虚の住人

 部屋に帰って来るなりウィスキーの瓶に手を伸ばす新に、ハルカがミネラルウォーターのペットボトルをこれ見よがしに目の前に突き出した。一瞥はくれたものの、首を一振りしてその気遣いを無下にすると、ショートホープを咥え、ベッドに凭れ掛かるようにして、新は両足を投げ出した。
 ただ黙って煙草を燻らせ、ウィスキーをボトルごと呷る新――ハルカにとっては見慣れた光景だった。しかし、『気』だけが不気味に張り詰めている。愛生と橋で別れてから、ハルカは、新に話しかけようと口を開くたび、続く言葉を飲み込んでいた。

 突然、新が喉の奥で低く笑った。噛み殺した自嘲的な笑い声が、薄暗い部屋に寒々と響いた。
 新は、具体的な策を練り上げた上で、愛生に啖呵を切った訳ではない。裏の世界に通じてはいるものの、老松の媒介無くしては、何も成す事が出来ない己に、今更嘲笑したのだ。宇田川会専属の代打ちであることが、今の新には重い足枷となっていた。

 逃走に必要な資金は、それ相応の場所に行き、成金の道楽麻雀に付き合えば、ほんの数日である程度用意できるだろう。足の付かない盗難車、偽造旅券の類は、宇田川の息が掛かっていない裏ルートから入手しなければならない。一時的に二人を匿う場所も必要だ。
 なにより、ショーンが新実の事務所に囚われている以上、成竜会と黒部組のその後の経過を知らなければ動きようが無い。

「……俺は、本当にバカだ」
 笑い声の最後に、新はぽつりと呟いた。
 キッチンで紅茶葉の入った四角い缶にスプーンを差し込んでいたハルカが、「何か言った?」 と訊きかえす。
「ハルカ。お前……車、運転できるか?」
 手を止めて、ハルカは困惑した表情で新を見た。
「私、こないだ十八になったばっかりだよ? 忘れちゃった?」
 ――そうだ。なぜこんな馬鹿げたことを口走ってしまったのか。
 冷静さを失っているのは愛生ではない、他ならぬ己だと気付いて、新は再び苦く笑った。

「運転できる人、必要なの?」
 マグカップを片手に戻ってきたハルカはベッドに腰掛け、酷く神妙な顔で床の一点を見据えている新を窺い見てから、
「お兄ちゃんや愛生さんじゃダメなの?」
 尚も尋ねると、「なんでもない、忘れてくれ」と言ったきり、新は口を閉ざしてしまった。

 ハルカは今日一日、これから起ころうとしていることを必死に推理していた。新からは、一切説明らしきものを聞いていない。橋での二人の会話から鍵となる言葉を拾い集めて、極めて漠然とした経緯が、ハルカの頭の中で組み上げられていた。
 カップをテーブルに置き、数秒間の沈黙を埋めるような語勢の強さで、ハルカが言った。
「男の子をさらったあと、運ぶための車が必要なんでしょう? 二人を隠す場所もいるよね。私、心当たりあるよ。お客さんでね、山中湖に使ってない別荘があるから一緒に行こうってしつこく誘ってくる人がいるの。組とは全然関係無い人だし、理由を言わなくても貸してくれると……」
 新は、矢継ぎ早に話しかけるハルカを遮るように大きな音を立ててウィスキーのボトルを床へ置き、立ち上がった。
「これ以上、首を突っ込むな」
「……どうして? 仲間はずれにしないで。私だって協力したい」
「あのバカのために、お前が身体張ることねぇんだよ」
「違う、お兄ちゃんのためだもん」
「……それこそバカらしいから止めろ」
 まるで他人事のような口調で言い捨てて、玄関から出て行こうとする新の背に向けて、
「私のためでもあるのよ! またどっかへ消えちゃったら、許さないから!」
 ハルカは、涙混じりの声で叫んだ。


 大掛かりな抗争へと発展すれば、絶妙なバランスで保たれていたアジア最大の歓楽街、歌舞伎町の利権は揺らぎ、地下勢力図が大きく変わる可能性もある。発砲事件の今後を、固唾を呑んで見守っているのは、報道陣ばかりではない。歌舞伎町の夜の住人、とりわけ外国から来て根を張ったアウトローの集団は、機に乗じて利権を得るために情報を掻き集めているだろう。

 新宿には、外国人マフィアの息が掛かった店が何軒もあった。留学生や観光客の溜まり場となっているだけの飲み屋もあれば、武器を隠し持った怪しげな連中が出入り口に立ちはだかり、問答無用で日本人を追い返す物騒な店もある。
 雀荘も多い。新は、そのうちの一軒が、日本人相手にイカサマ麻雀で荒稼ぎをしている店であることを知っていた。上手くすれば、その筋の外国人と卓を囲むことができるかもしれない。茶飲み話を装って、事件の暗部とその状況を、ニュースなどより余程詳しく聞きだせる。
 新は歌舞伎町の最深部へと、足先を向けた。

 ハルカのマンションを出て数分、明治通りにぶつかったところで、「本告さん」と、不意に背後から呼び止められた。振り向くと、フルフェイスのヘルメットを被り、黒い皮のバイクスーツに全身を包んだ男が立っていた。路肩に停められている、くたびれたバイクの持ち主であることは、すぐに分かった。
 男が、ヘルメットのシールドを上げると、見慣れた愛嬌のある顔が覗いた。
「……山岸?」
「まさか歌舞伎町へ行こうってんじゃないでしょうね? 今日だって、笹塚の事務所に来たそうじゃないスか。老松さんに近づくなって言われてたでしょ? お願いですから、ムチャしないでくださいよ」
「見張り役って訳か……。冗談じゃねぇ、帰んな」
 踵を返した新の肩を、山岸が掴む。
「そうはいきません。目を離すなって言われてんスから」

 新は、山岸に向き直り、その身体を品定めするように見ながら、にやりと笑った。
「なら……テクは期待しねぇから、お前が俺の相手してくれるかなぁ?  最近ヤッてねぇからタマッてんだよ。てめぇのコレを――」
 突然、股間をわし掴みにされ、山岸は驚いて腰を引き、よたよたと後退った。
「も、本告さ……」
「俺に突っ込んでくれんのかって……訊いてんだよ、山岸ィッ!」
「じょ冗談無しですよ! 老松さんに殺されますッ!」
 とんでもない、と真っ赤にした顔の前で手を振る山岸を一睨みして、
「邪魔すんな。二丁目界隈ブラついて、ちょっと楽しんでくるだけだからよ」

 じゃあな、と背中越しに手を振って歩き出した新の肩を、再び山岸が引き戻した。
「分かりました。……ラブホ嫌いなんで、俺ん家でいいっスよね? ここからバイクで五分とかかりませんから」
 威嚇のつもりで吐いた嘘に、山岸は意表外の反応を返した。表情は真剣そのものだ。腕を引かれバイクの傍まで半ば強引に連れて行かれたが、新は、半信半疑のまま喪心したような表情をしていた。山岸は、バイクに跨り、スターターを数回キックしてエンジンを掛けると、
「寒いですけど、ちょっとの我慢ですから」
 そう言って新に、自分のヘルメットを被せた。荒々しいエンジン音とともに、足元に白煙が舞い上がる。
 新は、考えを変えた。老松の雑用係として動いている山岸と一時を過ごせば、事件の経緯と成竜会の動きを聞き出せるかもしれない、と。


 市ヶ谷の裏路地にある、寂れたスナックの前で、バイクは停車した。店の看板は無残にヒビ割れ、灯りはともされていない。ドアの傍らには、放置され雨ざらしになった新聞紙と、郵便物が山となっている。随分前に営業をやめてしまったようだ。
 新は、バイクから降りてヘルメットを脱ぐなり、溜息を吐いた。
 シノギを持たない若い構成員が、女の住まいに転がり込むのは良くあることだ。まさか『彼女』の眼の前で、行為に及べということか。

 しかし、予想は裏切られた。
 スナックの内装をそのまま残した室内には、ボディガードを絵に描いたような屈強そうな男二人、そして見覚えのある幹部候補の男三人が車座になり、中心には老松がいた。山岸が何かを耳打ちしている間中、老松はドアの前で呆然と佇む新を、射るような眼差しで見据えていた。

 暗殺者が、出世と懲役を掛けて命を狙うのは、いくら有能とは言え、新実のような若い幹部では無い。裏社会の誰もがその名を知っている、老松のような男だ。老松がどう動くかによって、情勢は大きく変わる。抗争の序盤で一気に名を上げようと、功を急ぐ敵方の若者は少なく無いだろう。
 この場所が、数ある隠れ家の内のひとつだと新が悟ったのは、老松の分厚い手のひらが目前で高々と振り上げられた時だった。

 頬に痛みを感ずる間も無く、新の身体は宙に舞い、派手にテーブルや椅子を巻き込んで、床へと弾き飛ばされた。新の胸倉を尚も掴んで、その身体を易々と引き上げた老松の顔には、どす黒い怒りが広がっている。
「ウロチョロしやがって、どういうつもりだ?」
「……アンタが……言ったんじゃねぇか。前に進めってさ……」
「てめぇの問題と、新実と金髪。分かるように説明しやがれ」
 新は、鮮血が滴る唇の端を不敵に歪めて、「なんのことだ?」と白々しく惚けて見せた。
 脅しも暴力も、新の前では無意味だ。新が一言、『知らない』と言えば、例え銃口を眉間に突きつけてもその口が真実を語ることはない。そんな新の性格を、老松は熟知していた。

 力任せに新をソファへ投げ飛ばすと、老松はネクタイの結び目を解いた。
「欲求不満だってなぁ? なんなら、ここにいる全員で可愛がってやろうか? こいつら、今回の事件で鬱憤堪ってるから、男だってお構いなしだろうよ」
 老松の悪意に満ちた威迫は、新の口元から笑いを奪った。
 殺気立ったいくつもの眼が、明らかにこの場から遊離した存在を、興味深げに注視していた。山岸だけが、心配そうにこちらを窺っている。

 唐突に咽の渇きを覚えて、新は唾を飲み下した。
「へぇ……そりゃ、願っても無い。下だけ脱げば用は足りるよな?」
 半身を起こし、事も無げにコートを脱ぎ捨て、ズボンの合わせ目に手を掛けた新の頬に、二度目の鋭い痛みが走った。ここ数日ですっかり体力の失われた新の身体は、脆く床に崩れ落ちた。

 仰向けに横たわる新の霞がかった視界に、見下ろす老松の怒りに歪んだ顔だけが、不思議と鮮明だった。
「新実が、お前を狙ってるかもしれねぇ。戦争できねぇ腹いせにな。どっちにしろ、手打ちが済むまで組の周りは危険だ。これ以上ウロついたら、縛り上げてでもお前を自由にさせねぇから、覚悟しとけよ」
「新実が? 俺を……?」
 その理由を考える前に、自虐的な笑いがまた込み上げてきた。
 新実を事務所から誘い出すエサは、己自身だったのだと、確信したからだ。
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