思惑

 鼻腔を突く何か果物のような香りも、今は、新を不愉快にさせる要素の一つでしかない。
「――ちったぁ甘い声上げて恥ずかしがってみろ。可愛くねぇなぁ……」
 傍らで葉巻の煙を燻らせている老松が、事務的に動く新の手を注視しながら憐れむように言った。
 新の前は不十分な昂りを示していたが先端は乾いていた。「手伝ってやろうか?」と、野卑な笑いを声に乗せて耳元で囁きかける老松に、新が、煩わしそうな眼を向けた。
 まだシャワーの水気を含んで、毛先に雫が光る前髪を掻き揚げて、老松はゆっくりとした動作で葉巻の火先を瞬かせた。

 乏しい成果を面白がっているように、しかし眼窩には静かな怒りを滾らせて、老松は口腔に溜め込んだ葉巻の煙を、新の顔に向けて一息に吐き出した。
「尻突き出して待ってるかと思いきや……まだまだじゃねぇか」
「つまんねぇことさせやが……て……。話し、かけンな……気が散――ッ……」
 深閑としていた室内に、咽が軋んだようなくぐもった呻きが響いた。何の準備も無しに、自らの指を後ろに突き入れた新が、思わず漏らした苦鳴。老松の瞳に、暗く陰湿な光りが揺らめく。短絡な思考に支配された新の自慰行為は、老松に別の満足を促すための嗜虐に満ちたものだった。

 結果だけを導き出そうと尚も内壁を抉る新が、裂ける痛みに肩を震わせ半身を反らしたとき――背中のカードを垣間見た老松の表情から、歪んだ愉悦が消えた。火先を砕く勢いで灰皿に葉巻を押し付け、足を組み直す。
「……あ、……クッ……」
 新は、性器を扱いていた右手を咄嗟に喉元にあてがい、嬌声を殺すように自分で首を締め上げた。肌は興奮に染まって艶めき、中心はにわかに息衝いて鈴口から透明な液が溢れた。
 ようやく望んだ兆しが訪れたというのに、老松の底冷えするような眼つきは変わらない。
「――ッ……もう……いいだろ……? 早いとこ、突っ込んでくれよ……」
 しな垂れかかる新をベッドへと突き飛ばして、老松はゆらりと立ち上がりバスローブの腰紐を引き解いた。前が開けて、老松の充分に猛りきった肉茎が露わになる。その昂りを持ち上げて苦笑し、
「ざまぁねぇな。欲求不満は俺の方だ」
 言いながら老松は、新に圧し掛かった。熱を確かめようと下肢へと伸びた新の手を掴み、強い力で捻り上げる。
「あッ、痛ぅ……! なんッ……」
 老松は、新の胴に跨るようにして一気に上体を引き起こし、シーツの上に投げ出されていたもう片方の腕を取り、素早く新の胸の上でその両手首を纏め上げた。新は、一瞬信じられないものを見るような視線を老松に投げ、次に肩を揺さぶって逃れようともがいたが抗いが功を奏することは無く、老松は易々と腰紐で新の両手首を縛り上げてしまった。

「昔は随分お前の身体で遊んだが、最近は全然だったな。たまにゃぁいいじゃねぇか、こういうのも」
 無理に引き抜こうとすれば、いっそう腰紐が食い込む。それが分かった新は、見下ろす老松の顔に冷ややかな眼を向けてから、全身の力を抜いた。
「他の男に抱かれたこともねぇくせに、山岸と……本気でヤるつもりだったのかよ?」
 新は頷いて、老松を往なすように唇の端を吊り上げた。
「フラれちまったけどな」
「奴の取り得は、どこまでも忠実で馬鹿正直だってところだ。だから傍に置いてる」
 興味無いと言いたげにフイと顔を背けた新の顎をすくって上を向かせると、老松は静かに言った。
「新――。お前の狙いは何だよ?」
 尋問口調にうんざりしたように眉を顰めて、
「ヤりてぇだけだ。山岸でも誰でも良かったんだぜ? 邪魔しやがって」
 挑戦的に言う新に老松はやれやれと肩を落として、「そうじゃねぇだろ?」と呆れ声で呟きかけた。新の奇行の影にちらつく男の姿が誰であるかを、老松は確信していた。だが、新の口から語られる真実など、端から期待などしていない。
「萎えちまうよ……」
 早くしろ、と新が急き立てる。
「お願いします、だろ?」
 新の瞳の奥に侮蔑が広がった。口が裂けても言わない台詞だと知りながら、沸々と湧き上がる腹立たしさに促され出たその一言を掻き消すように、老松は性急にバスローブを脱ぎ捨て、新の上体を抱き起こすと、差し出された細い舌を自身のそれで絡め取った。


 新は、老松の行為を歓迎するように進んで身体を開いた。快楽への道筋を辿る指先と舌に首を振り立て、時折もどかしげに腰を揺すって老松を誘う。
 老松の唇は慈しむように、そして思い出したように歯を立て肉を食み、紅い痕跡を残しながら新の身体中を這い回った。手では間断なく屹立した新自身を攻め立て、新が息を弾ませて射精感を訴えると、根元を締め上げて潮を塞き止めた。

「くそ……ッ! いい加減に…しろ……しつけぇぞ……」
 中途半端に官能を煽るだけの老松に苛立った新が、堪らずに悪態を吐いた。
 心なしか潤んだ新の双眸をチラと見遣って、老松は尖り勃った乳首を舌で弄いながら、右手の中指を一気に後腔へと潜り込ませた。同時に円を描くように内部をかき回すと、新の腰がいっそう大きく弾んだ。
 刺激が襲うたびに締まる内部の感触と温もりを存分に楽しみながら奥へと指先を進め、更に老松は、十字に組んだ手首を額に掲げる新の、無防備になった脇腹を擽るように撫で上げた。
「は、ぁ……ッ……焦らす、なよ……」
 掠れ声で挿入を急かす。性感を同時に幾箇所も突かれ耐えかねたのか、新は背を深く仰け反らせ、内股に引き攣ったような震えを絶えず刻んでいた。

 老松の唾液に塗れた新の快感の中心は、疾うに限界だと強く訴えている。
「イきたいか? それとも入れて欲しいか?」
 苦しげな吐息をつく新は、だが素直に頷いたりはしない。老松はシーツに横臥する新に跨り、欲望に滾る性器を見せ付けるように両膝立ちをした。新は、老松の下肢を一瞥して小馬鹿にしたように鼻で哂い、
「舐めてやろうか……? 腕、解けよ」
 拘束された両手を老松の眼前に差し出した。
「大して上手くもねぇくせに。……なんでてめぇみたいな厄介なのに惚れちまったんだか」
 自嘲気味に言って、老松は新を抱き起こした。両腕を老松の首に掛けるようにして身を委ねた新の眼は、一杯に見開かれ、困惑を色濃く湛えている。
「……なんだよ?」
 眼差しの意味を汲み取れずに、老松が新の顔を窺うように覗き込んだ。
「あんた……もしかして、本気で俺に惚れてんのか? いつもの冗談だろ……?」
 肯定する返事を待って、おどけた口調で新が言う。
「お前、俺をただの物好きだと思ってたのかよ? 惚れてなきゃ、こんなクソみたいなセックスに付き合わねぇよ」
 みるみる新の表情が翳るのを見て、老松は小さく舌打ちした。
「後ろから抱かない訳が今頃分かったか? てめぇのその背中を見るとな、生皮剥いで絞め殺してやりたくなるんだよ。――いいか、新。この身体、俺以外の誰かに触らせやがったら、俺は相手もろともお前を殺す。俺が独占できンのは、この身体だけなんだからなぁ」
 新の伏せられた睫毛が、微かに震えている。
「そういう湿っぽいの、やめてくんねぇかな……。あんたの柄じゃねぇよ」
「ほざいてろ」
 顔に苦い笑いを刷いて、新が、また赤い舌を差し出してくる。老松は水音を奏でながら新の舌先を吸い立て、脇腹に添えた手でその腰を緩やかに落としていった。

「ん、ぅッ……」
 浅く繋ぎ合わせただけで、新が絡み合わせた舌の隙間から低い呻きを漏らした。
「キツいか? まだイかせて貰ってねぇしなぁ」
 含み込まれた部分から駆け上る高まりが、老松の声から余裕を奪っていた。首を振って先を促す新のこめかみから流れた汗の一滴が頤から首筋へと伝わり落ちた。その雫を舐め取って、
「後ろでイけよ」
 老松は、腰を進めた。
「あぁ……ッ、あ……」
 苦痛と快感の狭間で昂りを持続してきた新は、堪らずに嬌声を迸らせた。

 縛られた両腕を投げ出し双の脚を開いて痴態を晒す姿が、老松に新しい興奮を呼び起こさせる。幾度も身体を重ねてきたというのに、不思議と新の肢体に穢れを感じることはない。その聖域を犯す罪悪感と高揚感は、初めて新を抱いたときから変わらずに老松に甘い疼痛をもたらした。
「戦争なんかに……ならねぇよな」
 うわ言のように新が言う。
「ならねぇよ。俺が生きてる限りはな」
 押し返す内壁のうねりが、強い刺激となって反復して老松を襲う。ゆっくり、先端で内部を抉り、繰り返し貫く。
「あッ……あ、んたが死んだら、困る……」
「性欲処理の、……相手がいなくなったら困るか? 笑わせンじゃねぇよ」
 新は、目前まで迫ってきた絶頂に総身を波打たせ、
「ちが……俺の、居場所が――無くな……」
 続く言葉は、上擦った喘ぎに変わった。
 掻き消された最後の一言は、皮肉と嘘に塗り固められた新の口から我知らず漏れた『本音』だと、老松は直感的に悟った。
「本当に、殺してやりてぇよ。お前を」
 威嚇する言葉とは裏腹に口許には微笑みを湛えて、老松は新の半身をベッドへと沈め、容赦ない律動を始めた。



「なぁ……。俺、しばらくここにいていいか?」
 ワイシャツに片袖を通した老松の背中越しに、新が気怠げに声をかけた。約束の時間を過ぎたのだろう。インターホンから、老松を呼ぶ三度目のチャイムが響いた。
「あぁ? 居心地悪いだろ? なんせ、ついこの間まで銀座のママさんの住んでた部屋だからなぁ」
「山岸が四六時中貼り付いてんの……女の手前、ちょっとな」
 言い難そうに声音を曇らせる新に、
「別に構わなねぇけど、あと一週間はフラフラすんなよ」
 老松はポケットから鍵の束を抜き出して、ベッドへと放り投げた。毛皮のキーホルダーがついた鍵の束を見て、新は、「鍵までケバいな」と吐き捨てた。

 シーツを身体に巻きつけて胡坐をかき、咥え煙草でぼんやり老松を見ていた新は、ふと思いついたように言った。
「新実がさ、あんたがヤキが回ったのは、俺のせいだって言うんだよ。……そうなのか?」
 新実の名を聞いた老松は、声にあからさまな怒気を篭らせた。
「ヤキが回ってンのは奴の方だ」
 四度目のチャイムが鳴った。すっかりスーツで身を固めた老松の英姿は、情事の直後だなどと微塵も匂わせていない。足早にベッドへと歩み寄り、新の顎を乱暴に掬い上げキスを落とすと、老松は、颯爽とした足取りでドアへと歩を進めた。
「俺の――俺の死体で良けりゃ、あんたにやるよ。それで許してくれるか?」
 いつになく縋るような新の声。老松は、ドアノブに掛けた手を止め、心底不愉快そうな顔を新へと振り向けた。だがすぐに踵を返し、無造作に肩に担いだコートの裾を翻してドアの向こうへとその姿を消した。

 錠の下りる金属音を合図に、室内に重い静寂が訪れた。新は、スタンドライトの影に隠すように置かれていた携帯を手に取り、口許に運んだ。
「……しっかり聴いてたか? 粋な生中継だったろ……?」
 新はそれだけ言って通話を切り、いくつかボタンを操作をして携帯に残された履歴を全て消去した。

 バスローブを羽織ってベッドから抜け出し、飾り棚に並んだ酒瓶から一本を選んで、窓辺に立つ。眼下に見えるエントランスに横付けされていたベントレーが走り去るのを見送ってから、
「新実……。早く俺を殺しに来い」
 そう呟いて新は、ウイスキーを一息に呷った。
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