら確認できる程度の透明度があった。汚染の進んだ河は、改めて長い月日の経過を愛生の心に浸透させた。自身も、このドブ河同様に汚れてしまったような、愛生はそんな錯覚に襲われていた。
「生きてたら、二十五か……。アイツは国語が得意だったから、きっと文系の大学卒業して、就職して――今頃、可愛い彼女ぐらい作ってたかな?」
「くだらねぇこと考えてんじゃねぇよ」
「いいじゃねぇか。成水、あのまま成長してたら、俺らと違って爽やか好青年になってたぜ? オンナが放っておかねぇよ」
「所詮、生きてるヤツのマスターベーションだ。意味がねぇ」

 成水について触れないのが、長らくの不文律だった。成水が他界してから、ほんの些細な思い出すら、二人の会話に上ったことは無い。今更のように追想に耽る愛生に、新は苛立ちすら覚えていた。思い出話に花を咲かせるために、愛生をこの場所に呼び出したわけではない。

「新……。俺、病院辞めた」
 新は別段驚きもせず、薄暮の漂い始めた冬空に、視線を流した。
「何も、言わねぇんだな」
「馬鹿に何言っても、無駄だ」
 愛生は確かにな、と苦く嗤った。

「……新?」
 新の横顔に、滲み出るやつれを見て取った愛生は、怪訝に首を傾げた。お前、とその肩に手をかけようとした拍子に、新は逃げるように欄干から離れ、橋から河川沿いの道に続く階段を降りた。コンクリート塀に片肘を付き佇んでいる様は、愛生を呼んでいるようだった。
「そうだったな」
 と小声で漏らし溜息を吐くと、愛生は新の後に従った。

 二人は塀に身を凭れさせ、並んで座った。ハルカは気配を殺し、少し離れた場所で二人の様子を窺っていた。新が口火を切るのを、愛生は待っていた。

「金髪はな、成竜会に買われた男娼だ。一晩、五百で売れるって代物だぜ? 元金回収せずに新実が手放すわけはねぇよな? それに、運が悪けりゃすでに日本人の養子になってる。助け出したところで、立派な誘拐罪だ」
「未成年に売春させンのはどうなんだ? 誘拐がなんだってんだよ」
「そういうの、なんて言うか知ってるか? ボランティアってんだよ。頼まれても無ぇのに『助ける』だなんて息巻いて……笑えるよ。サツとヤクザに追われて、てめぇは一生金髪の面倒が看れると、本気で思ってンのか?」
 愛生が怯むほど新は冷静で、いつになく饒舌だった。続けざまに正論で責めたてられ、愛生は言葉を失った。

「お前がそこまで金髪に入れ揚げる理由はなんだ? たった四回偶然会っただけで、アイツのことは何にも知らねぇじゃねぇか――アイツは成水じゃねぇよな? 分かってるよな?」
 子供に諭すように新は言葉を選び、愛生を追い詰めていった。その淡々とした口調の奥底には悲哀が漂っていた。無駄な足掻きであることを、新は充分に理解していた。
「確かに……。今日、ここにきて改めて自覚したよ。成水を失った喪失感が、どれほどのものだったのか……。否定しない。俺はショーンに、成水を重ねてる。でも、もうどうしようもない。あの瞳が、俺を獲りこんで離さねぇんだ」
「一時的な衝動だ。愛生、冷静になれ。死んだ弟の代わりにしようってンなら、悪いことは言わねぇ、他をあたりな」

 重苦しい沈黙が続いた。新の傍らで、不安そうにハルカが二人の様子を窺っていた。
 愛生はふと天を仰ぎ見、大きく息を吸い込んだ。
「新……。成水と同じ瞳を、俺はアメリカで見た。脳みそ切り取られた老人だ。心臓だけ動いてる、死体だった。だが、ショーンは違う。成水とも、あの老人とも違う……。生きてンだよ、新。死んでるのは心だけで、脳みそは生きてンだよ。今行動しないと、俺はきっと一生悔やむことになる。頼む、アイツの居場所を教えてくれ」
 愛生の言葉は、揺ぎ無い意志を誇示するかのように、新の耳に届いた。
「金髪を誘拐して……のうのうと日本で生活できるなんて、まさか思ってねぇよな? なにもかも失っても、それでも金髪を助けたいのか? 父親を……失っても?」

 愛生。
 俺を――俺を失っても?

 愛生には、新の言葉の影に潜む思いを推し量る余裕などなかった。
「親父には……話す。暫らくの間、身を隠してもらう」
「覚悟は、とっくに出来てるってわけか」
 新は表情も無く、愛生から顔を叛けるように橋向こうに見える街並みに視線を転じた。ハルカだけが、悲愁に沈む新の心に感応し、苦しげに眉根を寄せ、俯いた。

「コートん中のそれ、出せよ」
 新が言う『それ』が、一体何を差しているのか――愛生は、まさか、と硬直した。
「……さっき、煙草出したときか?」
 新の観察力に驚嘆しながらも、愛生は強情に首を左右に振った。よこしな、と新が語気を荒げる。
 結局、眉尻を吊り上げた新の迫力に気圧され、愛生は左脇から短銃を抜き出し、新に手渡した。
「馬鹿が、硝煙臭ぇんだよ」
 銃から弾倉を外し、実弾を全て抜き去ると、新はスッと立ち上がり、躊躇い無くドブ河へと投げ放った。
「何すんだよッ!」
 慌てて、川面に身を乗り出した愛生の目前で、金色に輝く八発のカートリッジは暗い川底に瞬く間に吸い込まれていった。
「弾は装填してねぇよな? もう一つマガジン、あるだろ? 自分で捨てろ」
 愕然と川面を眺める愛生に、追い討ちをかけるような命令口調で、新は言った。
「……てめぇが人間に銃口向けられるような性格かどうか……大体、医者が銃持ってどうすんだ? てめぇの頭は、そんなことも分かンねぇぐらい、金髪にイカれちまったのかよ? あぁ?」
「クソッ!」と忌々しげに吐き捨てると、愛生はポケットから引き抜いた実弾入りの弾倉を、力いっぱい水面に投げつけた。
「お前の言う通りだよッ! 馬鹿野郎――ッ!!」

 怒鳴った後、名残惜しげに、広がる波紋を見つめる愛生を横目に、新は空の弾倉をグリップに戻した。
「トカレフだってだけで、充分脅しになるから安心しろ。おおかた、大金を叩いたんだろうが……てめぇにゃ玩具で充分だったんだよ」
 言うなり、新は今やただの鉄塊と化したトカレフを、愛生のコートのポケットにねじ込んだ。馬鹿野郎、と愛生はもう一度、弱々しく呟いた。

 新が意味有り気な視線を送ると、ハルカがバッグから一本のビデオテープを取り出し、愛生に手渡した。
「なんだよ、コレ」
「観りゃわかる。それ観て気が変わらなきゃ……明日から、有明近辺のビジネスホテルに泊り込め。必ず携帯が繋がる場所にいろ。昼夜問わず、俺から連絡があったらいつでも動けるようにしとけ」
 そう言い捨てて、身を翻した新の背後から、愛生が切羽詰った声音で呼び止めた。
「待て、話が違う! お前を巻き込むつもりは無い! 場所を教えろ、それだけでいいんだ!」
 愛生に力強く肩口をつかまれ、新はゆっくりと振向いた。暗鬱な影を落とす双眸で冷たく愛生を睨み据え、
「てめぇ一人が勢い込んだところで、金髪は助け出せねぇよ。今は大人しく俺の言うこと聞いてな」
 振り払うように肩を揺すり、新は踵を返した。ハルカは、愛生に向け軽く会釈を送ると、新の後を追った。
「新! 勝手に危ねぇことしやがったら、一生お前を許さねぇからな!」
 新は、振り返りもしなかった。

「ふざけやがって」
 全ては、己のためなのだろう――そうは理解していても、愛生は、新の背中に、一言悪態を吐かずにはいられなかった。
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