Deadly Game -1-

 老松がこの部屋を去ってから、片手を数えた。そしてまた一日、何も起こらずに終わろうとしている。
 飾り棚の一角を占めている豪奢な置時計は、容赦なく時を刻み続けている。新は、盤面の秒針をしばらく眼で追い、日付が変わると同時に、室内へと視線を巡らせた。
 ドアの前には、ダイニングセットからひとつはぐれた椅子が、出入りを遮断するように鎮座していた。その椅子の上から尻をずり落としそうになりながら、山岸が転寝をしている。昼間は賭場へ、夜は、まんじりともせず酒を飲み続ける新に明け方まで付き合い、身辺の世話まで焼いている彼にとっては、今晩あたりが体力の限界だったのだろう。
 ここ数日間で山岸に熟睡が許された、ただ二回のチャンス――それは、新がハルカとともにネオンの虚飾を纏うホテルへと姿を消してからきっかり二時間――それだけだった。張り番として、山岸は忠実に老松の要求に応えている。だが、外部から遮断された空間で、新とハルカが交わした酷く物騒な内容の会話を、山岸は知らない。

 昼間、新の足元に転がっていたウィスキーの空瓶を見かねた山岸が、「アル中になりますよ」と皮肉を言いながら片付けた。煙草に至っては、空箱をいくつひねりつぶしたか数え切れない。待ち人の到来までに一体何本の酒瓶を空にすればよいのか――新は、ぼんやり考えながら、残り少なくなったスコッチウィスキーをサイドテーブルの上へ滑らせ、窓枠に肘をかけた。僅かに開いた窓から忍び込む冬の冷気がカーテンの裾を泳がせ、新の息を濁らせる。日が落ちてからは、こうして同じ姿勢で窓辺に佇み外を眺めている新を、山岸が不審がって幾度も問いかけてきたが、新は、曖昧な返事を返すだけだった。

 白山通りの四車線道路から外れて、こちらへと近づいてくるエンジン音が聞こえてきた。へたりきったサスペンションの上に過積載のせいか、ゆるいカーブでもタイヤが悲鳴をあげていた。マンション前の小道に姿を現した、草臥れたエンジン音の主は、ペンキで汚れた脚立をルーフに乗せた白いバンだった。
 四肢は汚泥につかっているように重かったが、頭は冴え冴えとしていることを、新は不思議に感じていた。眠くならず、酒を飲んでも五感が淀むこともなく、小さな音にも神経は鋭敏に反応する。新は、車軸を軋ませながら薄暗がりへと消えていくテールランプを見送って、また大通りの騒音へ意識を戻した。

 埠頭で新実と唇を重ねたあの日、怨嗟の声に滲み出ていたもの。唯一を渇望するあまりに、おそらく新実の中で生み出され続け、止め処なく膨れ上がったその不気味に凝り固まっている集塊は、ほんの小さな火種でも爆発しそうな危うさで、新に迫ってきた。一度身を任せてしまえば、理性も人格も拉げてしまうだろうほどの、新実の中に秘められた狂的な熱。
 ――切っ掛けは与えた。
 新は、必ず勝てる賭けであると確信していた。

 蒼黒のガラスの向こう側に透けてぼんやりと瞬く白熱灯に、ふと老松の顔が重なる。別れ際に見た老松の表情は、胸糞悪そうに眉根を寄せ、冷光を瞳に宿していた。
「いらねぇよな……。死体なんか、誰も」
 全くくだらないことを言ったものだと、鼻で哂った。笑みが漏れた口元を指で確かめるように触れ、新は、笑っている己がまた可笑しくなって笑った。従容として死を待つとはこういうことか、と妙な感心をして、新は再び聞こえてきたエンジン音に耳を澄ました。


 それから数時間――新が、この窓辺から眼下を行過ぎる車を数えだしてから四十二台目となる気配が訪れた。低く、調律されたように一定の音階を刻む静かなエンジン音。近づいてくる低音の方角に顔を向けると、黒いワゴンが、するりと小道に滑り込んできた。ベンツでも、新実のアルファロメオでもない。しかし、カーブで減速することなく、滑らかにステアリングをきる様は、長髪の若いドライバーの姿を想起させた。窓の全てをスモークで包んだワゴンは完全に闇に溶け、車体を形作るのは、漆黒を這っては消えていく街灯の滑った光だけだった。異様な黒い塊は、迷うことなく、天然石で惜しみなく飾り立てられたマンションの、地下駐車場へと潜っていった。
「随分、待たせてくれたな」
 新は、ゆらりと立ち上がった。ソファに脱ぎ捨てられたジャケットのポケットから、ステンレス製のウィスキースキットルを取り出し、キャップを捻る。そして小さなクッションをひとつ手に取り、その中心部にスキットルの口を逆さにして当てた。

「……山岸、起きろ」
 不意に肩をゆすられ、転寝を続けていた山岸は、半開きの眼で眩しそうに新を見上げた。
「すンません。俺、寝ちゃって……」
「悪ぃな。ベッドまで運んでやりてぇけど、時間がねぇや」
 山岸の朦朧とした視界を、突如、暗い影が覆った。
「……なにを……ッ! 本告さ……ッ」
 異臭に激しく咳き込みながら、顔一面に押し付けられた柔らかい何かから逃れようと山岸がもがいた。体温で瞬間的に気化した、クッションに含まれた液体――ジエチルエーテルはすぐさま山岸の肺胞を満たし、血液へと溶解していった。闇雲に振り回されていた腕はやがて力を失い、山岸は朽木のように椅子から崩れ落ちた。

 新は、横たわる山岸の傍らに、古い型の無骨な携帯電話を置いた。そして、液晶画面にビニールが貼りついたままの真新しい携帯電話をポケットから取り出し、十一桁の番号を順に押す。ゆっくりと耳へと運ぶと、すでに通話状態であることを示すノイズが流れ込んできた。
「……メモなんて取るんじゃねぇぞ。全部、頭にたたきこめ」
 新の呼びかけに、静かなノイズが答えた。返事がないことこそ、向こう側に確かに愛生がいることの証だった。これから己が語るであろう言葉に、意識の全てを向けている。ノイズは、愛生の血管の隅々にまで駆け巡る、血液の音のようだった。

 用意された箇条書きの原稿を読み上げるように指示は端的に伝達され、「わかった。後でな」という愛生の一言で、通話は終了した。あるいは今の一言が、二十五年来の親友と交し合った数多の言葉の最期だったのかもしれない。そう気づいてしまえば、瞬く間に追懐の映像が脳裏に展開された。新は、液晶画面のバックライトが消えるまで、“通話終了”の文字を眼で惜しんだ。
「後で……、か。……どこまで目出度ぇんだか……」
 呟きながら、老松のものをそうしたように、新は携帯電話の履歴の全てを消去した。必要最低限の機能しか備えられてない新の携帯電話は、手のひらに収まるほど小さなものだった。高機能な携帯など新に与えても意味が無い、という老松の判断は正しい。お陰で新は、難なくそれをトイレに流し去ることができた。

 もう一杯飲めるかと、サイドテーブルへと一歩踏み出した新の背に、まるで古いリボルバー銃の撃鉄を起こしたような、血腥い音が貼りついた。続けて、三度。ドアの中心部から同じ金属音が発せられ、高級マンションのそれとは思えないほどあっけなく、ディスクシリンダー型の鍵は開いた。
「……鍵師もやるのか。犬のくせに器用だな」
 新は、スコッチのボトルに視線を止めたまま、わざとらしい賛嘆を込めて言った。我が家に帰ってきたかのように何の警戒もなく、灯りの下にスッと長身を晒したのは、神藤義直だった。神藤は、だらしなく足元に横臥している山岸に一瞥を投げ、「準備は万端、と言う訳ですか」と、やや懐疑的に呟いた。程なく、金属製の細い二本の棒を手にした赤い髪の男――戸田栄進が顔を出す。
「俺が呼んだのは、新実だ。犬じゃねぇ」
 “犬”と呼ばれることをむしろ歓迎するように、戸田が不遜に口辺を曲げた。二人は、新を促すように沈黙して、扉の向こう側に蠢いている暗闇の前に立っていた。



 分厚い防弾ガラスが夜の街並みにある何もかもを歪めていて、胸が悪くなりそうだった。パワーウィンドウのスイッチを操作して風と冷気を呼び込むと、新は、ショートホープに火を点けた。細い裏通りを我が物顔で走り抜けるトラックの轟音に紛れ、重力に押しつぶされたが如く低い車高の車――赤いアルファロメオがすぐ後ろに静黙として追走していることに、新は気が付いていた。
 城とも言える組事務所を、血で汚したがる極道はいない。予想はしていたものの、この道が有明へと続く道ではない、むしろ遠ざかっていく道であることを、新は誰へとも無く感謝していた。出会い頭にこめかみに一発、という最悪の事態を逃れられたことも――。己に向けられた新実の嗜虐心が、そんなつまらない終幕で満足するわけがない。
 
 警察や報道関係者のみならず、闇に暗躍する屈強な男たちをも震撼させた、三年前に川崎港に浮かんだ男の死体。『京浜運河の肉』と聞けば、裏社会の人間が未だ眉を顰めるほど、かつて人であったその“物体”が斯界に与えた衝撃は大きい。
 身体中には死に至らしめない程度の裂傷が隙間なく刻まれ、肩から上は、頭髪を一本たりとも残さないまでに無残に焼け爛れていた。歯という歯は歯肉が捲れあがり骨が覗くまで削られ、顔面の二つの窪みに本来あるべき水晶体は抉り取られ、鋭利な刃物によって切り取られた男根は、後の司法解剖で男の胃の腑から半ば消化された状態で発見された。特に深い疵口のうちの数箇所には、男をただ生かしておくためだけに、治療の施された痕跡が残っていた。中途半端に噛み切られた舌は、死にも勝る苦痛に耐えかねてか、男が自殺を図ったことを示していた。
 そもそも、多くの証拠を現場に残してしまう、血を流す殺人は好まれない。時として残虐な殺人方法が選択されるが、それは『見せしめ』という明確な理由のある、ごく特殊な場合に限る。今や回顧的にしか語られなくなった任侠道ではあるが、斯界には暗黙の掟が根強く残っている。何がしか重要な秘密を吐かせるための手段として行われる私刑に、“サディズム”と呼ばれる異常性が入り込む余地はない。
 しかし、川崎港に浮かんだその惨たらしい肉塊は、死刑執行人が、死に至らしめる過程を“愉しんで”いたことを雄弁に物語っていた。そして、その死刑執行人こそ『新実匡次』だという各所に実しやかに流布された噂は、三年が経過した今、ほぼ断定的に語られるようになった。

 新は、少なくとも四、五時間は新実の足を留めておきたかった。銃弾の一発による幕切れでは、その願いは叶わない。それだけの時間があれば、愛生は少年を救い出し、一時的とはいえ追手の目の届かない場所まで逃れることができる。新実と、新実の傍らで常に牙を剥いている凶悪な二匹の番犬さえいなければ、高校時代に悪童としてそれなりに名を馳せた愛生にとっては、少年を連れ出すのはさほど困難な作業ではないだろう。
 新は、昨今では滅多に行われることのなくなった『手打ち式』を、今回の『間違い』に限っては秩然と執り行う、という情報を山岸から仕入れていた。大組織の主だった面々は仲裁の場に集合する。警護に借り出される兵隊も尋常ではない数だ。例外なく、成龍会からも多くの若者が召集されているだろう。抗争を望んでいた不穏分子である新実に、老松がつけたであろう見張りも、手打ち式目前とあっては、手薄にならざるを得ない。
 式の執行日こそ新に知る術は無かったが、今、新実がすぐ後ろにいるという事実。あらゆる幹線道路に設けられているであろう検問所を避けるように、裏通りを選んで走る黒いワゴン。それらは、手打ち式が明日であるという証明に他ならない。闇の世界の眼という眼が厳粛な儀式へと向かい浮き足立つその日の前夜は、組事務所に忍び込む絶好の機会と言えた。



 外壁の朽ちかけた無機質な建物が点在する、街灯ひとつ燈されていない闇に覆われた一帯は、空洞化し長年放置された広大な工場用地であることが窺い知れた。いつの間にかアルファロメオは姿を消し、新を乗せたワゴンは、アスファルトの舗装道路から外れ、随分昔に廃線になったと思しき錆付いた貨物用線路の上を走っていた。枕木をひとつ乗り越える度に激しく車体が振動する。鼻腔をつく生臭い潮の香りは、水の傍は便利だと言った、新実の言葉を新に思い起こさせた。
 数分不快な振動に耐えたところで、線路の片側を取り囲んでいた厳つい鉄柵と鉄条網は、車一台が辛うじて通れるだけの幅をすっぱり取り除かれていた。小回りが利くとは決して言えない車体を戸田は見事に切り返し、掠り傷ひとつつけることなく隘路を抜ける。その先には、夜目にも異様に白く浮かび上がる様が不気味な建造物が峙っていた。
 新と神藤を降ろすとすぐに、戸田は車を発進させた。しばらくして、消えたワゴンの代わりに、深紅のボディを美しく磨き上げた外国車が現れる。
 
 軽く手を上げた拍子に、車を降りる直前に戸田にはめられた手錠が、カチャリと軽快な金属音を発した。
「よぉ――。最近、よく会うな」
 愛しい恋人でも見るように眼を細めた新に、新実は苦笑を漏らした。
「あんな電話を俺に寄越した訳を、ね……、どうしても知りたかったんですよ」
 にやりと笑って、新は気安い口調で返す。
「てめぇなら、俺を楽しく甚振ってくれると思ったんだよ。――最近、燃えねぇんだ。あいつとヤっても」
「へぇ、本告さんに、そういう変態趣味があったとはね」
 新実は、痛烈な蔑みを込めた視線で新の身体中を嘗め回しながら、ゆっくり近づいてきた。
「本告さん、知っていますか? この場所はね、食肉処理場……つまり……」
 新の耳元まで顔を寄せて、新実は途端に声を潜める。
「屠殺場だったんです」
 新は、そのまま首筋に這わされた新実の舌を迎え入れるように、顎を引き上げた。
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