泥梨への道程

 縄張りの見直し、見舞い金の査定、手打ち盃を交わす期日の調整――。双方、すでに同等の死者が出ているこの場合、通例ならば、調停は円滑に進む。
 しかし、政治的な思惑が錯綜する裏社会の均衡は、常にぎりぎりのところで保たれている。最早問題は枝同士の小競り合いでは無くなっていた。
 ここ数年でにわかに台頭してきた成竜会を疎ましく思い、混乱に乗じて血の粛清を決行しようと殺気立つ宇田川直系の組も多い。つまり、内部抗争勃発の危険性も多分に孕んでいるのが現状だ。
 また、宇田川と対立する仁斗会の幹部の中には、『抗争なき時代』に終止符を打ち、細分化しすぎた新宿の勢力図を一新し、外国人や関西の権勢に、関東の力を示威する良い機会だと言い出す者もいた。
 発砲事件を文字通り引き金にして、乱闘騒ぎが新宿のあちこちで巻き起こっていた。
 早々に事態を収束しなければ、新宿の夜の治安は完全に失われ、血で血を洗う凄惨な争いが始まる、まさに一触即発の状況にあった。

 歴史こそ浅いものの、物量では宇田川を凌駕すると言われている仁斗会と、大規模な抗争に発展するかどうかの瀬戸際、その仲裁を一手に請け負っている老松は今、分刻みで動いていると言っても過言ではない。
 そんなことは、新も十二分に承知している。だが、引き下がれない理由があった。

「欲求不満は本当なんだぜ? なあ……一回相手してくれりゃ、アンタの言うとおりに大人しくしてるよ」
 人目も憚らず耳元に唇を寄せてそう囁きかける新に、老松はただ冷ややかな眼差しを返すだけだった。非情さを滲ませた老松の眼光は鋭く、大抵の男は一瞬にして沈黙するが、新相手では、その睥睨も虚しいものに変わる。
「俺は、どこで待ってたらいい?」
 囁く声音を艶めかして、新は尚も迫る。挑発する瞳の奥にちらつく、狂気じみた不穏な光が老松の関心を引いた。
「お前は、今回の事件に自分は無関係だと思ってるかもしれねぇが……違うぞ。俺はお前との関係を隠していない。お前の柄をさらって、どうにか利用しようって輩も、いねぇとは限らねぇんだからな」
 新は、一度胸に当てた右手を宣誓するように掲げて、「自重する」と言った。酷く演技めいたその行為を、老松は忌々しげに見た。
「……三日後に連絡する。それまで、女のところで大人しくしてろ」
 老松の肩を軽く叩いて「待ってるよ」と、らしくない笑顔を広げ、
「新宿以外で麻雀打つぐれぇはいいよな? 俺、貧乏でさ」
 新は、明るい口調でそう言い残して、ドアを開けて待っていた山岸の後に従った。
 三日の猶予は、新にとっても好都合だったのだ。


 ハルカのマンションに到着し、タンデムシートから降りた新に、山岸が「すいません」と、心底申し訳無さそうな顔を向けて呟いた。その情けなく眉尻の垂れ下がった顔を覆い隠すように、新は、借りていたヘルメットを山岸の頭に被せた。
 エレベータを待つ間、エンジン音が消えたのを合図に、新は自動ドアの外にさっと視線を流した。山岸は、路肩へと移動したバイクに寄り掛かり、丁度タバコに火を点そうとしているところだ。被せたはずのヘルメットは、ハンドルからぶら下がっている。
 どうやら立ち去る気配は無い。
 予想通りだったとはいえ、新の口からは溜息が漏れた。エレベータの到着を待たずに、新は自動ドアまで取って返し、煙とともに凍えた息を吐く山岸に向かって、こいよ、と顎をしゃくった。
 
 ハルカは、部屋に居なかった。夜十時半時過ぎ――仕事に出かけたのだ。コートを床に脱ぎ捨て、ベッドに腰を降ろすと、新は、床に置いたままになっていたウィスキーのボトルを取り、所在無さげに玄関に佇んでいる山岸を手招いた。
「こっち来て二、三杯、付き合えよ。身体、あったまるぜ? ……襲ったりしねぇからさ」
 山岸は困惑した表情を浮かべてから、「じゃあ、一杯だけ」と言ってバイクブーツのジッパーに手を伸ばした。

「代打ち風情の見張り番なんて……お前も損な役回りだな」
 言いながら新は、テーブルに置き去りにされていたマグカップの飲み口についていた口紅を、シャツの袖で拭った。ウィスキーを注いで差し出すと、「役得ッスよ」と八重歯を覗かせて笑い、山岸はカップを受け取った。
「新実は……有明にいるのか? 俺、狙われてンだろ? 居場所くらい知っておきたいじゃねぇか」
 悴んで震える手で、溢れそうなカップをようやく口元まで引き寄せ、一口啜ってから山岸は答えた。
「匡次さんは今、謹慎食らってます。しばらくはあの事務所に缶詰でしょうね」
「紅白の狂犬も、当然一緒だろうな」
「そりゃぁ……匡次さんの右腕ですから」
「さしずめ、襲撃に備えて組員大挙して戦闘体勢ってところか?」
「まさか。あそこは運送会社に完璧に偽装したビルですから、そんなハデなことはできません。『道具』だって置いてないし、兵隊だって……いても二、三人です」
 『道具』とは、銃器類のことだ。新は、世間話に興じるような軽やかさで、言葉を継いだ。
「新実が大人しく引き下がるとは思えねぇな。中国人雇ってでも、相手幹部のタマ取りに行くんじゃねぇか? そうなったら抗争は避けられねぇよなぁ……」
「破門状喉元に突きつけられちゃ、匡次さんだって手打ちまで黙って見てるしかないです。俺も詳しくは知らないんスけどね――」
 新の真意など知る由もなく、山岸は訊かれたことに次々と素直に答えていった。そして宣言通り、一杯飲み終えると、山岸はまた路上へと戻っていった。


「――ッてぇ……あのクソ親父……」
 アルコールのせいか、老松に殴られた頬が今更疼きだして、新は毒突いた。
 空になったボトルを床に転がし、部屋中見回して酒瓶を探したが、見当たらなかった。むくりと身体を起こしてキッチンまで行くと、流し台の隅に、紙パックにプラスチック製の小さな口がついた料理酒があった。それを片手に部屋へ戻り、新は、ベッドに身を沈めた。

 愛生は、もうあのビデオを観たのだろうか?
 観たに決まっている。帰るなりビデオデッキにテープを差し込んだだろう。恋焦がれている少年が、映ってるかもしれないのだから――。
 暗鬱とした影が、新の胸を領していく。脱ぎ捨てたコートまで腕を伸ばし、ポケットからホープと――新の指先は少し迷って、そして携帯を取り出した。

「よぉ……。ビデオ、観たか?」
 返答は無い。流砂のような、微かなノイズだけが新の鼓膜に虚しく響く。
「金髪の美少年が、ヤられまくってンの観て……興奮して声も出ないか?」
 長い沈黙の後、新の揶揄するような物言いに、明らかに怒気を篭らせた愛生の声が返ってきた。
『一分一秒でも早く、ショーンを助け出したい』
「焦るなよ。一つ……訊きてぇンだけど」
 奇妙な可笑しさが込み上げてきて、新は、一度携帯を口元から離した。
『……なんだってンだよ?』
「結構な見物だったろ? 愛生……おっ勃ったか? あのビデオで、抜いたか?」
『ふざけンのもいい加減にしろッ! そんなわけ無いだろッ!?』
 割れんばかりの怒声。愛生が怒りを露わにするほど、反比例するように可笑しさは胃の中で容積を増し、新の喉奥を激しく突き上げた。ともすれば高らかに笑い声を上げてしまいそうなのを既に堪えて、新は、「また電話する」とだけ告げ、一方的に通話を切った。

 訪れた静寂とともに、飲み下すのにあれほど難渋を極めた笑いも、一瞬にして消え去った。
 愛生は、大勢の男たちに犯され、喘ぐ少年を目の当たりにして、間違いなく涙を流しただろう。ならば俺は笑い飛ばしてやろうと、幼稚な復讐心が発作のように新の中に沸き起こったのだ。

 脱力して視線を虚空へ投げ出すと、いつの間に帰ってきたのか、ベッドに横たわり料理酒を呷る新を、コートを着たままのハルカが呆れたような顔つきで見下ろしていた。だが、眼差しはなだらかだ。
「お兄ちゃんって、本当に滅茶苦茶な人ね」
「……聞いてたのか」
 世間の母親たちはきっと、こんな風に優しげな顔で我が子を叱るのだろう。ぼんやりそんな事を考えながら、しかしハルカの姿を認めて滲み出たのは、妹に抱くような愛おしさだった。どちらにしても家族を知らない新には、自身で説明のつかない酷く曖昧な感情だったが。
 新は、ハルカの細い手首を取って、引き寄せた。

 山岸から情報は得られたが、その代償として自由を奪われた。
 期限は三日――。
 山岸の眼から逃れるのは、そう難しいことではない。だが、騒ぎになって失踪の背景を探られ、愛生と少年の繋がりを暴かれることを、新はなにより恐れていた。
「ハルカ……。お前を、頼っていいか?」
 首を突っ込むなと言った舌の根も乾かぬうちに、全く正反対の言葉を吐く口を新は嫌悪し、その声は喉を無理やり抉じ開けたように細く、擦れていた。
 新の胸元に頬を摺り寄せて、ハルカは力強く頷いた。ハルカにとっては、新と共に危険に身を投じることが、己の存在意義を得られる唯一の糸口だったのだ。


 それから三日間――。新は、マンションの一室で人目を忍ぶように開催されている、所謂『マンション麻雀』と呼ばれる高レートの場に赴き、昼夜問わず入り浸りで麻雀を打った。山岸が足代わり兼ボディガードとして常に新について回ったが、ドアの中までは入場を許されなかった。麻雀を打たない者が意味も無く場に居合わせることは、『通し』というイカサマをやっているのではないかと、問答無用で疑われるからだ。
 そうして山岸の眼から免れることも、新の計算のうちだった。

 バブル経済の終焉から久しい昨今、世間の常識からかけ離れた高いレートで麻雀を打つのは、余程の金持ちか裏プロの雀士、若しくは借金で首が回らなくなり、最期の望みを麻雀に託す者――その何れかだ。
 逃走や偽造旅券にかかる費用を稼ぎ出すことはもちろん、新にはもう一つ、目的があった。

 新は、一人の男に眼をつけた。如何にも気の弱そうな風貌でその顔色は青褪め、懐が窮迫しているのが一目瞭然だった。男は『重田鉄工所』と刺繍された作業着を羽織っていた。事業の資金繰りに詰まって首を吊る前に、残りの人生を賭けてこの場にやってきたのだろう。
 新は、容赦なく集中的にその男から上がり続け、三半荘も終わろうという頃、男の負け分は三百万近くに膨れ上がっていた。愕然と顔を強張らせる男を洗面所へ呼び出し、新はある話を持ちかけた――。


 老松から新に連絡があったのは、四日目に差し掛かる寸前の深夜だった。
 山岸に誘われ新が訪れたのは、小石川にある豪奢なマンションの一室だった。昼間であれば、小石川植物園の広大な緑が窓一面に広がり、さぞ見応えのある景色だろう。
 家具も調度品も煌びやかなヴィクトリア調のアンティークで統一されていた。バスルーム以外は全て部屋続きで、ワンルームのような間取りだが、室内は四十畳はあろうかという広さだ。
 新は、軽くシャワーを浴びた後、背枠に細やかな細工が施されたソファにシャツ一枚を羽織った姿で足を組み、テーブルの中央に鎮座していたえらく高級そうな葉巻を吹かしながら、老松を待った。

「随分、らしくねぇ隠れ家だな」
 やがて現れた老松に、新は肩を竦めて、おどけた笑顔を見せた。
 老松は、数日前と寸分違わぬ険しい表情で、無言のまま新を見下ろしている。
「なンだよ、まだ怒ってンのか……?」
 新は、葉巻の先を灰皿に押しつぶして、おもむろに立ち上がった。いきなり唇を重ね、貪りつくすかの勢いで舌を絡めあわせながら両手で老松のスーツの裾をたくし上げ、情欲を煽り立てるように脇腹を弄る。その時――新の指先が不審に動いたのを、老松は気が付かなかった。

 長いキスが終わると、誘う新の艶めいた視線を冷たく撥ね返して、老松は言った。
「タマってンのは本当だって……言いたげなキスだな」
「……当たり前だろ?」
「誘ったのはお前だ。俺がシャワー浴びてる間に、自分で……前も後ろも、準備しとけ」
 羞恥に、眉間に緊張を走らせた新を満足そうに見て、老松は片頬だけに酷薄な笑みを浮かべた。

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